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日蓮大聖人・池田大作

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結実  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
11  前年の一九四七年(昭和二十二年)七月二十二日、それは第六十四世法主となった日昇の代替の式典が行われた翌日である。御影堂で開催された「講頭会」の折のことであった。
 全国から講頭や各寺院の世話人など三十人が、新法主の出席のもとに参集していた。戦後、最初の講頭会として、重要な集まりであった。だが、焼亡した客殿の再建を、積極的に口にした者は、一人もいなかった。
 問題は、総本山運営のことについてである。約九十町歩(九十ヘクタール)の農地を失った、総本山の目下の財政問題が焦点となったのは、当然のことであった。しかし、直ちに名案が浮かぶはずもなかった。
 北海道から来た一人の資産家の講頭は、総本山の維持運営について、どのくらいの赤字かと執拗に問いただしていった。無理からぬ話である。具体的な数字が出ると、宗門の誰もが口をつぐんでしまったのである。真剣に宗門の維持発展を考えているとは、とても思えなかった。
 富士宮のある講頭は、「しっかりした法華講の組織もない状況のなかで、少数のわれわれだけが集まり、論議し、決議しても、それが実行できるのか」と、総本山当局に疑問を呈した。
 当時、講頭は全国で三十六、七人を数えていた。その講頭らが集まって、総本山再建の最も重大な会議を行っているにもかかわらず、意気は上がらなかった。ある講頭などは、信心よりも目先のことにとらわれて、わが身の保身が大事に映っていたのである。
 話は、法華講の組織の問題にそれたり、機関誌の問題に飛んだり、布教活動が話題になったりして、また自然に財政問題に戻ったりしていた。
 北海道の講頭や、東京のある講頭は、「総本山維持は、われわれの責任であるが、今後の財政を明確にするために、総本山当局に、おいては、決算報告をすべきである。われわれは、いかようにしても協力するが、要するに出しがいのあるようにしていただきたい」などと言い立てていた。
 講頭たちは、膨大な赤字財政に悩む総本山側を、なにかと責めることによって、責任を回避しようとしたのである。
 この時、戸田城聖は、いたたまれなくなって発言を求めた。
 戸田は、この日、いかなる議題についても、自分の意見を言うまいと心に決めていた。総本山の荒廃は、わかりすぎるほどわかっている。容易ならぬ現状も、彼は、まさしく目にしていた。しかし、彼自身も事業再建の緒に就いたばかりであり、彼の率いる創価学会も、第一歩を踏み出したばかりである。
 僧俗一致して広宣流布に邁進していくために、総本山の復興は、彼の切なる念願ではあったが、今、戸田とその弟子たちは、それだけの実力のないことを知らねばならなかった。彼には、実行不可能なことを、口にすることは、とうていできなかった。
 戸田は、心のなかで、つぶやくのであった。
 ″この戸田が、必ず総本山を再興してみせる!″
 彼は、黙して語らずにいたが、他の講頭たちの目にあまる姿に、いたたまれなくなって発言を求めた。
 「収支決算うんぬんと言うこともよいが、国滅びた今日、いかにして布教し、国を救うかということが、私たちの最大の関心事でなければならないと思う。このほかに、大事はありません。もはや、広宣流布の時は来ている。
 当面の問題は、次の三点にあると私は思う。
 第一に政策、第二に哲学、第三に折伏です。
 第一の政策とは、信心においても、世間的にも、実力のある信者を、会長なり総講頭なりにして、寺院教会から、離れて活躍させるべきです。
 第二の哲学とは、大聖人の時代は、四箇の格言であったが、今は、それだけを振り回してもだめです。現代では、人間を駄目にしたり、無気力にするような悪思想、悪主義を叩き壊すことです。大聖人が説かれた生命の大哲理を、真っ向から振りかざしていかなければなりません。
 第三の折伏とは、なぜ折伏をするか、折伏しなければならないかを、誰でも理解できるようにして徹底することです。
 以上の三点を、着々と実行すれば、広宣流布の実現も、総本山の復興も成ると思うのです」
 この三点は、戸田の胸中に納めていた、戦後の学会の指針と実践でもあった。
 宗門はもちろん、講頭たちも、枝葉末節の問題にとらわれ、戸田の意見を、正しく理解できる者は、ほとんどいなかったといってよい。全国から集まった講頭たちは、ただ経本や数珠の不足を、しきりに訴えているばかりであった。
12  この時から一年四カ月、今、客殿の復興は、ともかく成ったのである。
 落慶の法要は慶讃文を終わり、自我偈の読経に入り、唱題に移っていった。
 戸田城聖は、その時の講頭たちが、今日も晴れがましく出席している姿を見ていた。しかし、共に死身弘法を語るに足りる一人の講頭もいないことを、寂しく思った。結局、彼および彼の弟子たちのほかに同心の人はなく、創価学会の使命の重大さを、双肩にひしひしと感じたのである。
 式典は進んでいく。
 堀米宗務総監、高野復興局長の喜びのあいさつがあって、復興局の細井庶務課長が、喜色満面、事務報告として経過を述べていった。
 ――本年一月に復興計画を発表し、三月に予算二百万円で、建築許可を取り、四月から七班に分かれて全国に役員を派遣し、供養を推進。七月十一日に着工、総本山所有の木材をもって建設を進め、八月二十二日に上棟式を挙行した。以来二カ月余にして落成した次第である。
 また、細井は、現在までの収入額は、二百五十四万三千九百余円、支出額は、二百四十四万五千九百余円で、未完成の部分もあるが、寄付の予定額の範囲内で完成させるよう、努力する旨を語った。
 このあと、六人の祝辞があった。いずれも、天高く連山は紅葉に燃え……といったようなことから始まる、美文調の形式的な話が、長々と繰り返されていた。
 ただ一人、戸田城聖のみが、簡潔に意を尽くしてのあいさつであった。その言葉は、慈折広布への赤誠を述べて異彩を放っていた。
 彼の名は、全国信徒代表として指名された。
 「廃墟に等しい日本の国土にあって、今日、客殿の落慶は、得がたい吉兆であり、いよいよ広宣流布の時は熟したと確信するものであります。さりながら、われらの活動の規模は、いまだ未熟であります。未熟ではありますが、大聖人の御金言に照らせば、ことごとくの条件がそろっております。三災七難既に現れ、遂に、いまだかつてなき他国侵逼の大難も、厳然と現れたことは、ご承知の通りです。
 また白界叛逆の難にいたっては、家庭に、おいても、社会においても、国内のあらゆるところに、今の時代ほど、その実相を露呈した時代はありません。物価は騰貴し、生活は苦しく、病人は、年々、増加する一方です。三災もまた、そろっております。
 さらに重要なことは、大聖人御出現の時は、天台法華はほとんど滅んでいました。近年、富士大石寺は、まさに破滅に瀕しました。世界に誇るべき、大仏法の衰微の姿は、悲しむべきことでありますが、法華経にあるように、法滅せんとする時こそ、広宣流布の機会であります。
 つまり、こうした時代なればこそ、民衆の救済のために、われわれは立たねばならない。
 私は、あえて広宣流布近きにあり、と確信するものであります。したがってまた、かつてない三類の強敵の出現も自明の理であります。生やさしい戦いとは、夢にも思いません」
 そして、戸田は、最後に力を込めて叫び、話を結すんだ。
 「広宣流布のため、今こそ死身弘法の実践を、この佳き日に誓うものであります!」
 激しい拍手が、客殿の一角から起こった。それは、参列している学会員五十人だけの拍手である。満堂を揺るがす拍手とはならなかった。だが、戸田城聖の至誠は、巌のごとく不動のものであった。ただ一人、彼の胸中には、広宣流布を成し遂げんとする情熱の炎が、燃え盛っていた。
 式典後、参列者には、お祝いの弁当と記念品が配られた。記念品は、新客殿の天井板の切れ端で作った、檜の素朴な土瓶敷であった。
 当時の宗門の僧侶数は、百二十七人であり、所化八十四人であった。なお、総本山在住者は、三十人にすぎなかったようである。寺院数は、全国で百十三ヶ寺と記録されている。
 十二日、十三日にわたる総本山での儀式は、秋晴れのもと、滞りなく挙行されたのであった。客殿の焼け跡に、新客殿が再び建立され、創価学会もまた、戦前の盛時をしのぐまでになった。終戦から三年を過ぎた廃墟の国土のなかで、ともかく広宣流布へ進む、確かな一つの結実を見たのである。
 しかし、国土を覆う暗い雲は、いまだ色濃く、民衆は苦悩のなかに岬吟していたのである。

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