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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

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10  また韓・朝鮮半島においても、緊張が高まっていた。八月に、李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)が南に樹立されると、北では、九月に金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立を宣言した。韓国のバックにはアメリカが、北鮮のバックにはソ連がいた。韓・朝鮮半島では、三十八度線を境にして、激しい南北対立が始まっていたのである。アメリカにとっては、予想外の展開であった。
 もう一つ、アメリカの誤算ともいうべき事態が、中国大陸で進行していた。アメリカが支援してきた蒋介石(チアン・チエシー)の国民党軍は、共産党軍に圧倒され、敗北が続いていたのである。
 孫文(スン・ウエン)が指導した辛亥革命によって清朝は倒れ、一九一二年(明治四十五年)に中華民国が誕生したが、その後十数年の間、この国は軍閥に支配されることになる。軍閥の打倒をめざした孫文は、大衆運動の重要性を自覚し、一九年(大正八年)に新しい国家建設に向けて中国国民党を結成した。そして、二年後の二十一年(同十年)に、共産革命の道をめざす中国共産党が誕生した。軍闘を倒して新しい国家を建設するという目的で一致した二つの勢力は、協力関係を結ぶことになる。いわゆる「国共合作」である。
 「国共合作」のあと、一年ほどで孫文は死去するが、その後、国民党の実質的な指導者となったのが蒋介石である。同時に、共産党との聞に亀裂が入り始め、対立が顕在化してきた。二七年(昭和二年)に、南京(ナンチン)に国民政府を樹立し、軍閥の支配を打倒して中国全土を統一した蒋介石は、農村を根拠地として勢力をもち始めていた共産党の絶滅に乗り出していった。
 長征によって、国民軍の攻撃から脱した共産党軍は、延安(イエンアン)の拠点を置いて抗日戦争を戦った。日本と友好関係を結んでいた蒋介石も、日本軍の本格的な中国侵略が始まると、抗日の旗を掲げ、三七年(同十二年)九月、敵対してきた共産党軍と手を結んだ。第二次「国共合作」である。しかし、共産党軍攻撃により、この協力関係は数年にして瓦解した。
 四一年(同十六年)十二月八日、日本が米英に対して戦争を開始すると、国民政府は即座に日本へ宣戦戦布告した。アメリカの支援を得て国民党軍も戦ったが、貧弱な武力でありながら徹底抗戦を貫いたのは共産党軍であった。そして、四五年(同二十年)八月、日本降伏の時を迎えたのである。
 日本という敵が消滅して、中国大陸では国民党軍と共産党軍との対立が残った。アメリカは、中国が、アメリカに友好的な極東の安定勢力になることを望んでいた。そこで、国民党政府に対して膨大な援助を与えた。その総額は二十億ドルにも上った。
 国民党軍と共産党軍とによる内戦は、四五年末には始まっていたが、四六年(同二十一年)六月からの、国民党軍による共産党支配地区への総攻撃によって本格化した。アメリカの支援を得ていた国民党軍は、武器においても、兵員数に、おいても、共産党軍を圧倒していた。しかし、一年後には、共産党軍は反撃に転じ、国民党軍は各地で撤退を余儀なくされたのである。勢力において勝っていた国民党軍が崩れていったのは、一族支配の組織をつくり上げて腐敗、堕落し、民衆の心が遠く離れ去っていたところに、最大の原因があったといってよいだろう。
 共産党軍の反攻から一年たった四八年(同二十三年)秋以降、共産党軍は東北、華北を支配下に置き、翌四九年(同二十四年)春には南京、武漢(ウーハン)、上海、秋には広州(コワンチョウ)、重慶(チョンチン)をも制して、実質的に中国大陸全土を支配下に置いた。そして十月一日、中国共産党は中華人民共和国の成立を宣言したのである。
 戦局が国民党軍に利非ずと見た蒋介石は、既に一月には台湾に渡っていたが、年末には国民党政府自体も台北(タイペイ)に移った。
 民衆を抑圧して国民の信頼を失った国民党軍は敗れ、農村を基盤として民衆の支持を集め、国民の信頼を得た共産党軍は勝利したのである。
 このような極東の情勢に、アメリカは焦慮したにちがいない。ヨーロッパ、韓・朝鮮半島、そして中国大陸とソ連を中心とした共産主義勢力の相次ぐ進出に対して、アメリカは、世界的規模で反共体制の強化を図らずにはいられない状況に直面していた。こうした世界情勢の変化により、日本列島は、ソ連・中国に対する反共の防波堤として、にわかに、アメリカにとって重要な価値をもつようになってきた。いきおいアメリカは、対日占領政策を転換せざるを得なくなったのである。
 東西両陣営の対立による「冷たい戦争」には、「熱い戦争」勃発の危機が、常につきまとっていた。ただ、その危機を避け得たのは、第二次大戦の悲惨な体験が、なんといっても、生々しく世界の人びとの心に生きていたからである。しかし、世界の各地で小競り合いが絶え聞なく起こったのは、東西に世界を分かったアメリカとソ連の、それぞれ世界を制覇しようとする野望のゆえであるという以外にあるまい。
11  戸田城聖は、人間の、平和を願う心と、また他を制覇したいと思う心が、一人の人間において共存する実態を知悉していた。つまり、十界の生命の認識である。この本質の認識なくしては、その折々の利害によって動いていく世界は、六道輪廻を脱することができない。それが、文明の発達した二十世紀においても、少しも改革されていないことを、戸田は痛感していた。
 「この世界の真の実態というものが、実は、どういうものであるか、それに気づいている人は、誰一人いないようだ。現代の人間社会の不幸は、ここにあるんだよ。わかってしまえば、簡単なことなんだがね。だが、人びとは嘲笑って、わかろうとしないだけだ。そのくせ、自分にも完全にわかっていない、つまらぬ理屈は、いやになるほど言っている」
 時折、戸田は、世界情勢の分析が話題に上ると、独り言のように、つぶやいたりしていた。
 「理想は理想、現実は現実などといって、その場その場を、ごまかしているのが現代ではないだろうか。この二つを、まるで別物のように扱って、あきらめているのは、現代の精神の薄弱さを意味している。理想を現実化する力、その力がなんであるかを、人びとは深く、強く探究もせず、求めもしない。人間の精神が、これほど衰弱した時代もないだろう。そして、衰弱した精神が、偉そうに利口げなことを言っている。愚かな話じゃないか」
 戸田は、誰に言うとなく、孤独にして強靭な心を、静かに弟子たちにもらすのであった。その表情は、遠く思いを馳せるように、半ば目を閉じていた。
 「現代は、何か重大なものが欠けている。誰も、それがなんであるか気づいていない。いや、気づいているようなことを論じてはいるが、あまりにも皮相的な論議だけだ。それを知っているのは、どうやら、われわれだけのようだ。
 理想を現実化し、現実を理想に近づけていく力、この力こそ日蓮大聖人の大生命哲学です。それを、ただ、人は既成の宗教観で見て、批判しているにすぎない。とんでもないことです。もし、仮にマルクスほどの達人であったら、この大聖人の生命哲学を知ったとすると、必ず、ひざまずいて教えを請うにちがいない。まったく、利口ぶった人間には、いやになるよ」
 幹部たちは、耳を澄ましてはいる。しかし、戸田が何を言おうとしているのか、さっぱり理解できなかった。彼らが、戸田の思想を、いくらかでも現実のものとして理解するにいたるまでには、なお多くの年月をかけた成熟が必要だったのである。

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