Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

車軸  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
9  戸田は微笑し、なおも青年たちに話し続けた。
 「君たちが、真剣にあちこちで法論をやり、相手はグウの音も出なくなって、明らかに君たちが勝ったと思っても、相手は決して『まいった』とは言わない。そういう恐ろしい時代なんだよ。
 こういう悪辣な時代に、本式の広宣流布をやろうとするんだから、容易なことではない。しかも、一部の指導者階級の意思で、世の中が動く時代でもない。主権在民だ。民衆の心からの声として実現する広宣流布でなければならない。だから、単純な運動ではない。われわれの宗教革命は、よほどの信心と勇気がなければ、とうてい遂行できない大偉業なのだ。
 昔流の法論形式や、その効果を期待したって、なんにもならない。人も、時代も、国も、濁りきっているのだから、仕方ない。法論ばかりじゃない。外交上の国家と国家との国際条約だって、そうじゃないか。不可侵条約なんて、反古のように破ってきたのが現代の歴史だよ。
 君たちが、他宗の連中は卑怯だ、けしからんと、いくら憤慨しても、広宣流布にはならないし、いくら連戦連勝が続いても、それだけでは、今の他宗は教えを改めようとはしないのだ。始末が悪いといえば、これほど始末の悪いものはない。結局は、一対一の折伏ということが、広宣流布達成の鉄則となるのだよ。これがまた、立派な民主主義のルールにかなった方程式ともいえるのだ。
 地道に見える進み方だが、最も堅実であり、この一波が二波になり、やがては千波、万波になっていって、初めて達成されるのだ。どうだね?」
 戸田城聖は、いつになく楽しそうに長い話をした。
 「まったく、ひどいものです」
 一人の青年が、ある教団の情況を語れば、他の青年たちも、ほかの教団の言語道断な実態を語った。そして話は、ひとしきり彼らの破折した教団本部の様子に移っていった。
 この時、また一人の青年が、学会本部となっていた日本正学館の二階の天井を見ながら、口をはさんだ。
 「しかし、どの教団も、建物だけは、結構、立派ですね。先生、創価学会も、せめて二、三百人は入る建物が欲しいですね」
 戸田は、その何げない一言に、急にあらたまった語調で言った。
 「大事なのは、建物より信心だよ。あちこちの教団の建物を見て、うらやんだり、卑屈になっているようでは、真の学会精神が理解できていないんです。特に今は、建物より人材が大事だ。広宣流布の途上、人のため、また社会を救うために、ぜひとも必要に、なれば、建物は、いくらでも同志の真心の結晶としてできていくだろう。また、広宣流布にぜひとも必要なものなら、御本尊様がくださらないはずはない」
 戸田は青年たちの顔を見渡し、壁から天井へと視線を注いだ。壁は古く、いたるところが、はげ落ちている。天井も煤けて、染みも目立つ。これ以上、質素な本部はないともいえる。だが、不思議に雰囲気は、いつも明るく、たくましかった。
 「今は、これで、結構、事足りているではないか。今の日本の姿は、この部屋より、もっと、もの寂しいはずだ。われわれは、日本の柱となって、日本の運命を背負っていくんだ。そして、この日本の運命を見事に転換させていくのが、学会の使命だ。
 まぁ、しばらく見ていたまえ。君たちは、建物などを、うんぬんすべきではない。自分自身を磨いていくんだ。大聖人様の哲理を夢にも疑わず、″広宣流布は俺がやる″という気概に溢れて、前進していくべきじゃないか。
 君らは、将来の学会の中枢じゃないか。金剛不壊の車軸となるんだ。末法では、いちばん尊貴なのは、妙法を持った人だと、御書にも説かれている。それなのに、本部が貧弱だから、入会者に体裁が悪いなどと考えるのは、若き革命児とはいえないよ」
 青年たちは、気恥ずかしそうに、戸田から視線を外さずにはいられなかった。
 人には、外見によって、その内容の優劣までを決定しようとする習性がある。会社なども、日本では、建物の大小や、従業員数の多寡によって、その内容を判断しようとする傾向がある。戸田は、外形や形式にはこだわらなかった。
 彼は、青年たちを見ながら笑いだした。そして、言葉をついで言った。
 「そんなことより、考えなければならないことがある。それは、総本山の客殿のことだ。終戦直前に焼亡したまま、二年半もそのままになっている。
 この聞の総会でも、現下のお話から、客殿を、なんとかしなければならないと、痛感した。
 本部は、今のところ、これでたくさんだ。戸田のいるところが本部なんだ。総本山の復興が完成したら、それから本部の建物に手をつければよい。その時までには、君たちも福運を積み、力をつけて、その穴の開いた臭い靴下で、畳を汚さないようにするんだな。近代的な、スカッとした建物ができた時には、それなりのパリッとした姿で、出入りしようじゃないか」
 彼は、愉快そうに笑った。
 青年たちも、どっと笑い声をあげたが、頭をかく者もあり、靴下を隠す者もいた。
10  一九四七年(昭和二十二年)の暮れ、日本列島を吹き抜ける風は、一段と寒さを増していた。そして、来る日も来る日も、厳しい生活の連続であった。
 戦後二年を経過したが、再建の曙光は、いまだ、その兆しさえも見えなかった。経済の危機は慢性化している。一億の国民は、生活難にあえいでいた。
 さらに不幸のうえに、不幸が重なった。
 九月十四日から十五日にかけて、本土を襲ったキャスリーン台風は、関東地方に未曾有の大水害をもたらした。だが、その応急策も立たず、寸断された山間の道路は放置されたままだった。政府はあっても、危機管理能力は、皆無に等しかったのである。
 激動する世界は、アメリカとソ連を軸とする両陣営の苛酷な対立、つまり冷戦という見えざる戦争に翻弄され始めていた。それは、まさしく暗闇へ世界を動かし始めた軸であった。明るい世界に導いていく軸は、どこにもなかった。
 そのなかで、この年八月十五日に、インドがイギリスの植民地支配から脱し、独立したことが、アジアの人びとにとっては、ほのかな希望となった。
 中国大陸では、日本の敗戦と同時に、国民党軍と共産党軍との内戦が始まっていた。そして、アメリカは、大量の兵器と軍事顧問団と、二十億ドルに上る軍事援助を、蒋介石(チアン・チエシー)の国民党軍に与えた。
 前年六月ごろから、国民党軍は共産党軍に対する総攻撃を展開し、年末までには掃蕩できる計画であった。当時、共産党軍兵力は百二十万、国民党軍は四百三十万といわれていた。しかも国民党軍はアメリカの多大な援助を受け、格段に優勢のはずであった。ところが、大衆は、長い戦乱にうんざりしていた。
 彼らは、内戦に反対し、国民党の腐敗と独裁とを非難したのである。結局、民意は自然と共産党に移っていった。
 戦いは、軍事力や財力、あるいは権威や伝統で決まるものではない。最後は、民衆の心をつかんだ勢力が勝利を収めるのである。
 四七年(同二十二年)九月十二日には、遂に共産党軍は、国民党軍に対して総反撃を宣言するにいたった。この時から満二年の後、四九年(同二十四年)十月一目、中華人民共和国が正式に発足するまで、六億の民は、なおも戦乱に巻き込まれていったのである。
 このころから、アメリカを主力とする自由陣営、ソ連を主力とする共産陣営の相克は、世界の各地で激突を始めていた。
 アメリカは、世界唯一の核兵器保有国として、共産陣営に威圧を与え、ソ連にとっては、アメリカの原子爆弾が、無言の脅威となって、のしかかっていた。押されぎみのソ連は、苦慮していたにちがいない。
 ところが、四七年(同二十二年)十一月六日、ソ連外相V・M・モロトフは、「原子爆弾は、もはや秘密兵器ではなくなった」と声明し、ソ連もまた、遠からず核兵器の保有国になることを、全世界に暗示したのである。その余波は、いやがうえにも人びとの心を、不安に駆り立てていった。
 生活は暗く、日本も、世界も暗かった。太陽は、いつも明るく昇っているのに、人びとの心は、悪魔の芸術のように、暗黒に塗りつぶされていた。
 戸田城聖は、油断も隙もない時勢を、ひしひしと感じていた。いつ足をさらわれるかわからない奔流のなかで、一人、仁王立ちになって、広宣流布の旗をかざして、踏ん張っていた。そして、世界を平和へと導く、新しい軸としての学会の前進に、これからまだ、苛烈な辛い戦いが待ち構えていることを、いやでも知らねばならなかったのである。
 (第二巻終了)

1
9