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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
11  ここに記されているように、地頭の波木井実長の犯した法義違背の数々は、厳格清浄な大聖人の教えに照らし、厳しく戒められていたものばかりである。
 実長は、釈迦像を本尊としたり、神社に参拝したばかりでなく、領内に念仏の石塔(福士の塔)を建て、さらに、念仏の道場を建立し、念仏僧に供養するまでになっていた。
 実長は、幕府の役人であったため、鎌倉にあることが多く、時流や世聞に迎合する風潮に染まっていた結果でもあった。ところが、その実長に対し、身延にあって日向は、地頭の誤りを教戒し、正すどころか、むしろ、それを許し、世俗に、おもねる法義逸脱の行為を勧めさえしていたのである。
 この日向の言語道断の行為に対し、日興上人は、ことあるごとに理を尽くし、訓戒した。だが日向に、その指導を受け入れる心はなかった。
 日向の本質について、日興上人は「原殿御返事」に、後世のために、こう記し残している。
 「彼の民部阿闇梨、世間の欲心深くしてへつらひ詔曲したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずるひとよと、此の二三年見つめ候いて、さりながら折折は法門説法の曲りける事を調れ無き由を申し候いつれども、敢えて用いず候」(編年体御書一七三二ページ)と。
 日向は、大聖人の教えのままに正義を貫き通す日興上人を、逆に非難するようになっていった。そして、実長を籠絡し、結託を強めて、わがもの顔で振る舞うようになる。法要の座で、実長と酒宴を張り、嬌声をあげて顰蹙を買うなど、堕落、破戒の正体をあらわにしていた。
 また実長も、日興上人の再三にわたる諄々たる戒告に対し、自らの非を認めるどころか、「自分の師は民部阿闇梨(日向)である」と語って憚らず、傲岸不遜な態度を見せるにいたった。
 事ことに及んで、もはや身延が、大聖人の御精神を失った謗法不浄の地となるのは、避けがたいものとなっていた。
 「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(「美作房みまさかぼう御返事」編年体御書一七二九ページ)とは、かねての大聖人の御遺誠である。日興上人は、遂に正応二年(一二八九年)春、この御遺命に任せて、一門の門下、有縁の弟子を引き連れ、決然として身延の地を離れたのである。時に、日興上人四十三歳、大聖人滅後七年目のことであった。
 一時、幼い日の養家がある河合の地に身を寄せた日興上人は、富士・上野郷の地頭・南条時光に請われ、下条の南条家に逗留した。そして、正応三年(一二九〇年)十月、南条家の領地である富士山麓の景勝の地・大石が原に、時光の寄進で大坊が造立された。その地名を取って大石寺となったのである。やがて、山内に住坊なども相次ぎ建てられていった。
 かくして二祖日興上人は、大石寺を正法流布の新たな拠点として、大聖人の教えを後世に正しく伝えるべく、その礎を定めたのである。
12  宗門の碩学といわれた五十九世法主・堀日亨は、その著『富士日興上人詳伝』に、「ましら叫ぶ甲峡こうきょうの身延のみ、かならずしも霊山浄土ならんや」と述べている。そして「人清ければ法清し、法清ければ所また清かるべし」と断言している。
 まさしく、その通りである。常寂光土とは、その住する人の一念によって決まるのである。
 日蓮大聖人も、『法華文句』の「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」との文を引いて指導されている。つまり、最高の法を持ち、実践しているからこそ、その人が貴いのであり、人が貴いから、その人が活躍する場所も尊い――ということである。
 戸田城聖は、御本尊に向かい、唱題しながら思った。
 ″総本山である大石寺には、大聖人、日興上人の清浄な御精神が、常に脈打っていなければならない。戦前の轍を、二度と再び踏んではならない″
 彼の心中には、広宣流布の未来への深き決意が秘められていた。
 戸田は、この夏の講習会の期間中、和服姿で通した。そして、和やかに家族と話すように、参加者と語り合った。生活の問題や家庭の事情について、親身になって、ある時は優しく、ある人には厳しく、指導した。
 この第一回の夏季講習会では、御書講義、質問会、座談会をはじめ、白糸の滝への遠足まで行われた。
 なかでも最大の行事は、唱題であった。戸田を導師として、正座で痺れた足を、もじもじさせながら、朝、晩と繰り返された。戸田城聖の祈りは、ただひたすらに広宣流布を願っていた。真剣勝負の唱題の姿である。
 講習会が終わり、帰路に就く時には、皆の顔は、太陽のように明るくなっていた。どの顔も、清純で元気に輝いていた。それは、異体を同心とする人びとの顔でもあった。
 インフレーションと思想的混乱との、すさまじい末世の様相を呈した社会にあって、この一団の活躍は、いよいよ秋へ向かって、展開されていくのである。それはまた、広漠たる荒れ野に放たれた一点の火であった。その火が、一草また一草と燃え移り、広がっていくことは、自然の勢いでもあったのである。
 この年の七月一日、米国は、太平洋に浮かぶマーシャル諸島のビキニ環礁で原爆公開実験を行った。
 八月十日、中国大陸では、国民党軍と共産党軍との停戦が不可能であると、両勢力の和平、斡旋にあたっていた米・トルーマン大統領特使のマーシャルと、中国に駐在していた米大使のスチュアートが、共同声明を発している。
 (第一巻終了)

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