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日蓮大聖人・池田大作

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黎 明  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
3  戸田城聖という民衆の指導者の名は、今日では、多くの人が知っているが、当時は、彼の名を知る人は、ほとんどいなかった。その名は、創価教育学会の折伏活動によって、希代の悪法であった治安維持法違反の容疑や、不敬罪に問われた刑事被告人として、当局などに知られているにすぎなかった。
 治安維持法は、終戦直後、マッカーサー指令によって廃止になり、多くの思想犯は無実の人となったが、この法律が廃止されたために、以来、国の治安が危殆に瀕したということは、一度も起きなかった。悪法の悪法たるゆえんである。
 共産党弾圧のためのこの立法は、無数の故なき罪人をつくった。法律が罪人を製造し、無実の人びとの一生を、取り返しのつかない破滅に追いやる。治安維持法による犠牲者は、どれほどの数に上ったことか。
 一九二五年(大正十四年)に公布されたこの法律は、次第に、ただ軍部政府を守るための弾圧法と化していった。一握りの階級を守るための立法が、どんなに不条理で、どれほど多くの不幸と苦悩をもたらしたことか。すべての立法の意図を、われわれは、あらためて吟味する必要がある。
 信教の自由が、憲法に保障されていたにもかかわらず、この悪法のために、会長・牧口常三郎は、獄中で死ななければならなかった。理事長・戸田城聖は、二年余りで保釈出所はしたものの、身は栄養失調という状態であり、彼の全事業は挫折してしまっていた。なんと矛盾したことであろうか。
 考えようによっては、獄中よりも獄外にこそ、悪人が多くはびこっていた。
 一国の前途を憂え、民衆の側に立って戦った人物が獄につながれる一方、民衆を不幸に陥れた指導者が、そのまま生き長らえる現実ほど、この世の不条理はない。社会の正邪、善悪を測る基準が、まるで正反対になっていたのである。
 いったい、人間をほしいままに裁く資格が、誰にあるだろうか。人間が裁かれるとするならば、それは普遍の法によってであり、権力者の自分勝手な考えによって裁かれるべきではない。その人間の気ままな心を制御するために法律があり、裁判制度がある。
 しかし、法律も制度も、人間が解釈し、運用するものであるから、その時代・社会の底流に、永久不変の根本的な原理が確立されていない限り、公正な裁判は望むべくもないだろう。
4  今、ところどとろガラス窓が破れ、薄汚い山手線の電車の、風変わりな一乗客、かの長身の中年の男が、誰であるかを知る人はなかった。
 車内の一隅に、職人風の男が、四、五人固まって、電車の走る音にも負けないほど大声を張り上げて、何事か盛んに議論を戦わせている。戸田は、ふと耳を澄ました。焼夷弾の殻に関する議論である。
 「なにしろ、アメリカの、あの鉄はなんというのだろう。質はべらぼうなもんだ。あれでシャベルを作ってみたが、すごいのができる」
 一人の男が、得意そうに身ぶり手ぶりで説明しだした。すると、もう一人の男が、それをさえぎって言った。
 「いや、わしは、あれで包丁を作ってみたが、いね。一つの殻で十丁は取れる」
 「なに、十丁? そんなに取れるもんか。いいとこ五、六丁だろう」
 それまで黙っていた小柄の男が、勢い込んで口をはさんだ。包丁の発明家は、憤然となった。
 「ばかいえ。十丁は大丈夫だい」
 「そんなに欲ぼったって、だめだ。せいぜい五、六丁さ」
 「いや、取れる。十丁は絶対に大丈夫だ」
 職人気質は、頑固に衝突した。
 戸田は、微笑んだ。敵の焼夷弾の弾片の鉄屑から、シャベルを作り、包丁を作る庶民のたくましい知恵に、敬意を表したくなった。
 彼は、立ち上がって、彼らの方へ歩み寄ったが、この時、電車はスピードを落とし、目黒駅に入っていた。彼は、降り際に、この熱心な討論者たちに声をかけた。
 「やぁ、皆さん、ご苦労さん。シャベルと包丁、うんと作ってくださいよ」
 一団の人びとは、一瞬、怪訝な面持ちで顔を見合わせた。仲間の誰かの知り合いかと思ったのである。見ず知らずの他人だとわかると、みんな愉快そうに、どっと笑い声をたてた。
 職人たちを乗せた電車は、発車した。彼らは、暗いプラットホームに浴衣の男の姿を見ると、一斉に窓から体を乗り出し、「さようなら、おやすみ」と叫びながら、盛んに手を振った。彼らは、自分ちの実用新案に、見知らぬ男からの加勢を得て、にわかに自信を深めたのであろう。
 戸田にとって、二年の間、踏むこともなかった目黒駅の階段は、一段一段、懐かしかった。だが、衰弱しきった体には、ひどくこたえた。彼は、階段をやっと上りきり、改札口を抜けると、そこでまた、ひと休みしなければならなかった。
 妻の幾枝、姉と甥の三人は、彼を、いたわり守るように寄り添っていたが、幾枝は、一人離れて街路に出た。闇を透かして、前後左右を見回していたが、この時勢にタクシーが走っているわけもない。
 都電の停留所に、人気のない電車が一台止まっていた。白金の家に帰るには、この都電がいちばん確実である。彼女は戻って、電車が待っていることを急いで告げた。
 戸田は頷きながら、先に立って瓢々と歩きだた。しかし、電車には乗らず、そのまま街路を進でいった。そして、道路を横断したのである。
 三人は、小走りになって、彼の後ろに従った。幾枝は、困った顔をしながら、戸田を促した。
 「あなた、早く電車でまいりましょう」
 「うん、ちょっと焼け跡を見ていこう」
 戸田は、妻を振り返り、顎をしゃくって方向を示した。横断した道路から、右に入る道がある。ゆるい下り坂であった。その右側に、彼の時習学館の焼け跡があったのである。
 辺り一面は、焼け野原である。不気味に静まり返ったなかに、四人の足音だけが響いた。
 焼け跡は、焼け落ちたままになっている。既に二カ月余りの風化を経ていたが、それでも焦げた臭いは残っていた。
 彼は、傍らの土台石に腰を下ろし、ふと思いついたように言った。
 「タバコは、ないかな」
 「あります、あります」
 幾枝は、手提げの中をかき回し、数本の配給タバコを渡した。彼女は、出獄の夫を迎えて、真っ先に喫ませるものはタバコと決めて、大事に手提げに入れて持って来ていたのだが、それを今まで忘れていたのである。
 彼が、一本のタバコをおいしそうに吸いだすと、煙は闇のなかを白く流れていった。
5  この焼け跡は、彼のかつての城であった。一九二二年(大正十一年)、牧口常三郎が三笠尋常小学校の校長から白金尋常小学校の校長に異動した時、戸田は、小学校の教員を退職し、翌年、時習学館という私塾を開いたのである。
 二十三歳で、一国一城の主になった彼は、この私塾において、恩師・牧口の創価教育学の実践を、何ものにも煩わされず、行うことができた。
 どんな子どもでも、優等生にしてみせるというのが、彼の教育実践の確信であった。事実、彼の塾生の小学生たちは、どしどし一流の志望校に合格し、進学した。
 時習学館周辺の小学生たちの間では、「昼間の学校はだめだ、夜の学校でなければだめだ」といった噂が広がりだした。
 昼間の学校、つまり尋常小学校は顔色なかった。教員たちは、時習学館の名を耳にすると、不機嫌になった。
 夜の学校、つまり時習学館へ、夕方になると、少年少女たちは、喜々として集まるようになっていたのである。
 昼間の学校では、型通りの授業が行われていたにすぎなかった。教育は、同じ鋳型の機械をつくるのが目的ではない。人間をつくるところに、教育の重要な意義があることを、若い教員たちは忘れていた。
 子どもたちは、代わり映えのしない先生の話に、飽き飽きしていたのである。
 その点、戸田の教育法は、実に水際立っていた。
 彼は、子どもたちの旺盛な好奇心に応えて、具体的な事実から、一つの数学的概念を認識させ、それから推理を重ね、いつの間にか複雑な、高度な概念を理解させる。この過程は面白くて、無理がない。
 そして、学問の楽しさを、子どもたちは、小さな胸に感得するにいたる。
 子どもたちは、寒暖計のように鋭敏な反応を示した。
 戸田は、人格形成のための技術が、まさしく教育であると考えた。
 優れた教育理念を根底にもち、独創的な教育技術を身につけた教師は、ぐいぐい生徒を引っ張っていくことができる。そうした教育者から、物事を認識する訓練を受け、いつしか人格の高みにまで導かれた人は、まことに幸福者といわなければなるまい。
 彼は、いつもニコニコしながら、「よう!」と声をかけ、教室に入って来る。いたずらっ子たちは、慌てて席に着き、「こんばんは」と頭を下げる。今夜は、どんな面白いことがあるかと、期待に目を輝かせている。
 彼は、子どもたちに笑いかけながら、口を切る。
 「犬の欲しい人は、いないか」
 一瞬、子どもたちは静まり返る。
 「欲しい人には、犬をあげよう」
 あちこちから、盛んに手があがる。
 「先生、私にください」
 「先生、ぼくにください」
 「先生、ぼくにも……」
 「先生、あたいにも……」
 教室は騒然となる。彼は、目を細めて教室を見渡し、「さあ、誰にあげょうか」と言いながら、くるりと後ろ向きになって、黒板に向かってチョークを取る。
 彼は、黒板の真ん中に「犬」と大きく書く。そして、子どもたちに向かって言う。
 「これは、なんだ?」
 「イヌ!」
 「そう、確かに犬だね」
 「はーい」
 「さぁ、欲しい人は持っていきなさい」
 子どもたちは、一瞬、困惑してしまう。ややあって、一人の少年が叫ぶ。
 「なんだ、字か!」
 どっと教室に笑い声があがる。
 戸田は、犬の字を指して言う。
 「イヌだね、間違いないね。さぁ、欲しい人にあげるよ」
 確かに犬である。だが、もらっていくことはできない。子どもたちは、何が、どう間違っているのか、それがつかめない。
 彼は、それが犬というものの、抽象化された記号であることを教えていく。
 さまざまな、面白い実例を重ねながら、数学というものが、実は数の記号のうえに成立しているという概念を、小さい頭に、知らず知らずに染み込ませてしまうのだった。そして、これらの小さい頭は、自らの力で、活発な応用を始める。
 よき種は、よき苗となり、よき花が咲こう。よき少年は、よき青年となる。よき青年は、よき社会の指導者と育とう――これが、彼の信条であった。
 戸田は、子どもたちに、的確なプリントを与えていった。そのプリントを、人に勧められて集大成してみると、独創的な算術の指導書となった。これが、名著として知られることになる、戸田城外著『推理式指導算術』である。
 彼は、この本を、自分が経営していた出版社から発刊した。破天荒な売れ行きであった。やがて、発行部数は百万部を数えるにいたっている。
 戸田の著書を使って学び、苦手だった算術を克服し、首尾よく入学試験を勝ち取った、かつての少年少女も、少なくないはずである。
 この『推理式指導算術』の出版の成功に限らず、戸田には、事業的手腕の冴えがあった。彼は、次々と、新しい出版社をつくっていった。
 さらに金融機関を生み、兜町で証券会社を経営するまでに発展したのである。
 一九四三年(昭和十八年)七月六日、突如、牧口常三郎が、静岡県の下田署に連行され、戸田も、東京の高輪署へ連行された。翌年三月までに、創価教育学会の幹部二十一人が検挙されたのである。
 戸田が逮捕された時、彼の指導権のもとにある会社は、十七社を数え、さらに九州の一炭鉱会社と、大阪の油脂工業の会社とが、彼の傘下に入ることになっていた。
 戸田は、時習学館で牧口の教育理念を実践したように、彼自身の生活や人生に、おいても、日蓮大聖人の生命哲理を内に秘めて、さまざまな活動を展開していった。
 彼は、どんなに卓越した理論も、それが社会の実践の場に応用されて、多くの価値が創造されなければ、所詮は、絵に描いた餅に等しいと考えていたのである。
 三階建ての時習学館は、その、彼の事業の発祥地であり、また本城であった。
 今、出獄して、その焼け跡に腰を下ろした彼は、落城したばかりの、わが城跡に立つ思いがしたのである。
6  戸田が、時習学館の焼け跡にいたのは、タバコ一本を吸った、わずかな時間であった。が、思いは急速に過去に流れた。焼けただれた跡にも、夏草は、既に、あちこちに茂っている。草むらは、蚊のすみかとなり、長く座っていられるものではなかった。
 この高台の焼け跡からの眺めは、灯火管制のため、暗くよどんで、ところどころに、かすかな灯が心細く瞬いていた。
 四人の一行は、都電の停留所に戻り、がら空きの座席に、並んで腰を下ろした。運転手も、車掌も、まだいない。営業所の発車のベルが鳴ってから、運転手と車掌が、あたふたと乗り込んできて、やっと発車した。
 この都電の通りには、不思議に焼け残った家並みが続いている。瞬く間に白金台町に着いた。坂を下りかけると、左手に、政界の有力者・久原房之助の、広大な屋敷の樹木が、黒々と夜空を覆って、森閑と静まり返っていた。
 戸田城聖は、わが家の敷居をまたいだ。実に、二年ぶりの自由であった。わが家が、そのままの姿で残っていたことが、何よりも、彼に、深い安らぎを与えた。
 彼は、応接室に腰を下ろすと、妻に向かって言った。
 「身についたもの一切、着替えよう。丸めて、後で熱湯をかけておいてくれ。牢屋のシラミは、もうごめんだ」
 幾枝は、手伝って、下着から一切、新しい浴衣に着替えさせたが、彼の裸の姿を見た時、驚愕のあまり、「あっ」と声をのんだ。
 道々、肩を張った彼の浴衣姿は、痩せてはいたが、これほどまでの衰弱とは、想像もしなかった。
 肉というものがない。腕も棒状なら、足も棒状であった。まさしく骨と皮である。そして、異様なまでに、ただ腹が膨れあがっている。完全に、末期の栄養失調患者であった。
 幾枝は、彼の裸を長く正視できなかった。痛ましさから、どうしても目をそらしてしまうのであった。
 「あなた、二階で、お休みになったら……」
 この時、応接室に幾枝の父・松井清治が入ってきた。
 「あっ、お父さん。長いこと、ご心配をおかけしました。いろいろお骨折り、ありがとうございました。この通り元気です」
 戸田は、義父に丁寧にあいさつした。
 「よかった、よかった。みんな無事でよかった。私も厄介になっています」
 松井清治は、目をしばたたいて、戸田の手を取らんばかりに喜んだ。
 彼の家は、この春、建物疎開にかかって、住居は破壊されていた。家族を湘南の地に疎開させ、会社勤めの松井だけが、主なき娘の家に、進んで移り住んでいた。
 また、戸田の実姉、山村タツは、五月の空襲で焼け出され、中学生の一雄と共に、白金の家に難を避けていた。雑居の家は、俄然、彼の出獄によって賑やかになった。
 「幾枝、お風呂が沸いているよ」
 松井は、幾枝に言った。留守の聞に、松井が乏しい焚き物を集めて、風呂を沸かしたものにちがいない。
 「お父さん、どうぞ、お入りになってください」
 戸田は、松井に言ったが、松井は頑なに首を振った。
 「今日は、わしは後でいい」
 「お父さん、私は、二階でひと休みしますから、どうぞ、お先に」
 戸田は、こう言いながら、二階へ上がっていった。幾枝は、彼を休ませるために後を追ったが、彼は、仏壇の前に座って御本尊に向かい、ひれ伏して動かなかった。
 ややあって、彼は顔を上げ、しげしげと御本尊を凝視した。
 苦難の二年の数々の思い出が、遠い昔のことでもあったかのように、見る見る遠ざかり、一瞬のうちに氷解したような思いがした。彼は、今、現に存在する戸田城聖自身を、くっきりと心に浮かべていたのである。
 戸田は、静かに勤行を始めた。幾枝は、彼の背後で、数珠を手に勤行に従ったが、彼の痩せ細った首筋が、目について仕方がない。首筋ばかりではない。端座した彼の後ろ姿を、久しぶりに目前にしてみると、彼の体が、一回りも縮まったように思えた。彼女は、彼の体力の回復を、ただひたすら御本尊に祈念した。
 戸田は、朗々と唱題に入った。幾枝は、なぜか涙が、後から後から、あふれて仕方がなかった。
 ″思えば、二年間、不在の夫の無事を願い、出獄の一日も早からんことを、朝にタに祈り続けてきたのだが、その夫は、今、こうして無事に御本尊様の前にいる。長い夢が、いつ果てるともしれない苦難の末に、叶えられたのだ……″
 彼女は、鳴咽をこらえて、彼の唱題に和した。
7  階下では、甥の一雄が、腹がへったと大騒ぎであった。遅いタ嗣の食卓が、姉によって整えられていた。それは、乏しい食糧事情のなかで、この夜のために苦心して集められたものだった。酒がある。青々とした枝豆がある。塩イカや、スケトウダラまでそろっていた。
 やがて、湯上がりの戸田を迎えて、灯火管制下の夕食が始まった。幾枝は、父と戸田の盃に酒を注いだ。華やいだ空気が、久しぶりに家の中に流れた。
 戸田は、盃を口に運んだ。一口二口、口に含むと、急に盃を置いたのである。彼にとっては、久方ぶりの祝い酒であったが、「苦い!」と彼は言った。
 驚いたのは、幾枝と松井清治である。戸田にとって、酒ほどの好物はなかったはずだ。
 幾枝は、「まぁ」と言ったまま、さも信じられないというように、戸田の顔をまじまじと見つめてた。
 「酒が悪いのかなぁ」
 松井清治は、二度三度、口に含んで、酒の味を確かめ、首をかしげた。
 「悪い酒でも、なさそうだが」
 「いや、お父さん、体がいうことをきかないだけです」
 戸田は、盃を伏せながら言った。
 「酒に罪はない」
 彼の体の衰弱は、あれほどの大好物の酒さえ、受けつけなくなっていたのである。
 栄養失調だけではなかった。もともと肺患と喘息、心臓病、痔瘻、リウマチなどをかかえていた体である。栄養失調特有の、慢性下痢も続いていた。また、強度の近眼であった彼の視力は、さらに恐るべき減退をきたし、片目は失明直前の状態に陥っていたのである。
 しかし、彼は平然としていた。山盛りの枝豆に手を伸ばし、「これはうまい」と言いながら、見る見る山を崩していった。
 彼の体は、見る影もなく、確かに病んでいた。だが、その内にひそむ生命力は、まことに強靭であったといえる。医学的には死ぬべき体が、精神力でもちこたえていたのかもしれない。生命の不可思議な力は、ただ単に、唯物論的な見方で、そのすべてをとらえることはできない。
 肉体と精神とが、不二の関係にあることを説いた哲学によってこそ、現象的にも実証されるはずだ。
 戸田は、検挙されて以来の、留置場や拘置所などの話を、つぶさにしゃべり続けた。それは、裟婆と隔絶した異様な特殊世界であったが、その陰惨な情景も、彼の口を通すと、不思議なことにユーモアを帯びて、生き生きと蘇るのである。
 ある時は、みんな腹をかかえて笑った。久しく笑いを失っていた一家に、この夜、一時に笑いの花が咲いたのである。
 戸田は、すっかり上機嫌で、二年ぶりの団欒を楽しんだ。
 しかし、国を挙げての戦争は、およそ家庭という家庭のすべてを破壊し、庶民のささやかな幸福を奪っていた。彼は、国中の家庭の平和を乱してしまった戦争に対して、激しい怒りを覚えるのだった。
 戸田は、四日前に、巣鴨の東京拘置所から、いきなり豊多摩刑務所へ移された。理由は、わからなかった。そして、今日、保釈出所となったのである。
 混乱の時勢で、わけもわからぬことであったが、おそらく三年の刑を三日ですませたのかもしれない。彼は、転重軽受の法門を信じた。
 「これでいい、これでいい。みんな無事で、こうして生きて会えたんだ。幾枝も無事だし、喬一も一関に元気でいるし、ぼくは、なんの文句もない。これでいいんだ」
 戸田は、一同の顔を見回して、自ら頷きながら、わが心に納得させるように、しみじみとして言った。
 戸田の一人息子である喬一は、国民学校初等科に通っていた。空襲が激しくなると学童疎開が始まった。一関に嫁いでいた戸田の妹が、獄中の戸田を案じて、進んで喬一を引き取った。
 獄中で、これを知った戸田は、わが子に、次のような手紙を、さっそく書き送った。
 「一関に疎開したと聞いた。楠木正行公は十一歳でお父さんの志をついだ。お前も十だ。立派な日本人となる為に、一人で旅に出る位、なんでもない。強く、正しく、生きなさい。(中略)一切の修養の大本は『丈夫』になること。強い男らしい身体をもつことだ。一心に『丈夫』に俺はなるとまずきめて、さてどうするかは、後は自分の工夫だ。
 お父さんとはまだまだ会えませぬが、二人で約束したい。朝何時でも君の都合のよい時、御本尊様にむかつて題目を百ペン唱える。その時お父さんも、同時刻に百ぺン唱えます。
 そのうちに『二人の心』が、無線電信の様に通うことになる。話もできます。これを父子同盟としよう。お母さんも、お祖父さんも、お祖母さんも、入れてあげてもよい。お前の考えだ。時間を知らせて下さい」
 彼は、獄中から、喬一に、このような激励を送りながら、朝夕二千遍の唱題のあとに、家族のおのおのに、百遍の題目を唱えて回向していた。
 また、敗戦の必至を確実に予見していた彼は、御本尊に、あらゆる一切のことを祈念していた。
 独房には、もちろん御本尊はなかった。ロウソクも線香も、あるはずはない。彼は、差し入れの牛乳ピンの蓋をためて、それを糸で通し、数珠を作った。それは、獄中での壮絶無比の戦いであった。
 ″大御本尊様、私と妻と子との命を納受したまえ。妻と子よ、汝らは、国外の兵の銃剣に倒れるかもしれない。国外の兵に屈辱されるかもしれない。しかし、妙法の信者・戸田城聖の妻として、また子として名乗り、縁ある者として、霊鷲山会に詣でて、大聖人にお目通りせよ。必ず、厚くおもてなしを受けるであろう……。
 彼の祈念は、死線のなかにあって、強い覚悟のものであった。また、獄中で初めて体得した、不可思議な法悦の境涯から、祈りの叶うことも確信していた。
8  今、彼は、遂に自由を獲得したのだ。出獄の時から、この晩餐に至るまで、彼は饒舌なまでにしゃべり続けた。二年余りの、権力による拘束から逃れた自由を、確かめでもするような調子であった。
 話は尽きなかったが、夜はかなり更けていた。幾枝は、彼の疲労を思い、はらはらしていた。一雄は、別室で寝てしまった。松井清治も姉も、いつか沈黙してしまった。
 平穏な夜に思えた。
 突如、警戒警報のサイレンが不気味に響き、静寂を破った。零時を、ちょっと回った時刻である。窓の暗幕が引かれた。
 家族たちは、習慣のように、防空壕に待避したが、戸田は一人、二階へ上がっていった。
 幾枝は、今夜のサイレンに、かつてない異様な恐怖を感じた。そして、防空壕の中で、いつまでも身震いが、止まらなかった。
 彼女は、これまで、数十回の空襲下にあっても、ついぞ恐怖を感じなかった。彼女には、戦争はどうでもよかった。食糧難も生活の不自由さも、さして痛痒を感じなかった。身に迫る危険のなかにあっても、幾枝には、ただ一つのことしかなかった。寝ても覚めても、奪われた夫の安否だけが、彼女の全世界であったのだ。
 一日も早く無事に帰宅すること――二年の歳月、この一点に彼女の生活の一切がかかっていた。
 しかし、今夜は違った。戸田の保釈出所は、彼女の全世界を満たした。
 さっき、サイレンが鳴る直前に、栄養失調の重症患者は、いたわるように彼女に言った。
 「もう心配するな。こうして、ぼくが帰ってきたんだから、もう大丈夫だ。生活のことも、何もかも心配することはない」
 幾枝は、長年にわたる戦いが、勝利のうちに終わったことを知った。彼女の世界は、一瞬にして、がらりと転換したのである。それによって、常人の平静と感覚が、戻ってきたのであろうか。彼女は、今、初めてサイレンの音に胸は騒ぎ、空襲の恐怖に、おののいたのである。
 一方、戸田城聖は、暗幕に遮蔽された二階の一室で、仏壇の前に端座していた。空襲下の不気味な静けさが、辺りをつつんでいた。彼は、しきみを口にくわえ、御本尊をそろそろと外した。そして、かけていたメガネを取った。
 彼は、御本尊に顔をすりつけるようにして、一字一字、たどっていった。
 ″確かに、この通りだ。間違いない。全く、あの時の通りだ……″
 彼が、獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式は、御本尊に、そのままの姿で厳然として認められていた。
 彼の心は歓喜にあふれ、涙は滂沱として頬を伝わっていった。彼の手は、震えていた。心に、彼は、はっきりと叫んだのである。
 ″御本尊様! 大聖人様! 戸田が、必ず広宣流布をいたします″
 彼は、胸のなかに白熱の光を放って、赤々と燃え上がる炎を感じた。それは、何ものも消すことのできない、灯であった。いうなれば、彼の意志を超えていた。広宣流布達成への、永遠に消えざる黎明の灯は、まさにこの時、戸田城聖の心中にともされたのである。
 彼は、やがて御本尊を仏壇にお掛けして、室内を見渡した。だが、今、この胸中を、誰に伝える術もないことを知ったのである。底知れぬ孤独感が、彼を、ひしひしと襲った。彼は、また、わが心に言い聞かせた。
 ″慌てるな、焦るな。じっくりやるんだ。どうしてもやるんだ……″
 この深夜、彼の心のなかで、黎明を告げる鐘は殷々と鳴り渡ったが、それを誰一人、気づくはずはない。その音波が、人びとの耳に、かすかに轟き始めるには、数年の歳月が必要であった。
 だが、日本の、まことの黎明は、この時に始まったのである。それは後世の歴史が、やがて、はっきりと証明することであろう。
 前途は、あまりにも暗かった。国家の行く手は闇で、彼の身辺も底知れず暗かった。だが、彼の心のなかだけが、黎明を呼んでいたのである。彼は思った。
 ″閣が深ければ深いほど、暁は近いはずだ″
 警戒警報は、やがて解除になった。

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