Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 生老病死の深淵を探る  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
25  釈尊はたしかに、この世は「無常」であり、「苦」であり、「無我」である等と説いた。しかし、それは、享楽や安易な現状肯定に耽溺し、真実の人生を求めない者に対する、いわば方便の教説であった。
 つまり、釈尊のそれらの教えは、むしろ人々に人生の無常を自覚させることによって、真剣に「常住」の法を求めさせようとするものであった。大乗仏典において一転して「常楽我浄」と説いたのは、このためである。
 多くの日本の文人等が表面的な無常感にとらわれるなかで、仏法の真実に迫ろうと努力した人もいた。高山樗牛や姉崎嘲風らも、法華経の文上の理解までは近づいていたようだ。また文芸評論家の小林秀雄氏も、さすがに一流の哲学を感じさせた一人である。氏のエッセー『無常といふ事』も、他とは、ひと味ことなった深い趣をもっている。
 ともあれ、変化のなかに常住の法があり、永遠の生命がある。絶えまなくうつろう雲の高みに、不変の大空がある。不滅の太陽が輝いている。
 “無常感”にとらわれた人生は、この雄大なる天空の高みを知らず、下ばかり向いて歩んでいるようなものである。また、そうした弱々しい人生観と諦観的な文化からは、もはや二十一世紀に生きゆく国際的人物は生まれないであろう。人格の確かな“芯”を持たない、幼児性の取れぬ人間ばかり、つくってしまう恐れさえある。人生の無常に流されてはならない。感傷に負けてもならない。
26  例えば旅客機が飛行していく。到着までには、気流をはじめ多くの気象状況等の「変化」に、すばやく対応していく必要がある。あらゆる変化を見きわめ、逐一対処しながら、悠々と目的地への進路を進んでいかねばならない。
 それと同じく、人生も変化に次ぐ変化である。無常である。何人も、肉体的、精神的に変化していく。環境も変わる。家族も社会も変化する。時をとどめられるものは何ひとつない。そうした無限の変化にも最も的確に、最も価値的に対処し、最高の幸福の方向へと飛行していく。そのための原動力が信仰である。
 そして、これこそ正しき「常住の法」に基づいた人生の生き方である。すべての変化を、よき方向へ、よき方向へと、リードしていける力が妙法にはある。
 人生は、はやい。逡巡したり、愚痴や他者への批判に、いたずらに時を過ごし、また自らの怠惰に負けてしまったりしているうちに、あっというまに人生は過ぎ去ってしまう。大切な一日一日である。
 フランスの大哲学者パスカルは、人生の真実相から目をそむけることになるすべての営みを、「慰戯」と呼んだ。「慰戯」とは、単なる気晴らし、娯楽の謂であり、人生の構築に何ら資することのない無価値の行為のことである。また、ソクラテスは、人間が、その本来性を開覚するためには「自己に関する無知」から脱出しなければならないと考えた。不幸の根源が「自己に関する無知」から生ずるという人生への卓見である。
 どこまでも現実のまっただなかで、逞しく生きぬきながら、同時に「大宇宙」を仰ぎ、「永遠」に思いをはせる広々とした境涯で、一日が千年にも千劫にも通じるような、悔いなき一生を送っていきたいものである。

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