Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 民衆こそ真実の力  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
33  庶民にわからぬ言葉での仏典編さん――このこと自体、仏教が民衆のなかでの生きた躍動を失った証と論ずる人もいる。私も、そう思っている一人である。
 日蓮大聖人も、仮名のほうが相手にわかりやすい場合には、平仮名でお手紙を書かれた。ここにこそ仏教本来の精神があり、指導・弘教の方軌がある。
 インド仏教の民衆遊離の他の面としては、その支持層が都市住民に限られていたという点がある。都市には王族がおり、富裕な商人がいた。仏教教団は、自然、彼らの寄進にのみ依存し、その結果、地方、とくに農民たちの間に深く根を張ることができなかった。
 この「都市民への寄進依存」から、もう一つの重大な変化が起こった。
 それは、「僧院中心主義」による僧の堕落である。すなわち僧院の増加にともない、それまで個々の修行者の乞食行に対して行われていた供養が、僧院自体に対して行われるようになった。
 鉢を持って一軒一軒の家をたずね、食を乞うて歩く托鉢の修行は、一定の厳しい行儀に基づいていた。しかし、僧院の比重が増すにつれて、日々の厳しい修行は、しだいに忘れ去られるにいたった。
 修行がなくても、権力者や富豪は次々に財物を寄進する。しかも、しだいに供養は巨額となり、僧院には莫大な財産が蓄えられた。やがて土地さえ寄進されるようになり、僧院は広大な土地からあがる小作料を生活の糧とし、一種の“世俗領主”のような様相さえ示していった。
 こうして僧院が富み、生活が保障されるにともない、比丘(僧)たちは民衆との接点を失い、遊離し、また堕落していった。さらに、生活のために出家する例や、社会で罪を犯した者が身の安全を求めて僧院に入りこむ例も出てきた。
34  サンガ(仏教教団)を形成する比丘たちは、本来、求道の「修行者」であり、同時に「弘教者」であり、民衆のよき「導師」のはずであった。しかし仏教が僧院中心主義となり、僧院が僧たちの専有物と化した結果、峻厳な「修行」も、慈愛の「弘教」も、民衆の幸福に尽くしていく「指導者」としての使命も見失われていった。
 このようにインド仏教の「民衆からの遊離」は、あらゆる面で顕著であった。
 強い「信仰」に基づく仏教の本来の生命力を失い、観念化していった。こうなっては弱体化するほかないのは、個人においても、組織においても同様である。
 この意味からすれば、イスラム教徒の侵略によって、もろくも滅びてしまったことも十分に理由のあることである。このほか、インド仏教滅亡の因としてヒンドゥー教の興隆によって、押されぎみになった仏教が、自らインド土着の民間信仰を取り入れて密教化し、本来の精神を失った、いわば“死に体”同然で余命を辛うじて延ばしていたこと等が挙げられている。このようにみるとイスラム教による打撃は、内部から朽ちてしまったインド仏教の大木を倒す、最後の決定打にすぎなかった。
 これに対し、事実として、インドの民衆に根づいたのはヒンドゥー教である。教えの高低浅深は別にして、現在、仏教発祥の地インドにおいて、仏教徒がわずか一パーセント足らずにすぎず、ヒンドゥー教徒が八十数パーセントを数えるという現実は直視しなければならない。
 ある研究によれば、インド仏教史の全体を通じて、仏教は一度も、ヒンドゥー教ほど民衆に支持されたことはなかった。仏教の隆盛期とされるアショーカ王、カニシカ王の治世においてさえ、一般民衆の間に根強い勢力を持っていたのはヒンドゥー教であったという。その後、仏教は時代の推移とともにヒンドゥー教と妥協した。それは、ある意味で民衆への接近ではあった。しかし、最も大切な釈尊の原点と独自性を失って吸収され、姿を消していった。
 結論するに、最も重要なことは、本来の精神を堅持しつつ、いかに「民衆」とともに生き、「民衆」を覚醒させていくかである。一切の基盤である「民衆」を離れた結果、インドの仏教は衰亡した。この過ちを繰り返すのは余りにも愚かである。

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