Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四節 『戦争と平和』  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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20  挫折こそ飛躍のチャンス
 アンドレイ公爵と並ぶ『戦争と平和』の主人公は、その親友ピエール・ベズーホフである。アンドレイが知性タイプであるとすればピエールは感性タイプ、アンドレイが人生に“否定”的であるとすればピエールは“肯定”的に描かれ、あくまで対照的である。真率で情熱的で、何事にも中途半端を嫌い、さまざまな経験をするが、そのたびに一回り大きくなってくるピエール。最後は、ヒロインのナターシャと幸福な結婚生活に入るのだが、ともかく、ロマン・ロランが「『戦争と平和』の最大の魅力は心の若々しさである」(『トルストイの生涯』宮本正清訳、『ロマン・ロラン全集』13所収、みすず書房)と述べているが、その意味からピエールは、この名作を象徴するような人物といってよい。私は、若いころ、アンドレイよりも、ピエールのほうに惹かれたものである。
 波瀾万丈のピエールの生涯でも、その頂に位置するのは、血気のピエールが、ナポレオンに対する怒りから彼の暗殺に出かけ、かえってフランス軍の捕虜になってしまい、幾多の辛酸をなめるところである。この名作の中でも、最も印象の深い件である。
 さて、帰還後のピエールが、ナターシャと公爵令嬢マリヤに、夜中の三時まで、熱くなって捕虜体験を語るシーンに、次のような台詞がある。
 「『よく人は言います――不幸だ、苦痛だって』とピエールは言いだした。『ですが、もし今、この瞬間にですね、人がぼくに向かって、捕虜になる前の自分でいたいか、あるいは最初からもう一度すべてをやり直したいかときいたら、――ぼくは、どうかもう一度捕虜になって、馬肉を食いたいと言うでしょう。われわれは歩きなれた道からほうりだされると、もういっさいが終わったように考えがちです。が、じつは、そこではじめて新しい、いい生活がはじまるのです。命のあるあいだは、幸福もあります。前途には多くのものが、じつに多くのものがあるのです』」(第四巻第四編)
 すがすがしく、若々しく、生きんとする力が横溢していて、いかにもピエールらしい言葉といえよう。しかもピエールには無理に力んだところがない。生きんとする力にうながされるままに、まっしぐらに生きぬいた、その来し方に巧まずして表出された、骨太にして大らかな生きざまの輪郭がある。そこにピエールのユニークな個性の輝きが光を放っている。
 それは、良い意味の楽観主義といってよいかもしれない。それは、甘さというような浅い次元ではなく、もっと人間性の深いところに備わっている品格のようなものである。換言すれば、人を信じ、人生を信ずる力によって、よき変化がもたらされることを確信する“度量”であり“強さ”であり“明るさ”に通じるものかもしれない。
 私は、世界各国の多くの著名な方々とお会いしてきたが、おしなべてそれらの方々は最も優れた意味での楽観主義を持っている。フランスの哲学者アランは「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。およそ成行にまかせる人間は気分がめいりがちなものだ」(『幸福論』串田孫一・中村雄二郎訳、白水社)と言っている。生きることの輝きを放射してやまないピエールの個性は、生のうながしに正直にそして意志的に従うことから生まれる楽観主義ともいうべきものを、巧まずして備えているのである。
 一節こえるごとに大きくなっていくピエールを、ナターシャは、こう語っている。
 「『ねえ、マリー』とふいにナターシャは、公爵令嬢マリヤがもう久しく彼女の顔に見なかった、いたずらっぽい微笑をうかべて言った。『あの方ったら、なんだかこう、さっぱりと、すべすべして、まるでお湯からあがったように新鮮な感じにおなりになったじゃない、あなたそうお思いにならない? ――精神的にお風呂からあがったように。そうでしょう?』」(第四巻第四編)
 何歳になっても、心だけは、こうした新鮮なすがすがしさを保ち続けたいものである。
21  女性の「信」の素晴らしさ
 家庭を持ち、妻となり母となることが、女性にとってどのような意味を持つのか、また、そうなると女性はどう成長し、変わっていくのか――。こうしたことに思いを巡らすとき、私の脳裏に鮮やかなイメージとなって浮かんでくるのはナターシャの変貌ぶりである。
 ロストフ伯爵家の末娘。瞳は常に明るく、生き生きと輝いている。美しい声の持ち主で、多感な情熱のほとばしり、豊かな笑い声は、周囲の人々を魅了してやまない。生の一瞬一瞬に全身を傾けて生きている姿は、若さと健康そのものである。
 しかし、時代の激流は、そうした可憐な乙女をも、容赦なく運命の大浪の中に巻き込んでいく。恋の破綻による自殺未遂、わが家の没落、婚約者や兄弟の死、戦争と平和、生と死、愛と非情――文豪の筆は、一人の乙女が、波瀾万丈のなかを生きぬいていく姿を、比類なき美しさに描き上げている。
 さて、変貌したナターシャが描かれるのは「エピローグ」の場面である。この章は、大作全体からみると、何となく付け足しのようにも思われ、妻や母としてのナターシャ像に、やや失望されるむきもあるかもしれない。しかし、私はそうは思わない。女性が結婚して家庭を持つことの意義が、実に深い筆致で掘り下げられており、トルストイの結婚観、家庭観を知るうえでは、全作品中でも白眉のところだと思っている。
 ヨーロッパ全土を揺るがした戦乱が去って七年。ナターシャはすでに女の子三人、男の子一人の四児の母である。夫、ピエールは帝政の過酷さに反発するある政治結社に関係し、留守にしがちである。ナターシャは家事、育児の一切を取りしきっている。少し太り、顔には落ち着いた穏やかさと明朗さがあふれてはいたが、その姿からかつてのナターシャのぴちぴちとして「たえず燃えつづけるいきいきした炎」のような彼女のおもかげをうかがうことは困難だ。
 ナターシャの変わりようは、以前を知っている人々には驚くほどであった。彼女は、社交界との交わりを断ち切ってしまった。無理にそうしたのではない。好きでなくなったからである。
 当時の貴族社会の常識を破って、乳母に任せず、授乳も自分でやった。彼女の最大の関心事は家庭である。だから「自分が髪を振りみだし、ガウンのまま、うれしそうな顔をして大またに子供部屋から駆けだし、(=病気を示す)緑色のしみのかわりに黄いろいしみのついたおしめを見せて、もう赤ん坊も大丈夫だと慰めてもらえる、そういう人たちとの交際を尊重」(エピローグ第一編)している。
 ピエールに対しても、ナターシャの愛情は愚直なほどだ。彼は、ときたま訪れた親戚を前に、時勢糾弾の演説をぶつ。話の途中、部屋へ入ってきたナターシャは、夫の姿をうれしそうに眺めている。夫の言っていることを喜んでいるのではない。そういうことに彼女は何の興味も示さなかった。
 「そんなことはみな、しごく単純なことで、ずっと前から知っていることのように思われていたからである(そんなふうに思われたのは、彼女はそれが出てくる源――ピエールの心をすっかり知っていたからである)。彼女はただ、彼のいきいきした、感激にみちた様子を見るのがうれしかったのである」(同前)
22  私は、女性は家事や育児に専念すべきだなどと言うつもりは毛頭ない。女性もそれぞれに、社会的関心を持ち、社会に参加していくべきは当然である。
 ただ私は、妻となり母となったナターシャの姿に、現代の社会や家庭から失われつつあるもの、しかも、人類が生き続けるかぎり、絶対に失ってはならないものが、うかがい知れるように思えてならないのである。夫婦や母と子の絆といってしまえばそれまでだが、そういう言葉では言い尽くせない何ものか。好みや物の考え方はもとより、理非曲直、ある意味では善悪さえも超えた、ある大きなものとの繋がり。ナターシャの結婚の時の心境を借りたトルストイの言葉によれば、こうである。
 「彼女は、前には本能に教えられて用いていた魅力も、最初の瞬間から自分の全存在を任せてしまった、つまり、どんな片すみも彼にわからないところはないように、心の底の底までうちあけてしまった夫の目には、今ではむしろおかしいだけだろうと感じていた。彼女は、自分と夫とのむすびつきは、はじめ彼を自分のほうへひきつけた、例の詩的な感情にささえられているのではなく、ちょうど、自分の心とからだとの関係のように、漠然とはしているけれども、しっかりした、何かべつのものによって保たれているのだ、こんなふうに感じていたのである」(同前)
 夫婦といっても、見ず知らずの他人が一緒になったものである。また子どもにしても、いつかは独立して、自分の手元を離れていく。自分の好みや、感情的な選択にまかせての繋がりでは、いつかは破綻をきたしてしまうだろう。
 幾多の試練を乗り越えていくためには、夫婦や親子の関係を支え、包み込んでいくもの、自分もそこから栄養分を吸い上げ、人間としての成長を図っていく精神の土壌が、何にもまして貴重なはずである。私は、そうした次元で妻や母親という存在の占める比重は、想像以上に大きいと思っている。「自分の心とからだとの関係のように、漠然とはしているけれども、しっかりした、何かべつのもの」――ナターシャは、たしかにそのことを実感していたにちがいない。
 そうした精神の土壌を、わが国では古来“縁”とか“天”という言葉で表してきたようだ。お互いを信じ、協力しあって人生の坂道を上ってきた生命が、幾多の試練を克服するなかで築き上げた愛情の絆の重さがそこにある。激しき風雪のたびに愛情と信頼が深められ、より深き絆と生命の一体感をかみしめることこそ人間らしい真の愛情といえようか。それは、人間同士、あるいは人間と物、人間と自然との絆を大事にはぐくんでいこうとする心の姿勢へと連なり、さらに夫婦や親子の愛情を超えて、深く人間愛、生命愛という精神の土壌にまで達していくように思えてならない。
 ナターシャの変貌は、人間同士、とくに女性の側からの「信」のかたちが、比類なき美しさで示されていると思う。それは、海のイメージで形容できよう。ある時は無限の包容力をもって清も濁も併せのみ、またある時は万物を慈しみはぐくみ、失意から蘇生へ、対立から調和へ、離反から結合へと導きゆく大いなる力。そして低次元の波風などどこ吹く風と、いつも深く静かな面を揺るがすことのない海。――私は、ピエールを見つめるナターシャの眼に、そうした、女性の揺るぎなき「信」の力の持つ素晴らしさが感じられてならない。

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