Nichiren・Ikeda
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第一節 『新・平家物語』
随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)
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30 幸せはわが心の中に
『新・平家物語』の最終章は、波瀾万丈の半世紀を生きてきた麻鳥と蓬の老夫婦が、美しい吉野山の桜を眺め、幸福をかみしめ、語り合うシーンで終わっている。
蓬は、しみじみと思う。
「よくよく、わたしは倖せ者だったのだ。これまで、世に見て来たどんな栄花の中のお人よりも。……また、どんなに気高く生まれついた御容貌よしの女子たちより」(「吉野雛の巻」)
蓬は、かつては、義経の母である常磐御前に仕えていた。その常磐は、夫・源義朝を失い、幼い三人の子どもとも引き離され、苦渋の生涯を送らなければならなかった。
蓬も、世の多くの人が願うように、夫が功なり名を遂げ、それなりの財を得て、豊かで安定した暮らしを望む気持ちは強かった。貧しい人々のために、家庭をも犠牲にして尽くそうとする夫に、腹をたて、文句を言いもした。
しかし、世の栄枯盛衰を見続けるなかで、蓬は麻鳥の言葉を思い起こしつつこう語っている。
「栄花や権勢は、うわべだけの物でしかない。九重の内に住む人びとと、貧しいちまたに生きている人びとをくらべれば、かえって、ほんとの人情や、人間の美しさは、公卿の社会より、貧者の町の底にあると。……それは、つくづく本当だと思いました」(「常磐木の巻」)
こうして、自らの幸せに気づいたのである。
人間の本当の幸せとは、富や権勢など、外面的な条件によって得られるものではない。
31 私も、これまで、数々の指導者や識者とも会ってきたし、多くの無名の庶民の方々とも語り合ってきた。たしかに、社会的な立場などが、そのまま幸せを意味するとはかぎらない。多くの財と名声を得ながらも、家庭の不和に悩み、安らぎもいたわり合いもなく、悶々とした日々を送っている人もいる。心から信じ合える友もなく、立場の維持に汲々となり、猜疑と孤独にさいなまれている人もいる。また、決して生活も豊かとはいえず、名も地位もない平凡な庶民であっても、家庭も円満で、希望に満ちた、充実した人生を楽しんでいる人も少なくない。むしろ、そのほうが、はるかに多いともいえる。
人間の幸せを考えるとき、最も大切になるのは、心の満足、心の豊かさである。幸せを、財や地位、名誉など外面的なもののなかに求めるかぎり、永遠に心の満足は得られない。富も地位も、求めれば限りがないからだ。そして、その獲得に終始していれば、いつも心は、“飢餓の泥沼”から脱しきれない。
心を満たすには、自身の内に「歓喜の泉」「感謝の泉」を持つことであろう。
麻鳥夫妻の生涯は、苦労に苦労を重ねてきた波瀾の日々であったといってよい。蓬は、ときにはそんな苦労に嫌気がさし、ついつい夫に愚痴をこぼしてきた。しかし、そうした自分を恥じ、桜を眺めながら、ひそかに夫に詫びる。常磐をはじめ、権勢の犠牲となった人々や、親子、兄弟で争い、骨肉相喰んできた人たちに比べ、どれほど自分が幸せであったかと感じ、感謝の思いをいだいていたからである。
麻鳥も、「これという楽しみも生活の安定も与えず、雑巾のように使い古してしまった妻」(「吉野雛の巻」)に、自分についてきてくれた妻に、礼や詫びを言いたいと思う。この感謝と感謝の共鳴が、互いの心に、いたわりと幸福の楽の音を奏でるのである。いかなる困難や試練にさらされても、感謝を忘れぬ人には、喜びがあり、幸せがあることを銘記したい。
また、麻鳥夫妻の幸せは、その生涯を利己のためではなく、貧しい人など、利他のために尽くしてきた喜びに裏打ちされていよう。利己のみに生きる人生は、どんなに富を得ても空しさが残り、本当の充実は得られないものだ。しかし、たとえ苦労はあっても、利他に生きるとき、自身の心は広がり、さわやかな充実感を得ることができる。
幸せは、彼方にあるのではない。自分の生活の中に、生き方の中に、そしてわが心の中にある。さらに麻鳥夫妻のこの光景は、人生の最後に幸せを実感できる人こそが真の幸福者であることを示している。彼らは、戦災で住む家さえ失ったこともあったし、非行に走った息子のことで悩みもしてきた。何度となく恐ろしい思いもしている。しかし、麻鳥は信念を捨てなかった。そして、老いて、幸せをしみじみとかみしめている。
途中がいかに幸せそうにみえても、人生の最終章が不幸であれば、悲しみと悔いが残る。最後の勝利者をめざし、日々悔いなく、わが人生を進みゆく信念の走者でありたいものである。