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日蓮大聖人・池田大作

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4 科学と宗教の関係  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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3  非宗教的な立場の科学者の考え方
 サドーヴニチィ 一方、これらの科学者たちとは別の世界観、宗教観を持っている科学者たちがいます。彼等もまた、多大な学術的功績をあげています。
 たとえば、ピエール・ラプラス(1749〜1827)とジェイムス・ワトソン(1928〜)です。この二人は共に画期的な研究成果をもって、基礎科学の発展に未曾有の進歩をもたらしました。それと同時に、彼らは、宗教と科学をまったく対立するものと見ていました。
 ラプラスは、ナポレオンに「あなたの『天体力学』の本には宇宙の創造者について書いてないが」と問われて、「閣下、私には、神は無用の仮定にすぎません」と答えたことで知られています。(『100人の数学者』数学セミナー臨時増刊、日本評論社、参照)
 ワトソンは、地球上にも宇宙空間にも「神聖なるもの」の存在の可能性を一切認めておりません。彼は、フランシス・クリックやモーリス・ウィルキンズらと共に、DNAの二重螺旋構造を明かし、遺伝情報がどのように伝えられるのかという多くの謎を解くための基礎を確立しています。今日、血のつながりがあるかどうかを判断する際の主要な方法が、この遺伝情報を使ったものとなっています。
 こうした科学者たちは、宇宙には客観的な法則が存在しており、科学は、人間がそれらの諸法則を理性的手段で発見していく過程であると考えています。したがって、生物界、無生物世界ともに、ある部分は既に科学によって認識され、またある部分はまだ認識されていないことになりますが、科学が進歩することによって、その認識は徐々に完全に近づいていく、ゆえに、世界は本質的に認識可能である、とするのが彼らの考えです。このような非宗教的立場をとる大多数の現代の科学者たちは、創世記をビッグバンと置き換えました。そして、物質は形状の変化を繰り返しつつ、宇宙は永遠に存在し続ける、と考えています。
4  「究極の精神的実在」に肉薄する宗教性
 池田 宗教を無視というか、冷淡な態度をとる学者はいても、よほどイデオロギー色の強い人でもない限り、宗教そのもの(その社会的、制度的側面でなく)を敵視する人は、ひとかどの学識者である限り、稀なのではないでしょうか。それほど科学への志向と同じく、宗教への志向も、人間に本然的なものであるからです。
 アインシュタインは、まさにそのような宗教への志向を体現していた人でした。晩年の彼の言行を追っていると「宇宙的宗教」「宇宙的宗教感情」「宇宙的人間」「宇宙的良心」といった言葉にしばしば出くわします。「神はサイコロを振らない」というのは、この大科学者の不敵な自信、自負を示したものですが、それは、カントが『実践理性批判』の末尾で示したような、大宇宙への畏敬の念、敬虔なる宗教感情を排するものでは決してありませんでした。
 「今や、人類は宗教の第三段階に入りつつある」として、アインシュタインは述べています。「真に宗教的な天才は、つねにこうした宇宙的宗教感覚を身につけており、教義も聖職者も人格化した神も必要でなかったので、異端者とみなされてきたんだ。聖詩や仏教の文献の中には、この宇宙的宗教を暗示しているものがある。異教徒のデモクリトス、カトリックのアッシジの聖フランチェスコ、ユダヤ教徒のスピノザなどもそうだった」(ウィリアム・ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る』雑賀紀彦訳、工作社)と。
 また、自然科学の分野ではありませんが、前世紀最大の歴史学者トインビー博士も、アインシュタイン同様、天地を創造したり、人々を裁いたりする人格神に対しては、否定的でしたが、「究極の精神的実在」へと肉薄しようとする人間の宗教性、宗教への志向を、きわめて重視していました。
 サドーヴニチィ よく理解できます。宗教は人間が人間であることの本質部分に深く関わっているからです。

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