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日蓮大聖人・池田大作

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2 「教養」という人間力  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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10  教員の力量と情熱で大学は決まる
 池田 20世紀を代表する精神病理学者、哲学者でもあったヤスパースは、科学の根本性格として、(1)強制的な確実性(2)普遍的妥当性(3)方法的意識の3つをあげています。
 彼のいう強制的な確実性とは、科学的洞察が、あらゆる人にとって強制的なものとして経験されることをとおして、確証されることを意味しています。また、普遍的妥当性とは、科学的洞察の中にある一致性のことを指しています。
 そして、今ひとつ、彼は、科学における方法的意識の重要性をあげ、科学的知の本質は、一つの帰結へと導く方法というものを熟知しているところにあると述べています。
 科学的知の対極に位置するものは、方法をもたない思い込みであり、都合のよい信念に基づく問うことのない受け入れです。
 大学院の時代に、学問の方法論を身に染み込ませていくことは、学問の探究者としての根本条件であるといえます。
 この点、何か参考になることがありましたら。
 サドーヴニチィ モスクワ大学の大学院を語る際、もうひとつ注目してほしい点があります。それは、大学院生の数が多いにもかかわらず、その育成にはきわめて個人的な指導、教授の仕方を採用していることです。ちなみに、2001年度は3000人以上の大学院生がわが大学に学んでいますが、その一人ひとりの指導は極めて個人的に進められていきます。博士号をもつ教官が、まれには準博士号の場合もありますが、個々の院生の指導教官となって、学問の道をともに歩む労をとるのです。
 池田 やはり教員の力量と情熱ですね。教員で大学は決まります。
 サドーヴニチィ どの指導教官に師事するかを決めるのは大学院生自身です。学問の師匠を自ら選ぶ、ここがポイントだと思っています。実際には、学部生のときに学んだ学科で大学院に進む場合が大半ですから、大半の大学院生は、学部時代からの、いわば学問のいろはから手ほどきをしてくれた教授に引き続き師事していくようです。ただ、あくまで、本人が選択することになっております。
 池田 先ほど、モスクワ大学で多くの大学院生が学んでいるというお話がありましたが、日本の場合には、2000年度(平成12年度)で、大学院修士課程に在籍している大学院生は、約14万2000人、博士課程在籍者は、およそ6万2000人です。
 大学に在籍している学生のうち、およそ5%程度が修士課程に進学しているということになります。これらの大学院生の中で、女性が占める割合は、およそ4人に1人です。
 また、国公立の大学の修士課程に在籍している院生の割合は6割強ですが、博士課程になりますと、4人のうち3人が国公立の大学に在籍しているという計算になります。
 日本では、学部生は、私立大学生の占める割合が圧倒的に高いのですが、大学院の場合には、国公立の占める割合が高くなっています。
11  最高の研究者は同時に善き教師でもある
 池田 さて、総長がご指摘のように、大学院生が、その先生を指導教員に選ぶかということは、日本でも、学生にとって、大きな意味を持っていることは確かです。
 大学院は、研究者である教員と、学生との共同体の中で真理を探究するという課題を担っています。
 最高の研究者は、同時に善き教師でもあります。優れた研究者は、ときに、教授法の面で、不器用なところがあったとしても、学問の精神との接触を可能にしてくれるに違いありません。
 善き指導教員や優れた研究者は、彼ら自身の存在が、生きた学問にほかなりません。学生は、こうした指導教員との交わりをとおして、学問というものが、いかにして根源的に存在するのかということを学びとっていきます。
 「学問の師匠こそが、衝撃を弟子の中に呼び覚まし、弟子を学問の源泉へと導く」とは、前述のヤスパースの言葉です。彼はまた、「自ら研究する人だけが、本質的に教えることができる」とも述べています。
 研究に情熱を燃やす学生たちは、善き学問の師匠と出会い、教育されることを誰よりも強く欲しているのです。
 サドーヴニチィ 現在、ロシアでは、「大学院制度はすでに時代遅れとなった、修士課程で充分だ」という声が聞かれます。私は、この考えには賛成しかねます。大学院は、次世代の研究者、そして大学の教員を養成する機関でありつづけるべきです。少なくとも、我がモスクワ大学は、国内の他大学の範であるとの自覚のままに、従来どおり、大学院で磨かれた若き俊才たちを毎年教師に迎えつつ、力ある教授陣を確保していく方針を今後も堅持していくつもりです。

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