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日蓮大聖人・池田大作

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1 教育と研究の両立  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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5  近代日本を創出した私塾の志と情熱
 池田 「卓越した教授と全人格的に慕う弟子たちがどこまでも自発的に、また自然に集って一つの思想的な流れを作っていく」といった伝統は、日本でも、小さなサークル的なものとしては、そこここにあったと思いますが、大きな潮流としては、なかったのではないかと思います。理由は種々に考えられますが、その根底には、日本の大学(とくに官立)の出自が、近代日本の国策にがんじがらめにされていた、という事情が大きいと思います。
 むしろ、「学脈」のような伝統は、徳川時代の末期、日本の各地に生まれた“私塾”に見られます。その代表格が、長州藩(今の山口県)にあった松下村塾です。そこには、吉田松陰という師のもとに、数多くの俊逸(彼らの多くは、身分、家格の低い者たちでした)が集い、学び、明治維新を切り拓く人材として巣だっていきました。
 そこには、人間を一切差別しようとしない卓越したヒューマニスト、教育者としての吉田松陰の「全人格的な魅力」がありました。またこれからの日本をどうするかという、「志」と「情熱」がたぎっていました。一言にしていえば、沸騰するような“教育力”が充満していたのです。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔磨、伊藤博文、山県有朋等、松陰門下を抜きにして、近代日本を語ることはできません。
 サドーヴニチィ なるほど、興味深いお話です。
 いつの時代でも教師が、学者、研究者であることを第一義とすべきか、教育者であることが前提なのかという視点は重要であり、同時に難しい問いでもあります。
 あえて申し上げれば、大学教育が「学術的知性」を育て、「学問を社会に還元する人材」を育成する機関である限り、やはり、一人の教師のなかに学者と教育者の両面を兼備することが求められるといわざるを得ません。モスクワ大学にあっては、そのどちらかのみを強調する、また一面だけでよいとする風潮はないと思っています。
 唯一、大学の組織運営や人事の上で、役職名が偏って響くことがあるとは思います。これは、我が大学が国立大学で、国家公務員の規定の中におかれ、役職名と給与の額が定められているからです。この規定では、大きく教師と研究員というたてわけがなされています。教師というのは、学科長、教授、助教授、講師、助師等を指し、研究員では、研究室長、上級研究員、研究員、助手等です。ただし、これとても実際には歴史的経緯によって出来たものが残っているだけで、今日の大学の現実を必ずしも反映した呼び方ではないのです。
6  大学院教育の充実と人材育成の急務
 池田 日本も、時代のスピードにどう大学が対応できるか。大学改革をどう進めていくかが焦点になっています。かつて授業で、同じノートを使って何年間も、ひどい場合は10年以上も講義をしているなどという事例もあったようです。これなど論外のケースですが、万般に亘り、日本の大学も大きく変革が求められています。
 事実、1997年から4年間、東京大学の総長を務め、国立大学協会会長でもあった蓮實重彦氏は、総長就任時に掲げた3つの目標の第1に、「あえて口にするのも恥ずかしい」としながらも「教育の重視」を掲げています。
 サドーヴニチィ そうですか。
 先に、私が、歴史的経緯と申し上げたのは、実は1917年以前のロシアの大学には、研究員というものは存在していませんでした。帝政ロシア時代、研究者と呼ばれる人々はせいぜい50人から100人ぐらいしかおらず、彼らはペテルブルク科学アカデミーに所属し、もっぱら研究に専念していたのです。
 一方、大学の教授は、講義を行うことがあくまでも本業とされ、もしも教授が何らかの研究活動をすることがあっても、それは単なる趣味とみなされていました。
 池田 重要な歴史です。その後、教授の役割は、どう変化していったのでしょうか。
 サドーヴニチィ かつては研究者と教授は、はっきり分かれていたのですが、時代とともに、高等教育に携わるものにとって学術研究は欠かせない要素だという考え方が強まってきました。
 1916年には、モスクワ大学の地質学の教授をしていたV・I・ヴェルナツキー(1863―1945)が、基礎研究分野へ大学の教授陣を参加させるべきであるという提案をするにいたりました。
 この提案をうけて、後にロシア科学アカデミーの下に各種研究所が誕生し、大学教授たちの研究活動の場となりました。また大学内における基礎研究も進んでいったのです。
 その先駆けとなったのは、1922年にモスクワ大学の中に設置された大学付属の数学・力学研究所です。この研究所は、はじめて研究者を養成する目的で「大学院」を開設しました。
 歴史的には、大学院は、「次世代の教授を養成する機関」と位置づけられてきました。つまり、大学が、将来大学で教鞭をとる教師を育てることを目的としていたのです。大学で教壇に立つための勉強ですから、大学院生は当然それにふさわしい資質と才能を要求され、その最も重要な才能は、個人の研究に閉じこもるのではなく、学生たちとともに真理を探究する開かれた姿勢でした。
 したがって、大学院生となった者は、はじめから研究と教育の双方を視野において両立に挑戦しました。これが、我が国における大学院の伝統となって、今も生きていると思います。
 池田 日本の多くの大学は、大学院の設備や人員がまだまだ不十分であるために、社会をリードしゆく学問研究の場、教育の場としての機能を十分に果たせていないという指摘もあります。
 日本の初等中等教育の水準の高さは国際的に評価されているのに対して、高等教育の弱体化が指摘されるのは、こういう点にもあります。
 また、日本の大学院の学生数は、アメリカの大学院生の数の20分の1にも満たないにもかかわらず、以前から、その就職先の不足が大きな問題となっています。
 大学を真に、学問研究の場、真理の探究の場、教育の場としていくためには、こうした大学院教育の充実と人材育成が急務であるといえましょう。
 大学院教育の充実をはかるという点では、教育内容や方法の改善ということも、今後は積極的に検討されなければなりません。創価大学の大学院の一部の専攻では、1998年から、国内の諸大学と単位の互換制度に関する協定を行い、その第一歩を踏み出しました。今後は、こうした各大学間の連携を強化することによって、大学院のカリキュラムや教育方法を、より弾力的なものにしていくことも重要になってくることでしょう。
 サドーヴニチィ 大学院の制度的諸問題には次章で触れるとして、別の言い方をすれば、「研究」と「教育」の関係は、よく数字でいわれる「順定理逆定理」なのです。つまり、教師が自ら研究をし続けなければ学問の最先端を教授することは出来ない、したがって優れた人材を育てて社会に還元することはできない。反対に、教師がいかに学術的研究の成果をあげても、それを後継の人に教え伝える姿勢を持たなければ、所詮教師ではありえない。
 教室にいる学生たちを我が弟子と思って育てることが出来なければ、学問に永続性はないと言わなければなりません。
 ビクトル・ユゴーが「芸術は個人が創り、学術は複数の人々によって創られる」とした通りだと思うのです。
 この理想を追求するため、モスクワ大学では、研究員にも教壇に立つ機会をもうけるとともに、教師も研究の時間が取れるように、授業数を出来る限り調整しています。事務運営上はなかなか難しい課題ですが、これ以外の方法はないと思っていますので、努力をしています。
 池田 いうまでもなく、それが理想ですね。どんなに教育熱心な教師であろうと、自らの専門分野で化石のような知識しか持たないとすれば、魅力のある授業など行えるはずはありません。逆にいえば、新たな分野を開拓しながら知的営為に取り組んでいる教師は、その姿そのものが、学生への最大の教育結果をもたらしている、といえるでしょう。

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