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日蓮大聖人・池田大作

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所感「教育のための社会」という指標 池田大作

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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10  ちなみに日本では、国内、国外を問わず”旅行ブームが続いております。国外はさておき、留意すべきは、少人数でも気楽に出かけられる国内の小旅行で、一番人気が集まるのが「自然」(リハチヨフ氏のいう「自然環境」です)や「伝統文化」(同じく「文化環境」です)の興趣が心ゆくまで味わえるところであるという点です。とりわけ京都や奈良、鎌倉、日光など「自然」と「伝統文化」がミックスされたところが、お目当てのスポットで、シーズンになると、文字どおり”門前市をなす”盛況を呈しております。
 いうまでもなく「自然」といい「文化環境」といい、経済成長一辺倒の近代化路線の下では、無視あるいは軽視され、二義的三義的な価値、ランクしか与えられてこなかった分野です。”猛烈社員”として夜に昼を継いで働き続ける夫、家事・育児の一切を背にがんばる妻、その両親の下でひたすら”いい子”の鋳型を要求される子どもたち――そうした”理想的”な家庭像、人間像が大揺らぎに揺らぎ、精神土壌の地殻変動に見舞われている今日、心の空白を埋めようと模索する人々のアイデンティティー(主体性)探しの旅が、おもむくところ「自然」と「伝統文化」に向かっているという事実は、きわめて示唆的です。
 「自然=空間」と「伝統文化・歴史=時間」から切り離された人間とは、もはや生きがいや世界観とは無縁の孤独な「断片」(D・H・ローレンス)にすぎず、そうした状態に、人間は耐えられるはずはないからです。
 それにしても「過去は、世界へと窓を開いてくれる。窓だけではなく、扉、さらには門、凱旋門さえも」というリハチョフ氏の言葉は、過去を大切にすることによってしか、未来への展望は開けないことをずばり言い当てており、さすがといわざるをえません。伝統文化に親愛することによって、人間性は陶冶され、生命空間はそれだけ豊かになり、日々新たなる自己充足と自己拡大の勝ちどきをあげることが可能となるからです。
 伝統文化とは、決して現在と切り離された過去のものではありません。それと意識しなくても、身体の一部のように自分自身に血肉化しているものであり、それを断絶してしまうと、自分が自分でなくなるような不安感、空白感に襲われざるをえない。広く先進諸国における文明論的課題となっている、ポスト・モダン(近代以降)の「アイデンティティー・クライシス」が、まさに、それであります。
11  そうした不安感、空白感を取り除いていくためには、いたずらに新奇を追い求めるのではなく、まず自らの歴史や伝統文化のなかに、アイデンティティーの足場を探し、そこから新たな展望を見出していくことです。「借古説今」(古を借りて今を説く)、「温故知新」(古きをたずねて新しきを知る)といった、中国民族の知恵や歴史意識は、決して軽視されてはなりません。
 ゆえに私は、一例をあげれば、”活字離れ”が著しい若い人たちに対して、つとめて古典や古今の名作に取り組んでいくよう、訴えてやまないのです。その名に値する古典や名作との格闘(それは、テレビ観賞など受け身に終始する受動的な気楽さとは対蹠的な、能動的かつ意志的な精神の営みであります)は、単に知識が増えるなどといった次元ではなく、それによって自分が生まれ変わる、まったく新たな自分へと脱皮する、劇的な結果を伴うものです。人間の内面を陶冶しゆく、まさしく文化が有する最良の教育的効果といえましょう。
 その効果の及ぶところ、リハチョフ氏のいう「凱旋門」が必ずや待ち受けているにちがいありません。たしかに、いかなる古典や名作もその民族独自の伝統文化から生まれたものですが、同時に、ゲーテが「愛国的な芸術も、愛国的な学問も存在しない。芸術も学問も、高尚ですぐれたもののすべてと同じく、全世界に所属する」(『箴言と省察』岩崎英二郎・関楠生訳、『ゲーテ全集』13所収、潮出版社)と述べているように、どこかで人間というグローバルで普遍的な視座に回路を通じているのが、古典の古典たる、名作の名作たるゆえんだからであります。
 その意味からいって、文化とは、全人的教育を推進し、「教育のための社会」を構築しゆく、まぎれもない主役であると思うのです。

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