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日蓮大聖人・池田大作

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2 対話の力――「平和の世紀」を求めて…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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8  「ソビエト化」の壁となった伝統的な制度
 池田 その点は、ゴルバチョフ元大統領も私との対談のなかで、力説してやみませんでした。いわく、「私は、わが国で始まった民主改革が、民衆に対して古いノーメンクラトゥーラ(特権階級)的発想を抜けだしておらず、”選ばれて権力を付与された者”と、モルモットになるべく運命づけられた”その他の人々”という対比の次元にあることを、深く懸念しております」(『二十世紀の精神の教訓』本全集第105巻収録)と
 ゴルバチョフ氏は、そうした発想を生むメンタリティーを「エリート主義、思い上がり、排他的絶対性」(同前)としておりました。
 また、私の友人であるアイトマートフ氏の故郷キルギスに材をとった作品などを読んでいると、旧ソ連にあって、中央アジアの風俗・習慣、伝統のなかから、ヨーロッパ産の理論の鋳型にはめた”ホモ・ソビエチカ”(ソビエト人)をつくり上げることが、いかに至難の業であるかが、よく伝わってきます。
 こうした事情は、多民族国家であった旧ソ連のどこでもみられたでしょうが、伝統を重んじるイスラム圏においては、より深刻だったのではないでしょうか。
 ソビエト化を急ごうとする当局にとって、イスラム独自の氏族共同体や大家族制度が、いかに巨大な壁となって立ちはだかっていたか――。ロシアの人々は、当事者としてはるかに身にしみておられると思います。
 そうした経験が本当に生かされていれば、あたかも看板を掛け替えるような安易さで、「共産主義の完全勝利」から「市場の完全勝利」(いずれも、ゴルバチョフ氏の言葉です)に走ることはなかったはずです。
 サドーヴニチィ 残念なことに、この動かしがたい事実を認識している人は、政治家はおろか著名な学者のなかにもほとんどおりません。
 カール・ポパーがその例です。彼は、ポスト・ソビエト時代のロシアについて次のように書いています。
 「もしも(ロシアが)独自の経験だけを頼りにことを進めるとしたら、早期復興は叶わないと考えます。このような場合においてもっとも近道なのは(無論、完全な道ではないとしても)、ロシアが西側の法制度を借用することではないかと、わたしには思われます。それが基本的に可能だということを示したのは、日本でした。一八七三年、日本は、ヨーロッパを手本に工業化計画を実施するための必要性を認め、ドイツの法制度を受け入れました。ロシアにとっての可能な選択肢の二つは、ドイツかフランスの法律でしょう……」
 池田 カール・ポパーの主張には、首肯すべき点も多いのですが、”オープン”に固執するあまり、市場原理や競争原理を至上とする傾向をもっている点は、警戒しなければなりません。
 サドーヴニチィ また、周知のように、ソビエト連邦の崩壊後、アメリカの社会学者F・フクヤマの「歴史の終わり」というテーゼが、広く世界に普及しました。このテーゼの本質は、「今後未来永劫にわたって地球上のすべての人が共有すべき『ゲームの統一ルール』が誕生した、それは西側の提唱してきたリベラリズムである」というものです。彼に従えば、時間は消え去り、「リベラルな永遠」が訪れたことになります。
 したがって、地上にあっても、あの世と同様に、あらゆる伝統はまったく無意味になります。なぜなら、伝統が生かされたり、現代に蘇ったりする「時」が、今後永遠に訪れないからです。
 池田 「リベラル・な永遠」というコンセプトが絵空でしかないことは、フクヤマが次の著書『TRUST(信頼)』(邦訳『「信」なくば立たず』加藤寛訳、三笠書房)で、次のように弁明していることからも明らかです。
 「『歴史の終わり』の時期に姿を現わすリベラルな民主主義は、したがって、必ずしも『近代的』ではない。もし民主主義と資本主義の諸制度が正しく作動すべきだとすれば、それらはいくつかの前近代的な文化的習慣と共存し、後者によって程よく機能させられなければならない。法、契約、そして経済合理性は、脱工業化社会の繁栄と安定に必要な土台を提供するが、十分な土台を提供するわけではない。
 それらもまた、互恵主義、道徳的義務、コミュニティーに対する責務、そして信頼によって発酵させられなければならない」
 リベラルな民主主義の勝利を言挙げした彼も、期せずして、伝統的な文化的諸価値へと目を転ぜざるをえなくなっているのです。
9  人間生命の深層にある宇宙大の生命次元へ
 サドーヴニチィ それが、いつわらざる現実ですね。このように、「伝統と近代化」の矛盾をいかに解決すべきかを追っていくと、私は必然的に、はたして「近代という一つの価値体系が、伝統というもう一つの価値体系を完全に凌駕してしまうことは可能であろうか」との設問に行き着くのです。
 基礎科学を例にとれば、古い理論がもともと問違ったものでない限り、つまり実験や計測の間違いをもとにつくられていない限り、新理論が旧理論を完全に凌駕することはありえません。
 池田 二者択一のような性格のものではない――と。
 サドーヴニチィ たとえば、相対性理論、量子力学、不可逆過程熱力学等は、古典的力学を超えました。しかし、超えたといっても、古典的力学が応用可能な領域の限界を示したということでしかありません。そして実際、この古典的力学の法則が働いている空間と環境こそが、人間が日常的生活を営んでいる空間、環境なのです。
 古典的力学があてはまらなくなるのは、極値条件においてのみです。つまり、速度が光速に近づいた場合とか、現象の規模が巨大である《巨視的世界》か、あるいは微小である《微視的世界》ために、いかなる科学技術の進歩をもってしでも、観察することが叶わず、計算上でのみ知ることができるような場合です。
 私は、とのような基礎科学の例を伝統と類似させ、比較したうえで、「それぞれの文化に根ざしている伝統というものを消すことは、原則的に不可能である」と申し上げたいのです。
 池田 まったく同感です。「業」(カルマ=行い、振る舞い)というものが、世代を超えて蓄積されてくると説く仏教の生命観に照らしても、伝統との断絶など不可能です。
 サドーヴニチィ 無論、類推はあくまで類推にすぎず、証明したことにはなりません。それにもかかわらず、学問において類推法は使われていますし、効果的とされています。
 ともかく、「どの伝統は保持しなければならず、どの伝統は捨ててよいか」と考えるのは間違っていることを指摘しておきたいのです。なぜなら、「伝統」に対しては、強制的手段では歯が立たないのと同じ程度に、国民投票などのいわゆる民主主義的やりかたも、やはり功を奏さないからです。
 まさにこのために、私は、「伝統と近代化」の問題を「時間」との関係のうえでみていくことが重要であると考えます。そうすることによって、伝統と近代化を、いってみれば「時間の設計者」ととらえることが可能になり、「伝統」と「近代化」の鋭い拮抗を和らげることになると思いますが、この点についてお考えをお聞かせください。
 池田 伝統と近代化を「時間の設計者」ととらえるためには、両者に通底している”生命”にスポットを当てねばなりません。
 伝統とは、営々たる人間の生きざまの集合体、あるいは融合体です。仏法的に表現すれば、民族や国家の営みによって、蓄積されてきた「共業」といえましょう。それぞれの部族、民族、国家などは、独自の「共業」をもっています。したがって、おっしゃるとおり、政治的なアプローチなど歯が立つはずがありません。
 しかし、一つの集合体、融合体としての「共業」は、決して閉鎖的なものととらえるべきではありません。人間生命は、時間的にも空間的にも、一個人を超えた広がりをもつというのが仏法の優れた知見です。詳しくは略しますが、現象次元では、男女、人種、民族、階級、国家などの差異はありますが、生命の深みにおいては、それらの差異を超えて人類意識へと広がっていき、さらには、動物や植物などの他の生命体とも融合していきます。
 したがって、人間の営みであるそれぞれの階層の「共業」も、個人から家族、民族をへて、人類、大自然へと開かれていきます。
 異なる伝統(共業)が、それぞれに差異の相を示しているからといって、そこに執着しているのは生命の表層次元にとらわれるからであって、深層へと降り立ってみれば、そこには必ず、人間の名において共振し合える生命次元があるはずです。
 閉ざされた部族意識、民族意識の次元での「共業」を打ち破る、さらに深い次元からの、開かれた人類意識の発現――これが、仏教の業論(共業)から導き出される人間観、平等観です。
 現在、グローバリズムという形をとりつつある近代化は、きわめて表面的、外面的なものであって、人類意識や地球市民意識といった内側からの変革を伴わなければ、害悪にさえなりかねません。すでにそれは、社会のひずみとなり、経済の面でも異常な拝金主義という形で姿を現しつつあります。
 サドーヴニチィ その点は、我々がすでに論及してきたところですね。
 池田 ええ。ですから、環境破壊や紛争の絶えない世界から、人間と自然の共生、そして、調和と安定の社会をいかに築いていくか。
 専門的になりますが、仏法では、一個の人間生命の内奥を洞察し、人類意識をも超えた宇宙大の生命を見出しました。この偉大なる宇宙生命を仏法では「仏性」と呼んでいます。宇宙生命には、万物を育みゆく慈悲と智慧が横溢しております。仏法は、この宇宙大の慈悲と智慧を顕現することにより、人の生命から家族、民族、国家、人類の「共業」まで、根本的な変革が可能になると説きます。私どもが推進している人間革命運動も、そこに大きな意義があると思っています。
 サドーヴニチィ 世界に広がる創価学会インターナショナルの運動の根底には、深い仏教哲学とそれへの信仰に貴かれた実践があるのですね。

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