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日蓮大聖人・池田大作

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1 「地球文明」――多民族の共生と平和…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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7  多様な解釈が可能な「伝統」と「近代化」
 サドーヴニチィ 大切な視点ですね。ここで、問題の本質に踏み込む前に、「伝統」と「近代化」の概念を確認する作業に立ち返ってみたいと思うのですが。
 辞書には、「伝統」とは、古くから知られていること、一つの世代から次の世代に伝えられたこと、前の世代から受け継いだもの(思想、視点、趣向、行動形式など)と説明されています。また、ロシア語の「伝統」の語源であるラテン語の traditio は「伝達」、「叙述」の意味をもっています。実際、伝統は、日常生活の行動秩序として伝えられる形式や、口承または文字によって伝えられる物語、伝説、などの形をとります。
 そして大事な点は、いずれかの伝統がいつから始まったか、時間的な起点は確認されていないことです。また、伝統は、遠い昔からのもので、基本的には善い事柄で、それゆえ保存され、今の人たちも踏襲すべきとされる点です。
 池田 仮に、互いに眉をひそめたくなるような伝統、習慣があったとしても、それは異文化からの観点で、当事者にとっては、さほどの違和感はないのかもしれない――そうした複眼の視線を忘れてはならないでしょう。その意味でも文化相対主義の立場が重要です。
 サドーヴニチィ 「近代化」(フランス語では*moderniser*という言葉は、「現代的にする」「現代の要請に合わせ、必要な改善を加えて変える」、たとえば「古い機械を新しい技術の機械と交換する」などの意味があります。また「モダニズム」という言葉は、今から約百年ほど前から、芸術、後に建築の分野で使用されるようになりました。つまり、当初はどちらかというと美的スタイルを表現する概念でした。このモダニズムを母にして生まれたのが、ヨーロッパ芸術の新しい潮流(前衛派、象徴派、その他)です。
 後に二十世紀の後半に入ってからは、「近代化」は、宗教界の世界観の近代化という意味でも使われています。この場合、これまで宗教が教義上譲れないとしてきた世界観に関して、近代科学によって実証された事実、見識との整合性をもたせるため、宗教界からの一定の譲歩をしたことを意味します。その最も象徴的な例は、カトリック教会にみられるでしよう。ローマ法王は、教会の天動説を守るために行われたガリレオ裁判について、近年になってようやく、教会の非を認め、公式にガリレオの名誉回復を宣言するにいたりました。
 また、二十世紀半ば以降、「近代化」は、多くの場合、「科学技術」とほぼ同義語として使われてきたともいえます。
 現今では、「近代化」は、さらに広い意味をもつにいたり、西側の伝統と西側の価値観を基礎とする世界のグローバルな変革全体を指すようになっています。それゆえに、最近では、「近代化」という代わりに、「グローバリゼーション」と表現される場合が多くなっています。
 池田 封建的なるものと訣別し、そこからどう脱皮するかを共通課題としつつも、その内容はじつに多岐にわたっている、ということですね。
 サドーヴニチィ そうです。このように、「伝統」と「近代化」は多様な解釈が可能であり、政治、宗教、芸術、経済、道徳、家庭等々、それぞれの次元で異なる意味をもっています。
 同様のことが、教育の分野でもいえます。伝統と近代化がはらむ問題の震源を探ると、まさに教育にたどり着くといえないでしょうか。
 ただし、この永遠の課題は、学生と教授陣がつねに入れ替わっていくなかで、教育に特有の方法でたえず解決が図られているともいえます。
8  物理的時間と異なる独自の「内的時間」
 たしかに、モダニズムにまで話を広げてしまうと多岐にわたるのですが、私が申し上げているのは、文明史的な一つのメガ・トレンド(巨大な潮流)――すなわち、過去数百年にわたって世界的に拡張された、科学技術を駆動力とする欧米主導の近代文明にほかなりません。とくに、それが濃密に帯びている一様性、非人称性というととにスポットを当ててみたいのです。
 よい意味でも(主として物質面での多大な恩恵、利便性)、悪い意味でも(戦争や環境破壊、欲望の肥大化)、この一様性、非人称性こそ、近代科学技術文明のグローバル化をうながした一大特徴であり、そこから、その地域、民族ならではの伝統を形成する多様性、人称性の世界との軋轢が生じてくるのも、なかば宿命づけられているといってよいでしょう。
 軋轢から生じるきしみ音に耳をふさいでいるばかりでは非生産的であり、何とかして、きしみ音をなくすか、和音へ転じるかの舵取りを迫られているのが、”ミレニアム”の時を生きる我々の使命です。
 何らかの形で、平和的な”地球文明”といったものを構想することは、カントやルソー、サン・ピエールの時代とは比較にならぬほど、差し迫った課題なのですから。
 サドーヴニチィ 尊敬する池田博士、あなたは、「近代文明の普遍的な世界化の性向から逃れることのできない他の文明は、それをどう受けとめ、どう対応していくかという選択肢にしぼられざるをえない」と指摘されました。
 ここであなたは、伝統を「時間」の概念でとらえるもう一つの大切な視点を取り上げられているのだと拝察します
 私たちは、「伝統」と「近代化」について考えるとき、それぞれの概念が何らかの地理的広がりに関係していることと同時に、「時間」的現象であることを直感的に感じています。そして、やはり直感的に、「伝統」と「近代化」がそれぞれ別のあり方で「時間」と関係していると思っています。しかも、年代順の別というよりは、むしろより根本的に異質の二つの「時間」なのだと。つまり、伝統と近代化は、独自の内容をもつ別々の「時間」と相関しているということです。
 池田 「近代文明が濃密に帯びている一様性、非人称性」と申し上げましたが、そこから類推される時間のイメージは、たしかに物理的時間――一日が二十四時間、一年が三百六十五日という、均質でだれにも当てはまるような物理的時間のイメージに近いですね。
 サドーヴニチィ ええ。それに対して、私個人は、一つ一つの伝統は、それ独自の内的時間をもっていると考えています。我々は、「伝統の復活」とか「伝統に立ち返る」といったことを口にします。時には、今までになかった何か「新しいもの」ができることを指して、「伝統が生まれる」という表現も使います。
 ただし、いわゆる新規のものを伝統という範疇に納める場合、その中身をよく吟味してみると、新規であるかに見えても、じつは以前から生活のなかに存在していたものが衣を変え、趣向を新たにしたにすぎないということが往々にしてあります。ことわざにも、「あらゆる新しいものは、大いに古くて忘れられていたものが戻ってきたにすぎない」とあるくらいです。
 池田 東洋にも、同じようなことわざがあります。たとえば「温故知新」(故きをたずねて新しきを知る)あるいは「借古説今」(古を借りて今を説く)等とあります。いずれも古を尊び、古をもって現代のはんとするという趣旨であり、伝統のなかに、現代の歪みを正す知恵を見出しています。そのことは、「史書」が「鏡もの」と呼ばれていることからも明らかです。つまり、歴史は、現代の姿、理非曲直を映し出す鏡と位置づけられているのです。
 その次元の時間のイメージは物理的時間とは明らかに異質です。

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