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日蓮大聖人・池田大作

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3 未来社会のモデルを求めて――「競争…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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9  「内発性」なくして「平等」の実現はない
 サドーヴニチィ 2000年2月、ダポスで開催された世界経済フォーラムで、ブレア英首相は、グローバル化の問題に触れ、「今や、収入を等しくするという旧左翼的平等観は、すべての人格に等しく価値を見出すという平等観と交代した」と発言しました。もしも、あなたがこの考え方に賛同されるなら、「自由」と「平等」の概念は、今後どのように変化していくとお考えですか。
 池田 ブレア首相の言葉は、原則として正しいと思います。それは、先に私が「機会の平等」は大切だが「結果の平等」などありえないだろうと申し上げたことと重なり合うからです。また、あなたが、自意識を持ち人格を持つ人間であるという一点において、完全な平等が保障されるべきである、とおっしゃった点とも符合しています。「人格」とは、「自由」と「平等」との結節点といってよい。
 しかし、そういっただけでは、枠組みを定めたにすぎません。私が「原則として」といったのは、その意味です。大切なことは、その「人格」をどう内実化させ、自己実現、自己完成への道を歩んでいくかということです。その内実化のプロセスで一番大切なキー・ワードとして、私は「内発性」という言葉を提起しているのです。
 サドーヴニチィ たしかに、それが一番のポイントであり、重ねて全面的に賛同の意を表したいと思います。
 池田 一例を挙げれば、1960年代のアメリカの公民権運動の輝かしい成果として知られる”アファーマティブ・アクション”があります。ご存じのように、これは、過去の人種差別への反省の上に立って、黒人などマイノリテー(少数派)の人々に対してなされる、教育、雇用面での優遇措置です。これは、社会に根強く巣くっている差別意識、差別構造を是正し、「機会の平等」をもたらすための画期的な”一石”として喧伝されましたが、期待に反して、はかばかしい成果をあげていないようなのです。
 サドーヴニチィ たしかに、報道を見ていても、人種がらみの事件は、後を絶たないようです。
 池田 黒人中流階級の識者であるシェルビー・スティール氏は、「(=施行以来)20年がすぎた今日、どんな研究結果を見ても、黒人と白人の格差は広がる一方である」(『黒い憂鬱』李隆訳、五月書房)として、次のように述べています。
 「アファーマティブ・アクションは、黒人に優遇措置を提供しているが、実態は、発展に貢献しない逃避主義的な人種政策にすぎないと思う。人種的優遇措置は、職業訓練プログラムではないし、技術を教えてくれるわけでもない。また、価値観を教えるわけでもない。ただ、単に肌の色をパスポート代わりにするにすぎない。さらに、人種的優遇措置には、自助努力を忘れさせ、優遇措置に依存させるという最大の弱点がある」(同前)と。
 すなわち「機会の平等」を保障するための法的、制度的枠組みを作っても、マイノリティーの側からの「内発性」に裏づけられないと、スムーズな内実化は望めないのです。
 また、公民権運動に尽力した白人良識派の贈罪意識に発する善意は十分評価されるべきですが、その後のへイト・クライム(憎悪犯罪日人種差別に基づく憎悪が生む犯罪)の増大などをみると、白人の側に、アファマティプ・アクションへの内発的なコンセンサスが形成されていたのかどうかという疑いさえ兆してしまいます。したがって「内発性」ということをおろそかにすると、多かれ少なかれ、あなたのおっしゃる「ケンタウロス」を現出させてしまうのです。
10  学びのプロセスのなかにある自由と平等
 サドーヴニチィ 人種問題のむずかしさは、ソ連邦の崩壊後、人権や民族をめぐる紛争が荒れ狂い、今なお終息に向かう気配さえ見えない我々の現状に照らして、痛いほど身にしみています。
 さて、私の三番目の命題は「教育」に関係してきます。ここで、自由と平等の問題を、学術、教育の観点から、なかんずく最高学府としての使命を担う大学教育の場から考察させていただきたいと思います。最初の設問は、おおよそ次のようになると思われます。
 「社会と世界の自由と民主主義の発展のために、大学は何ができ、何をしなければならないか」
 大学の主要な使命は、学内の制度、学風を通じて、自由と平等の理想的あり方を示すことにあると信じます。
 新しい知識を獲得するプロセス、別の言い方をすれば、学術研究の創造的プロセスは、そのアプローチに、おいて本質的に自由を内在させた。プロセスといえます。さらに、未知と未開のまえに、どの研究者も平等であります。この学問の進め方を学生たちに教え習わせることは、とりもなおさず大学が学生に自由と平等の精神をも教えていることになります。
 さらに、すでに蓄積されてきた知識を伝達するという教育作業も、自由と平等の原則が貴かれて初めて可能となるものです。いうなれば、学生が学ぶことを自由意思で決意しない限り、彼らに何かを教えるのは不可能です。また、講義にあっては、教授の前に座るすべての学生は平等です。
 池田 「学生が学ぶことを自由意思で決意」することこそ根本であり、その学びのプロセスのなかに自由や平等の実質もある、ということは、まったく正しいと思います。それこそ、学問の世界における「内発性」そのものだからです。
 サドーヴニチィ 私たちモスクワ大学は、頑なに「大学の自治」を主張し続けております。なぜか。それは、大学の教育内容に国家権力の介入を許さない大学の独立性こそが、最高学府において自由と平等が生まれ、育ち、発展する要件だと信じるからです。
 大学のなかに不平等と強制はあるか、と問われたなら、不平等はあると答えます。その不平等は、学生時代に習得する知識の範囲と深さが学生によって差が開くことです。この不平等は、今後もなくならないでしょう。強制もあります。大学という社会が規定する行動規範を守ることを要求します。たとえば、定められた期聞に試験を受ける等です。ただし、「強制」のほとんどの部分は不文律で、キャンパスのなかで育まれた伝統であったり、淘汰されてきた道徳的規範であったりします。
 池田 それがなくなれば、「平等」は「悪平等」となり、「自由」は「勝手気まま」に堕すことは、我々が確認し合ったことです。
 サドーヴニチィ ところで、大学にあって唯一、自由と平等の問題の本質が浮き彫りにされる場面があります。それは、学問が本来、国際的性格を持って生まれたことに関連しています。
 学問は、その発生以来、アラブやインド世界の数学、哲学等の豊潤な成果を吸収して発達しました。さらに、エジプトとバビロニアの「愛娘」として生まれた古代ギリシャの学問に影響され、その伝統を継いで成長し、十二世紀にその容姿を披露するところとなりました。今日に至つては、過去の時代にいやまして、学問は、国境の存在にまったく無頓着です。
 池田 それが、学問というもののよい点でもありますね。一方、総長が指摘されたグ頭脳流出、手をこまねいているわけにもいきません。
 サドーヴニチィ 一般的に、近代の学問は、経済の目覚ましい発展の恩恵として、国家のボーダーを超えて知的集積が成された結果としてヨーロッパに誕生した、という考え方が定着しています。ヨーロッパ型学問の典型と概念が形成されたのです。しかし、第二次世界大戦後、学術の基礎研究の中心はアメリカに移りました。その一つの背景としては、大戦中、ナチズムを逃れて多くの学者がアメリカに亡命したことが挙げられます。
 池田 アインシュタインなどは、その代表的人物ですね。
 サドーヴニチィ 戦後は、アメリカでの働きやすさや「マンハッタン計画」が魅力的だったことが、彼らをアメリカに引き止めました。このプロジェクトは、初の原子爆弾製造計画で、後に世界中の学術界がこぞって導入するところとなった研究事業推進の組織モデルを作りました。これによって、研究事業の方法と手段が統一されたといえます。
 以来、学問は、きわめて限られた期間に最大の成果を挙げることが要求されるようになり、したがって、思考方法もそれまでとはまったく違った次元に置かれました。
 こうしたことが、学問の質を変えないではおきません。基礎研究が一国によって独占され(現在はアメリカによる独占ですが)、そして完全に商業化されているととは、経済面、政治面の自由と平等にも色濃く影を落とさざるをえないと思うのです。
 池田 教育とくに大学教育と国家や社会との関係がどうあるべきかは、まさに、新たな世紀の最大の課題であると、私も常々考えております。”国家や社会のための教育”なのか、”教育のための国家や社会”なのかーこれは、教育のあり方の根幹が問われる問題です。

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