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日蓮大聖人・池田大作

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2 新生ロシアの挑戦――カオスからコス…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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7  日本社会に根深い「世間」という集団意識
 池田 ”ルースキー(ロシア的)・アナーキズムという言葉を、よく耳にします。無統制だが活気にあふれた混沌――善悪は別にして、そこにはロシアという国の民族性というか、大きな魅力があります。
 日本の教育はそれと反対の側面があります。そうした秩序感覚すなわち自制心、内面的自己統制力を育んでいるのは、個人主義的伝統に根ざす自律の精神とは異なり、日本独特の集団主義によるところが大きいのです。
 この集団主義を特徴つけているのは、仲間意識の一様性、少数意見の排除、外に向かっての閉鎖性などがあげられると思いますが、学校であれ会社であれ、各種の団体であれ、日本人の集まるところ、この集団主義的色彩を濃厚に帯びております。そして、日本人の意識や行動様式を決定づける第一義的な要因は、個人の意見や判断よりも、集団への帰属意識、つまり仲間うちの”眼”です。
 個人よりも先に集団がある――といってもこの集団は、国際社会まで遠望する開放系ではなく、あくまで、仲間うちにとどまる閉鎖系の域を出ません。
 サドーヴニチィ ロシア人の場合、他人の”眼”、他人の都合などおかまいなしに、一方的に自己主張する傾向があります。
 池田 一長一短かもしれません。日本のこうした集団主義を、著名な歴史学者の阿部謹也氏は「世間」という、まととに適切な言葉を使って解明しています(『学問と「世間』、岩波新書、参照)私は、翻訳の世界はつまびらかではないのですが、おそらく「世間」に相当する適切なロシア語はないのではないかと思います。一方、阿部氏も指摘しているように、「世間」にまつわる日本のことわざや言い回しの類は、おびただしく伝承されているのに比べて、「社会」にまつわるそれは、皆無といってよいのです。「世間」という集団は、それほど日本人の意識の深層に根ざしているのです。問題を起こした会社の役員などが、必ず口にする言葉――「世間をお騒がせして申し訳ありません」――は、帰属意識がいかに強いかの証左です。
 サドーヴニチィ なるほど。興味深いご指摘です。
 池田 こうした集団主義が、日本人の個性を、影の薄いものにしているのです。個人を立てるよりも他人の眼、世間の眼を気にする、意見を押し通して摩擦を生むよりも、和を尊ぶ――おとなしくて”お行儀”がよいわけです。
 よく、国際会議の場での日本人の行状が、三つ”S”、すなわち「微笑(スマイル)」「沈黙(サイレンス)」「居眠り(スリープ)」(笑い)などと皮肉られるのも、語学の問題に加えて、個人の意見を強く押し通すことを嫌う日本人の意識構造、秩序感覚によるところが多いのです。しかし、こうした日本人の特性は、今後マイナスと出る場合のほうが多いと思います。とくに国際化の流れのなかで、他国の人々と交流し、相互理解を深めていくには、自分の考えをもち、はっきり主張していかなければ、一歩もことは進まないからです。
 文化国際主義の時代にあって「沈黙は金」という日本のことわざは、美徳でも何でもありません。
 サドーヴニチィ わが国の教育が優れているか劣っているかは、私には判断しかねます。ただ、いずれの教育も、国民的メンタリティー、民族文化を反映させていることは確かでしょう。
 重要なことは、これらの民族的、文化的特徴を知ったうえで、それぞれが独自の教育制度を創り出すことです。教育の方法論は違っても、その目的は共通です。自由、平等、公正、豊かさ、富、等々です。
 池田 そうですね。日本の場合、近代化の後発国ということもあって、戦前はドイツの、戦後はアメリカの教育制度の影響を強く受けてきました。最近は、高等教育のみならず、初等・中等教育も含めて、教育再建が国民的課題としてスポット・ライトが当てられていますが、それらを踏まえて、日本の伝統に根ざした教育制度のあり方を、再考すべき時期に来ているように思います。
8  国際化の潮流と新しい「孤立主義」
 サドーヴニチィ さて次に、「自由」と「平等」について、学術的立場から、より分析的にアプローチしてみたいと思います。
 私の理解が正しければ、尊敬する池田博士は、自由と平等を、拮抗、対立する社会的概念ととらえておられる。そしてこの、本質において二律背反する概念を止揚するものが、内発性と寛容性であると述べられております。
 私たちは本対談で教育の問題に取り組もうとしているわけですが、実際、自由と平等の関係性は、教育の理論面、応用面において、ともに重要な意味をもつものです。
 池田 おっしゃるとおりです。重要な視点です。
 サドーヴニチィ 自由と平等の問題の歴史的側面については、数え切れない量の出版物や学術論文が綿々と論じてきたところですので、ここではあえて踏み込まないことにします。私は、この問題の今日的側面に、より関心を抱いています。
 今まさにニ十世紀が幕を閉じ、二十一世紀が開幕しました。唐突な終わり方です。近代、現代史を通して、こんなあっけない世紀の終わりと始まりは、いまだかつてなかったように思われます。人類の二十世紀から二十一世紀への移行は、西欧文明が圧倒的となり、それがたとえだれかにとって気に入ろうと入るまいと、その価値観が世界を独占したのと時を同じくしました。西欧文明にいまだ完全には同調できない地域でさえ、西欧化に取って代われる、発展のための現実的選択肢を持ち合わせていません。西欧の価値観に太刀打ちできる、まともな競争相手は、個別の国としても国家集団としても、存在していません。
 池田 たしかに西欧、欧米的な価値観が、支配的な時流となっているという現実は、だれも否定できません。
 サドーヴニチィ したがって、自由と平等の本質について語るととも、はたまたそれらの相関関係を弁証することも、西欧型以外の選択肢がないという現代世界の実情を踏まえた論議でない限り、有効たりえません。
 そこで私は、問題分析の出発点として第一の命題を次のように立てます。世界のグローバリゼーション、なかんずく西欧化は、自由と平等の概念に対してパラダイム(思考の枠組み)の変化をもたらすプロセスである。
 命題の第二は、グローバリゼーションがもたらす自由と平等の規範的変化を考えるうえでは、精神・文化面をそのプロセスから一応切り離す必要がある。なぜか? それは、自由と平等の本質は倫理観のみで規定できるものではないからです。
 第三の最後の命題は、教育と大学は、いかにグローバル主義者の圧力が強まっても、過去の時代同様、民族の精神性と文化の主要な中心地であり続け、そのような文化が集約され、発信されていく拠点であり続ける。同時に、大学こそが、西側の技術と国内の科学的成果とが交流し、融合する場となる、というものです。
 池田 グローバリゼーションという言葉が広く使われ始めたのは、1980年代の半ばのようですが、以来、学問的につねに問題にされてきたのは、グローバリゼーションにおける”普遍性”と”土俗性”をどう考えるかという視点です。
 三年前(一九九八年)、前国連事務総長のブトロス=ガリ博士と東京で会談しましたが、博士が、普遍性と土俗性をどう融合させていくかに腐心しておられたのが印象的でした。博士は、金融をはじめ環境、疫病など、国境を超え、ますますグローバル化しゆく諸課題を前にして、こう語っていました。
 「『国際的な問題』に取り組まなければ、『国内の問題』も解決できない――そういう時代なのです。ですから、人々が自国のことだけでなく、国際情勢に、もっと関心を持つべきです。しかし実際は、多くの人々が、心の底の本音では、国際化の潮流に直面して『不安』を感じているのです。その不安感から、自分たちの小さな”村(地域国家)”や”伝統”の中へ引きこもり、外国人とつき合おうとしない傾向が出てきている。新しい『孤立主義』です」(「聖教新聞」1998年7月30日付)と。
 グローバリゼーションの抱える問題の本質を鋭くえぐった指摘であると思います。

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