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日蓮大聖人・池田大作

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1 新世紀の実験――人間革命から社会革…  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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6  社会の変革に不可欠な人間の内面的変革
 池田 私は、この辺で発想を転換し、人間の内面的な変革を第一義とする「内発性」をキー・ワードにして、自由と平等との架橋作業を試みる段階にきていると訴えたいのです。
 自由といっても、内面的な鍛えを欠けば、容易に勝手気ままな放縦へと堕してしまうでしょうし、平等といっても、人間の内なる差別意識が超えられていなければ、新たな差別社会を生み出してしまうにちがいない。
 これは、ある意味では常識といえるでしょう。とすれば、二十世紀とは、常識が常識として自覚されないほど、イデオロギーやユートピアに悪酔いしていた時代であるともいえそうです。
 サドーヴニチィ 池田博士の発想に、私は、深く敬服いたします。また、賛同いたします。人間は、自らの内面を磨き、内なる世界を豊かにすることによって、成長し、新たな自己に脱皮していける――と。まさにそれは人間の人間たる本質を言い当てていると思います。つまり、人間の遺伝子は、自分を取り巻く環境世界を認識、学習し、それによって自己自身の成長を図ろうとするように組織されています。
 たしかに、科学的には、この遺伝子に異常をきたしている、いくつかの例外があることも認めざるをえません。したがって、犯罪が、単に社会的条件によって生まれるのではなく、一部、アプリオリ(先験的)に遺伝子プログラムの要素が絡み、それによって引き起とされているものがあるということは事実です。
 池田 ドストエアスキーの小説などを読んでいると、時々、そのように考えざるをえないような”悪人”が登場してきます。
 サドーヴニチィ しかし、それらを考慮してもなお、人間の行動は、外部の環境に大きく影響され、同時に人間自身が主体的に自らの行動に責任をもたざるをえません。外部環境が、人間を創るうえで重要な要素であることは否めませんが、しかし、外部環境といっても、神が作ったわけではなく、じつは人間自身が作りだしているものです。
 したがって、ここでは、次のような弁証法が成り立ちます。「人間はつねに自己完成を目指して生きるべきである。なぜなら、そうして初めて、人間は、個人にあってもより良く生きることが可能になり、その人間が作る社会も良くなっていくことが可能に、なるからだ」と。
 池田博士のおっしゃる「内発性」というファクターが重要性をもっゆえんも、ここにあります。
 池田 それが、人間としての常識だと思うのです。一九三六年、アンドレ・ジッドが、今からみればあまりに適切であるにもかかわらず、当時はごうごうたる非難を浴びた『ソヴェト旅行記』を著した際、その洞察の根拠となっていたのも、社会の健全性を測る尺度は、制度ではなく、万人共有の内なる「ユマニテ」「ヒューマニテイ」である、という常識でした。
 サドーヴニチィ 私たちの人生は、外的要因と内面世界の発達との相互作用のうえに成り立っています。そして、人間が内発性をもつためには、環境に左右されない内的確信を強くもつことが不可欠と思
 われます。
 私には、ロシア正教会の聖職についている友人が多くおりますが、彼らと接していると、そのことを強く感じます。彼らの多くは、神への信仰に支えられた内面世界を自身の内に築いており、その意味で、世間の出来事を達観する境涯に達しているのでしょう。彼らは、その内なる境涯で自律し、他の人々をも感化しています。そのような生き方は、心からの尊敬の念を呼び起こさずにはおかないものです。
 池田 その意味では、真実の宗教は、人間が人間であることの骨格部分を形成するものですね。それゆえ、私はゴルバチョフ元ソ連大統領との対談集に「宗教――人間の紋章」という一章を設け、語り合いました。(「二十世紀の精神の教訓」。本全集第105巻収録)
 さすがにマハトマ・ガンジーの炯眼は、だれもが社会主義運動の先行きを楽観視していたその興隆期に、早くも、社会主義の成功のためには、人間性を開花させる「内発性」「内発的要因」が不可欠であることを鋭く見抜いていました。
 「社会主義は水晶のように純粋である。したがって、社会主義達成のためには水晶のような手段が必要となる。(中略)インドにおいても世界においても、社会主義社会を築くことができるのは、純粋な心の持主で、誠実にして非暴力的な社会主義者のみである」(K・クリパラーニー編『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)と。
 ガンジーの予見の正しさは、その後の社会主義の興亡の歴史が、あまりにも雄弁に証明しているところでしょう。
 社会主義に限らず、自由主義社会に、おいても、二十世紀は、あまりにも人間や社会の「外面」にこだわり、「外面のみの変革」に偏りすぎていました。
 そのために、戦争と暴力が荒れ狂う大殺戮時代を現出してしまいました。その轍を踏まないためにも、二十一世紀には「内発性」という言葉を、社会発展の要にすえたい。それでこそ、自由と平等との架橋作業という人類史的課題を、大きく前進させることができるでしょう。
7  自由とは何か、それをどう実現するか
 サドーヴニチィ 「自由」と「平等」ということは、大変に大きな、人類の文明史的な課題です。ここで私は、このテーマを二つの次元に分けて論じ合いたいと考えます。
 初めに、日常生活のなかで私たちが「自由」と「平等」をどのように受けとめ、対処しているか、つまり、生活感覚でとらえる自由と平等のあり方です。次に、この問題をより厳密に分析するうえで、少々学術的アプローチを試みてみたいと思います。
 池田 そうですね。生活感覚、日常感覚というのは大事です。
 サドーヴニチィ 日常感覚でとらえている「自由」は、人類の形成そのものに関与した概念です。自由というとき、私たちは、自分の関心事と目的に沿って行動する能力を思い浮かべます。ただし、何らかの行動をするとき、私たちは、必然的に、外部環境について自分がもっている知識を拠りどころとし、自分の行動が環境にもたらす変化を考慮しています。それと同時に私たちは、周囲の人々や社会全体の利害にも注意を払っています。
 かくして、自身の関心事と目的にしたがって行動しつつも、個々人は、ある場合は、社会に利益をもたらし、またある場合は不利益をもたらしていきます。それゆえに、人間の行動はつねに制約を受けています。トマス・ホップズは「自由人とは、望む行動に障害なき人である」と定義しましたが、これは違うと思います。現実世界にあって私たちはつねに障害に囲まれており、その行動は不自由なものだからです。
 池田 哲学者の言葉は、時に人々の意表をつくものです。先ほど、常識について触れましたが、ホップズの言葉の場合も、常識的に考えれば、そうした「自由人」など存在するはずがないにもかかわらず、「快」を善とし、「不快」を悪とする彼の功利主義の倫理学説に立っと、そうした人間観の仮説も、一応成り立ってしまいます。しかし、常識という”鏡”を、学問は絶対に手放してはならないでしょう。
 サドーヴニチィ たとえば、ある人が川辺に立っているとしましょう。川幅は広く、流れが速い。そして対岸に、とても美しい場所が見えているとします。彼は、川を横切って美しい向こう岸に行ってみたい。しかし、彼は、川を泳ぎ渡る能力がないので、その望みをかなえるという自由はないことになります。これは、常識ですね。
 このように、「自由」と「制約」はそもそも拮抗し、相反する概念であるといえます。エルヴェシウスはこの点をとらえて、「我々が鷲のように空を飛べないこと、鯨のように水中に生きられないことをもって不自由と名づけるのは愚かしい」と指摘しています。
 池田 よくわかります。
 フランスのルソーが『社会契約論』を「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている」(桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波文庫)と書き起こしたように、本来、自由は、人間であることの不可欠のファクターであり、その自由をどう実現するかは、思想面、現実面で人間の重要な営みであり続けました。
 ホップズの政治思想にしても、そうした自由観に立って、「自然権」を行使していくと、必然的に「万人の万人に対する戦い」をもたらしてしまうため、その調停役としての理性の出番となり、「自然法」によって、主権に制限を加えていく――その意味では「自由」と「制約」とが相拮抗する大きな枠組みのなかでの思素であったわけです。
 結果として、絶対君主制の擁護になってしまった点で、多くの批判を浴びざるをえなかった、としてもです。
 日本の俳句に「名月を取ってくれろと 泣く子かな」(小林一茶)とありますが、そうした子どもじみた欲求は、真実の自由とはかけ離れたものです。
8  際限なき欲望の肥大化は混乱をもたらす
 サドーヴニチィ 人類は、行動環境を選択する可能性を持ち合わせていません。我々は生まれながらにして、何らかの自然の摂理と社会発展の必然的法則のなかに置かれています。その抗し難い大前提を無視して行動しても、そのような行動が功を奏することは期待できません。
 池田 仏教では、それを内面的に掘り下げて「宿命」と呼んでいます。運命といってもよいでしょう。男(女)に生まれること、日本人(ロシア人)に生まれること、どのような家庭に生まれるか等々は、おっしゃるとおり、自由勝手に選択できません。
 サドーヴニチィ たしかに、自由を求めるのは、人間細胞の一つ一つに本来的に備わった欲求であると考えます。つまり、自分で思考し、それを表現し、他の人と交流する自由を欲しています。
 しかし、ここでも制約が起こってきます。たとえば、人間は遠く距離を隔てた人と交流することができませんでした。また、人間は何を考えても自由ですが、客観的条件が人の視野を狭めているので、実際は、人は目の前の現実と困難について考えるように仕向けられています。
 その格好の例は、親が子どもをしつけるとき、「夢ばかり追いかけていないで、もっと役に立つこと、自分ができそうなことを考えなさい」と教える場合にみられます。
 池田 それは万国共通かもしれませんね。(笑い)
 サドーヴニチィ このような例が示すととろは、人間が享受している自由は、目的の選択においても、目的達成の手段の選択においても、限られた可能性のなかからの選択にすぎないという点で、つねに相対的自由でしかありえないということです。
 したがって、人間の自由度はつねに変化にさらされており、それぞれの時代において、社会の生産力、自然科学、人文科学の知識の水準、さらには社会・政治体制、社会の成熟度に大きく左右されるものです。
 池田 自由がつねに相対的であるということと、自由が人間であることの絶対条件であることとは、少しも矛盾しません。むしろ、相対的であるところに、自由の自由たるゆえんがあります。
 それには、絶対的自由というものを想定してみればよいのです。人間の欲望は、時に自由という装いをこらしながら、際限なく広がっていくものです。
 古来、その肥大化への最後の障壁として立ちはだかつてきたのが、死でした。生あるものは必ず死ぬ――秦の始皇帝が、不老不死の薬を求めて八方に手を回したという故事が示しているように、いかなる権力者といえども、この障壁だけは越えることができませんでした。その自己の有限性の自覚が、宗教の出発点であったことも、宗教史が明らかに示しているところです。
 ところが、絶対的自由主義者は、この障壁をも越えようとします。先に話題になったクローン人間などは、その典型といえます。自分の遺伝子やコピーを残したいというのは、死をも自由にしたいという不死願望の一つの変形ではないでしょうか。
 サドーヴニチィ 何もかも自分の思いどおりにしたいという点では、前にもいったように、『エフゲーニー・オネーギン』を書けるようなコンピューターを作りたいということと同質ですね。
 池田 同質です。プラトンの『ゴルギアス』のなかで、ソクラテスは「自分の思う通りのことをしていても、それでもって大きな力があるということにはならないし、また、自分の望んでいることをしているということにもならない」(『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫)と逆説的に語っています。
 絶対的自由主義者のように、何でも思いどおりになるということが、人間の本当の欲求にかなっているのか、それが人間に、真の充足感、幸福感をもたらすのか――よくよく考え直してみなければならないことです。
 地球環境という客観的条件の面から考えても、人間が、今日の先進国並みの生活様式を維持し続けようとすれば、この有限の球体(地球)が養うことのできる人口は、どんなに多く見つもっても、十億人が限度といわれています。
 人類として、共に生き、共に栄えゆくことを念頭におかずに、人々が勝手に「思いどおり」にしようとすれば、世界は、人間の顔をした欲望の権化たちが、争闘を繰り返す修羅場と化してしまいます。にもかかわらず、人々は、目先の利害や損得にとらわれて、なかなか、そのような展望をもとうとしません。
 サドーヴニチィ 人間の欲望には、際限がありません。
 池田 欲望の肥大化は、とうてい、自然の摂理にかなったものとはならないでしょう。というよりも、人間の尊厳にかけて、あってはならないところまで広がってしまう。
 もし、こうした欲望が野放しにされたら、人間社会が大混乱に陥ることは、見易い道理です。というよりも、人間が人間でなくなるといったほうがよいかもしれません。私が、相対的であるところに、自由の自由たるゆえんがある、といったのも、そのためなのです。

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