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日蓮大聖人・池田大作

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3 「多様性の調和」へ知恵の教育  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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8  文化的な違いを超えて「多様性の調和」
 サドーヴニチィ 池田博士、あなたが指摘されたように、現代のメガ・トレンドとなったグローパリゼーションのなかで、それぞれの個性と歴史をもつ多様な異文化が「接近」していくと、お考えですか?
 もし「接近」するとしたら、それは具体的には何をもたらすと考えられますか? あらゆる民族が同じ信仰をもって、世界共通の同じ言葉を話すようになる? あるいは、たとえばアングロサクソンという一つの文化が他の多くの文化の優位に立って、文化を統合してしまう役割を果たすようなことになるのか。文化の接近が、優位なものによる劣等なものの駆逐をもたらすとしたら、ついには、グローバリゼーションの勢いは、あらゆる民族、人種を混合させたあげくに、みんなが同じ肌の色、同じ身長、おまけに性別までなくすといった結果を招くのでは?
 極論かもしれませんが。
 池田 「同じ肌の色」「同じ身長」「向性化」となると、もはや小説『一九八四年』で、全体主義のもたらす不気味な逆ユートピアの世界を描き出したジョージ・オーウェルさえ想像すらしなかった悪夢です。その点はさておき、あなたの提起された問題を考える際、キー・ワードとなってくるのが「多様性の調和」であると思います。
 たしかに、格言などをみれば、あなたが種々あげられたように、民族的アイデンティティーを色濃く反映したものもあります。事物や動植物のイメージにしても、たとえば、闘牛場がいつも満員になるスペインと、大通りを人間が牛をよけて通るインドでは、牛のイメージは、ずいぶん違うでしょう。また、太陽といっても、機会あらば陽光を肌に浴びることを欲している北国の人々と、灼熱の太陽からどう身を守るかが念頭から離れない砂漠地域の人々とでは、イメージは180度異なると思います。文化交流にあたって考慮しなければならない大切な点です。
 しかし、私は、そうした文化や習俗の違いに固執しすぎるのも考えものだと思います。民族固有のアイデンティティーを尊重しつつも、なおかつそこに、多様性の花咲く調和の世界を築き上げる道はないのでしょうか。ハンチントン氏のいう「文明の衝突」は、人類史に宿命づけられているのでしょうか。
 サドーヴニチィ 「文明の衝突」といえば、七年前(一九九四年)、池田博士がモスクワ大学での二回目の講演をされたときのことを思い出します。コメンテターをつとめたパーニン哲学部長は、講演内容には「文明の衝突」という時流の予測をくつがえす哲学、理論的根拠が含まれている――と。
 池田 過分のコメントで恐縮しました。
 私は「衝突」が宿命づけられているとは思いません。仕事の性質上、折に触れて世界の名言、格言の類に目を通すのですが、なかには違和感を覚えるものもないではありませんが、共感を覚えるもののほうが圧倒的に多い。これは、賢人、偉人の残した選りすぐられた歳言の類だけではなく、フォークロアの領域でも、同じようにいえることです。また多少の違和感を覚えても、何度か時間をかけて接触していくうちに、違和感や抵抗感は薄れていきます。
 何よりも、ロシアのアイデンティティーに深く根ざしたトルストイやドストエアスキーをはじめとするロシア文学が、日本で翻訳され始めてから百年あまり、多くの読者を獲得し、連綿と読み継がれている事実は注目すべきでしょう。
 「およそ人間的なものに深い根底をおかぬような国民文学は、無味乾燥である」(「ゲーテ格言集」大山定一訳、『ゲーテ全集』11所収、人文書院)とのゲーテの言葉もあるように、よき文学には、いかなる民族に属しようと、人間である限り必ず共有しているはずの普遍的な精神の水脈に連なる何かが、必ずあるはずなのです。それを「ユマニテ」(アンドレ・ジッド)、「胸を痛める心」(シモーヌ・ヴェイユ[「デラシヌマン」大木健訳、『疎外される人間』所収、平凡社])、「あまねきディスンシィ(品位、寛大さ)」(ジョージ・オーウェル)等と言ってもよいし、あるいは、カントの有名な定言命法「汝の人格の中にも他のすべての人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ」(「人倫の形而上学の基礎づけ」野田又夫訳、『世界の名著』32所収、中央公論社)を当ててもよいでしよう。
 サドーヴニチィ いずれも、ヒューマニズムの”核”をなすものですね。
 池田 ええ。それらを”核”にして形成された普遍的な精神性、倫理性の回路がグローバルに張りめぐらされれば、それは、多様な文化や習俗が、他を排することなく共存共栄していくための土壌となっていくにちがいない。「多様性の調和」であります。
 私が「知恵の全体性」と申し上げているのも、そうした普遍的な精神性、倫理性を志向しているのであって、今進行中のグローバリゼーションを誤った方向に進ませないためにも、焦眉の急務であると、私は確信しております。また、それは、知識と知恵の架橋作業を推進しゆく正道とはいえないでしょうか。
9  規範からの逸脱を止める内発的な精神性
 サドーヴニチィ よくいわれることですが、現代社会では、自己中心的に生きること、ウソをついて平気でいること、好き勝手に生きることがあたりまえになってしまったようです。かつては、そのような生き方を潔しとはせず、社会の病ととらえたものでした。道徳性を著しく欠く人がかつては少数で、その人たちが病んでいるとされていたのに対して、現代は、道徳性をもつ人が少数派となった感を否めません。
 そうだとすると、過去において奇形だったものが現代の正常者となり、過去における非道徳が時代を経て標準になってしまったことになります。グローバリゼーションというのは、まさにそのような状況を認知してしまう働きをするのではないでしょうか。
 たとえば麻薬公認の状況をみてもよくわかると思います。一部の国ではいわゆる「軽い麻薬」はすでに公認されています。オランダなどがそうです。アメリカではなんとジョージ・ソロスがそういった麻薬の公認を主張しています。「麻薬文化」が「新世界文化」としての様相をますます帯びてきています。
 池田 ソロス氏は、自分の創設した慈善団体を「オープン・ソサエティ」財団と名づけていますが、その目指すところは、人間の本能や欲望ができるだけ規制されない、その意味で自由の保障された社会、を意味しているようです。(浜田和幸『ヘッジファンド』文春新潮、参照)
 ドストエアスキーの『悪霊』の主人公たちのセリフを聞いているようで(もとより、ドストエアスキーが付与している無神論の思想的な深淵などとは無縁ですが)、自由の逸脱、自由と放縦とのはき違えであり、快楽と幸福とを混同しているとの感を深くします。ソロス氏が積極的に進めている「麻薬の合法化」や「安楽死是認」のキャンペーンは、表向きのスローガンだけでは割り切れない、警戒すべき側面を有していることを、見逃すべきではありません。
 サドーヴニチィ 新しいグローバル社会の標準的価値基準として定着しつつあるものの別の例として、従来の概念におさまらない性の概念が、一部の国で公認となりつつあることがあげられるでしょう。
 このように、「危険な知識」というべきものが社会に蓄積されつつありますが、そのもとになっているのが科学であり、非科学的知識です。こういった危険な知識がいろいろな経路をたどって少しずつ合法化され、それが社会の規範になりつつあります。以前はほんの一部でしかみられなかった規範からの逸脱が、大衆的なものとなって蔓延しつつあるのです。このような状況について、ジャン=ポール・サルトルはこういっています。
 「ここは盗人の国である。ここでは盗みをはたらいても、何か特別のことをしたのではない、ここの規範を破るどころか、従ったことになる。私は悪を作り出しているのでもなく、平穏を破っているのでもない。スキャンダルはここでは考えられない。盗みをしながら、それが盗みにならないのである」
 これは規範の逸脱を前提とする新たな道徳規範体系が生まれてきていることを意味するのではないでしょうか。もし、そうであるとすれば――事実に照らしてみるとそうとしか思われませんが――「内発性に根ざした寛容」をもってして、世界が「逸脱」してしまわないようにすることは可能なのでしょうか。
 池田 私は、今日の文明史が”引き返し不能の点”(ポイント・オプ・ノー・リターン)を超えたとは必ずしも思っていません。しかし、おっしゃるような「逸脱」が随所に顔をのぞかせ、不気味な黒雲のようなものが、社会に漂っていることも事実です。
 総長の懸念されている「麻薬文化」など、その典型でしょう。心の空虚を、麻薬という「外発」的な毒をもってまぎらわそうとするのですから。
 私は、一つの大きな原因は、現代社会が情報化の波のなかであまりにもバーチャル・リアリティー(仮想現実)に囲まれすぎていて、人間らしさが失われ、リアリティー(現実)とのつながりが希薄になってしまった点にあると思っています。いわゆるコミュニケーション不全です。主客対立の構造をもつ機械論的自然観は、人間と自然とのコミュニケーション不全をもたらします。その不全は、人間も自然の一員であることの当然の帰結として、人間同士のコミュニケーションにもはね返ってきます。かくて、表面上はかつてない繁栄を謳歌しているかにみえる現代社会のいたるところから、コミュニケーション不全から発するきしみ音が聞こえてきます。
 テクノロジーの発達によるコミュニケーションの進展は便利なものですが、生の現実(リアリティー)とのコミュニケーションを補完することはできても、代替は不可能です。「内発」的な精神性は、あくまで人間や自然との直のコミュニケーションを土壌にして成り立つものだからです。
 サドーヴニチィ その点はよく理解できます
 池田 プラトンは「書簡」のなかで、巧みに述べています。
 「そもそもそれ(=肝心の事柄)は、ほかの学問のようには、言葉で表現されえないものであって、むしろ、(教える者と学ぶ者とが)生活を共同しながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、突発的に学ぶ者の魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自体がそれみずからを養い育ててゆくという、そういう性質のものなのである」(「書簡集」長坂公一訳、『世界古典文学全集』15所収、筑摩書房)
 昨秋(2000年)、日本に総長二付をお迎えして種々語り合った際、同行されていた、私も旧知のヤゴジン・ロシア国際大学総長が「教授は知識を与えるだけでなく、自分の行動、自分の全存在を通して教えなければなりません。そこで、どんな優秀な教授でも、四人を超える研究生の面倒をみることはできないといわれています」と語っておられました。
 四人という数字は理想論でしょうが、まさに、プラトンの言葉を裏書きする卓見であると感じ入りました。
 そうした「内発」的な精神性、プラトンのいう「肝心の事柄」を触発させゆくためにも、とめどもなく押し寄せるバーチャル・リアリティーによる幻惑から、自然や人間との直のコミュニケーションをどう保全するかということが、いわば文明論的課題となってくるのです。
 サドーヴニチィ もう一つ、人間が動物世界から独立したのも、生物学的逸脱の、おかげであることを考えれば、「逸脱」を止めることができるかどうかということは、単なる問いのための問いではありません。そもそも、文明史そのものが進歩したのも、一般的基準を飛び越えた人々のおかげです。
 この章の結びにあたって、あるスペインのことわざをあげたいと思います。
 「神ょ、我に出来うる変革を成し遂げるだけの力を与えたまえ。変革しあたわざるものをあきらめる忍耐の力を与えたまえ。そして、前者と後者を区別するための知恵を与えたまえ」
 池田 重ねて留意すべきは”科学の進歩によって、人間は動物並みになった”というニーチェの逆説です。先に触れたジヤカル氏は、すべての行動の指針として、「やらないほうがましなことがある」とのアインシュタインの言葉をあげています。(前掲書『世界を知るためのささやかな哲学』)
 近代文明は、傲慢さと訣別し、節度と慎みを身につけなければ、カタストロフィー(破局)を迎えてしまいます。

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