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日蓮大聖人・池田大作

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2 無限の宇宙をめぐる信仰と知性  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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8  こうして科学的知識はつねに、新たに生まれ、発展の途上にあるのです。そしてあるものは悪用され、あるものは善用されます。
 池田博士、最近の生物学――正確にはバイオテクノロジーですが――に対してはあなたと同じように、私も一抹の不安を抱いています。
 そもそも、同じ現代科学といっても、核物理学と分子生物学には根本的な違いがあります。
 原子の研究においては、人間は、自然界がその影響を受けるのを外から観察している立場にいます。もちろん、放射能汚染の危険が人間自身にも及ぶという点では、人間と自然界を単純に分けて考えることはできませんが。それでも人間は、その危険性から身を守る方法を開発できる、つまり自然界を避けて通れると思っています。
 池田 そうした見方もありますが、環境破壊は、早晩、人間の上にもふりかかってくることは、火を見るよりも明らかです。
 オルテガ・イ・ガセットは「単純系のパラダイム」の原型ともいうべき、デカルトの「コギト=エルゴスム」(我思う、ゆえに我あり)に対して「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」(『ドン・キホーテに関する思索』A・マタイス、佐々木孝訳、現代思潮社)という知駆的なテ一ゼを残しました。これなど、「複雑系のパラダイム」の原型として、もっとスポットが当てられてよいと思います。
 サドーヴニチィ 遺伝子工学の場合、さまざまな危険性から人間を守る余地は間接的にさえ残されていません。それは、生物の進化に対する制御不可能な直接干渉だからです。
 今日、人工的な細胞増殖がどんな結果をもたらすのかは、まったくわかっていません。生物進化のプロセスは長くてゆっくりとしたものです。人工的につくられた生物と、自然の生物との関係がどうなっていくのか、だれにもわからないのです。人工細胞が人間をはじめ生物にとって「健全な」ものなのか、病原体となってしまうのか、あるいは人間の遺伝子型の進化を助けるのか、逆に異常をきたさせるのか……今のところ、こういった疑問に対する解答はありません。しかし、分子生物学という現代科学が、生命操作という人間の聖なる領域にじかに踏み込んでしまったということは、まぎれもない事実です。ですから、科学は未知の道徳規範を必要とする質的に新しい段階に入ったのです。
 こういったことを背景にお聞きしたいと思います。現在のグロバリゼーション(地球一体化)は、進化をつねに早め、追い立てることを是としていますが、そのようなグローバリゼーションが進むことによって人類ははっきりとした納得のいく答えが得られると思いますか。ご意見をお聞かせください。
 池田 グローバリゼ―ションは、情報や技術の飛躍的な発展をバネにして、政治、経済、文化、学術等のあらゆる面で、現代のグメガ・トレンド(巨大な時流)になってきています。そこには、あまりにも未知の領域、危険な領域が多く、随所に黄信号、赤信号が点滅しているのではないでしょうか。
 ご指摘の分子生物学、生命科学の提起する問題は、その最先端の事例といえましょう。
 たとえば、近年のクローン羊やクローン牛など哺乳動物のクローニングの成功は、『エフゲーニー・オネーギン』が書けるかどうかは別にして、ある種のクローン人間の誕生を、現実の問題として浮上させました。世界の大勢は、今のところクローン技術の人間への応用には、反対のコンセンサス(合意)が形成されており、各国では、この問題を含め生命科学のあり方をめぐる倫理委員会などによって原則を定め、監視の目を光らせているようです。
 サドーヴニチィ そのとおりです。
 池田 とはいえ、油断はできません。いったん技術が開発され、かつ自分の遺伝子、自分のコピーを残したいという人間の欲望が続いている限り、いつ、どこで、だれがタブーを犯してしまうかは、予測の限りではないからです。
 また、欲望という点からいえば、バイオテクノロジーの産業化はどこまで許されるのか、それは、本来目的であるべき生命の手段化にならないのか、ある程度の手段化はやむをえないとすれば、人間、動物、植物を含めその線引きをどうするのか、それは、生命の尊厳の理念と整合性をもつのか等まざまな問題が派生してきます。
 いずれも、二十一世紀文明の命運を左右しかねない重要な問題群です。
 サドーヴニチィ そのとおりです。だからこそ私は、科学が「人間の内面世界の解明」によって対応が迫られる「質的に新しい段階」に入った、と申し上げているのです。
 池田 人類がかつて遭遇したことのない難問ですので、その道の専門家が委員会などを通して慎重に検討を加えることが当然必要です。また重要なことは、検討の内容、問題の所在がつねにオープンに、市民の監視下におかれていなければならないということです。フランスの集団遺伝学のパイオニアの一人であるアルベール・ジャカールは、それを「国民の道徳を国民自身が決める」「倫理学のデモクラシー」(アルベール
 ・ジャカール、ユゲット・プラネス『世界を知るためのささやかな哲学』吉沢弘之訳、徳間書店)と呼んでおります。
 そうした市民意識の向上こそ、バイオの領域に限らず、テクノロジーの暴走を抑制し、社会を健全な方向へと導いていくうえで、第一義的な重要性をもっています。シビリアン・コントロールは、軍事面にもまして、この分野で強めていかねばなりません。そこで、倫理の確立と欲望の制御ということが、喫緊の文明論的課題となってきます。欲望の解放が近代文明発展の大きな力となったことはいうまでもありませんが、このまま進めば、早晩、破局を余儀なくされるであろうということも、現代文明の置かれた境位であります。そうした地球的規模のコンセンサスづくりに、一刻の猶予も許されないゆえんです。
 私は、一九九八年の「SGI(創価学会インタナショナル)提言」(「万年の遠征――カオスからコスモスへ」。本全集第101巻収録)で牧口初代会長の「他のためにし、他を益しつつ自己も益する方法」(『牧口常三郎全集』2、第三文明社)、およびトインビー博士の「おのれも生き、他人も生かすという心がまえ」(秀村欣二・吉沢五郎編『地球文明への視座』経済往来社)等の先達の言葉をもって訴えました。また、一昨年(一九九九年)の提言(「平和の凱歌――コスモロジーの再興」。本全集第101巻収録)で、知友であるへン
 ダーソン博士の持論である「皆が勝者となる世界(Win Win World)」構想に賛同したのも、他を思いやり、自らの欲望やエゴイズムを制御していくことこそ、市民意識の成熟しゆく土壌であると信ずるからであります。
9  人間精神を腐蝕させるハイテク兵器
 サドーヴニチィ その意味では、生物進化への干渉だけが、複雑な未来の文明に立ちはだかる未知の問題ではありません。それに劣らず予測のむずかしいのが、情報化の問題です。
 「情報化社会」への移行期といわれる二十世紀末に、おいては、池田博士もいわれたように、国家が経済力増強のために知識を利用するようになりました。知識は今や、秘すべきものとなってしまいました。いわゆる「ノウハウ」や企業秘密、国家機密です。そういったものは、他の国が利用して優勢に立たないよう、厳重に防護されています。もちろん、いい意味での競争原理が働く場合もあります。しかし、ここで私が言おうとしているのは別の観点です。知識が他国に害を及ぼすために利用される、しかも、それが武力をともなう場合もあるということを問題にしているのです。
 近年をふり返るだけでも、近代的な知識を駆使したハイテク兵器をもっ国々が、よってたかつて他の独立国家に対する殺戮をしかけるために、その武器を使用するという例を、私たちは目の当たりにしているのです。しかも、そういった行動は「人道的干渉」という名称まで、すでについています。
 池田 ロシアの立場は、私も承知しています。ハイテク兵器による攻撃は、味方の人的被害は皆無に近いにもかかわらず、敵方には甚大な被害を与え、またその惨状(たとえば死にゆく者、傷つく者の苦悶)に直接に接しないという点で、きわめて非人間的だと思います。もちろん、兵器に人間的、非人間的の区別などありませんが、それにしても不気味で、勝者の人間精神をも腐蝕させ、破壊してしまう。そうした状況は、離人症や人情不感症などの心の病の温床となってしまいます。
 サドーヴニチィ 「知識と道徳性」の問題について、ロシアのすぐれた歴史学者V・O・クリュチェフスキーの言葉がよく事の本質を言いあてているのではないかと思います。
 「学問と知識を混同することがままある。これはとんでもない誤解である。学問は知識にとどまるものではなく、意識そのもの、つまり、知識を用いる力である」
 これはもう、「知恵」の領域に近づいているといえるでしょう。
 池田 なんのために知識を使うのかを、はっきりさせないといけないということですね。そこに知識を使いこなす知恵が必要となるわけです。
 サドーヴニチィ ええ、そのとおりです。このクリュチェアスキーの考えの根拠もそこにあるのです。このような問題提起とアプローチは、「科学的実証主義」として知られています。科学的実証主義というのは、「真理」と「人生に有益なもの」との間に境界線を設けようとする考え方です。
 私は、この科学的実証主義の研究がどのように進んでいるのか、専門外なので詳しくは知らないのですが、本質的には、「学問すること」は、「人間にとって必要で有益な知識」の母体には、必ずしもならないという主張であると理解しています。
 例を挙げてみましょう。学術会合でよくあることですが、議論が過熱してくると学者たちは、それほど重要でもなく、なんの現実的価値もない問題に熱中してしまうのです。たとえば、量子力学の解釈や、宇宙の膨張論と静止論では、どちらのモデルがより科学的に証明できるか、といった議論です。科学的実証主義の見地からすれば、このような議論は、とりあえずは無用の議論です。
 池田 諸学をすべて渉猟してきたにもかかわらず、「おれはちっとも賢くはなっていない」(『ゲーテ全集』2、大山定一訳、人文書院)――ゲー1テ描くところのファウスト博士の慨嘆は、決して”今は昔”のことではない。
 サドーヴニチィ そうなんです。ただ、そういってしまうと、学問そのものが成り立たなくなってしまいます。そもそも古代ギリシャ・ローマでは、「学問的な理論」(哲学すること)と「実用的な知識、技術」とは、明確に一線を画す別々のものだった事実もあるわけですから。
 ノーベル化学賞受賞者のイリヤ・プリゴジン博士はこういっています。
 「古代人にとって、自然は知恵の源だった。中世における自然は、神を想起させた。近世になって自然は何も意味をなさなくなり、カントは科学と知恵、科学と真理を完全に切り離して考える必要があると結論した。この分断はもう二百年間続いている。今やそれに終止符を打っときが来た」
 I・プリゴジンがいうように、たしかに科学と知恵、より正確には(私の意見では)科学的知識と人間の知恵とは切り離されたままになっています。
 池田 プリゴジン氏は、古代や中世に存在していたホーリスティック(全体的)な自然観、宇宙観を、現代科学の最先端から再構築していこうとする壮大な営為に挑戦しておられる方ですね。私は、氏の「この新しい状況は、科学と他の文化的な人間の営みの間に新しい橋渡しをもたらすことになろう」(『存在から発展へ』小出昭一郎・安孫子誠也他訳、みすず書房)との言葉に、満腔の賛意を表します。それは、知識と知恵の架橋作業に挑戦している我々の試みと、深い次元で志を一にしているからです。

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