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1 ロシアの教育とプーチン大統領  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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7  人間を人間たらしめる知恵、人格の輝き
 サドーヴニチィ さて、このあたりで、少し角度を変えたアプローチに移ってみたいと思います。池田博士、あなたは、「知識」と「知恵」の意味について、二つの概念の関係性について、またそれらが現代の文化に与えている影響について、そして、人間の生活のなかでその二つの概念がどのような位置を占めるべきかについて、一連の問題提起をされました。私の理解するところでは、この二つの概念は互いに関連し制約しあっているものではありません。たとえば、「知恵」については触れずに「知識」とは何かを論じることは、十分に可能です。「知識」は、合理的な概念に重点がおかれ、量的、質的に評価できます。
 それに対して、「知恵」は、道徳的、精神的、経験的概念に近いと考えます。したがって、「知恵」を測ることはできません。たとえば二人の「知恵ある人」を比較することは可能かもしれませんが、かなり相対的・暫定的な評価にならざるをえません。知恵を測る尺度が存在しない以上、賢人を一定の尺度で測りくらべることもできません。
 池田 ええ。釈尊とソクラテスのどちらが偉大な”人類の教師”であったかなど、論ずるのも愚かなことです。
 サドーヴニチィ また、「知性の発達」がただ単に「個々の知識の連続的な蓄積であり、その合計」であるとも思いません。ヘラクレイトスも「知識の豊富さが聡明さを意味するわけではない」といっています。それと同時に、「心の発達」が人間の現実的な活動とは関係なく、「知恵の精神的現象」だけに由来するというふうにも考えにくいと思います。
 私は、「知恵」についてのレオナルド・ダ・ヴィンチの解釈に共感を抱きます。彼は、「知恵は経験の娘である」と書いています。
 また、「知恵の人になる可能性は万人にあたえられている」と指摘したうえで、次のようにも述べています。いわく、「老いによってものを補うに足るものを青年のときにたくわえておきなさい。老年期の糧は知恵であることを理解するならば、青年は、老いて糧なきことのないように、今を行動すべきである」と。
 池田 レオナルドについては、かつて、イタリアのボローニャ大学での講演「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」(一九九四年六月一日。本全集第2巻収録)で論及したことがあります。そこで引用した「性急は愚かさの母である」(下村寅太郎『レオナルド・ダ・ヴィンチ』勁草書房)という言葉なども、経験の蓄積を重んずるという点で、総長のあげられた箴言と波長を一にしているといえましょう。
 サドーヴニチィ しかし、多くの人が「賢人」と呼ばれるようにならないのはなぜなのでしょうか。おそらく、ほとんどの人々は、自分の将来、つまり老いたときの自分について考えることがあまりに少ないからなのでしょう。よくいわれることですが、大半の場合、人は「青春を燃やし尽くして」しまうものです。だからこそ、大学の重大な使命は、青年が、青春を浪費してしまわないように手助けすることにあると考えます。
 池田 朱子のいうとおり「少年老い易く学成り難し……」ですね。
 サドーヴニチィ たいていの人は、自分の両親を「賢い」という言葉で形容します。「知識」という点では十分な教育を受けておらず、読み書きができないような両親の場合でも同様です。
 池田 農業や家内工業が主たる生業であった時代と違い、”職”と”住”とが分離されている近代社会にあっては、親から子、大人から子どもへの知恵の継承もなかなかスムーズにいかないようです。
 とくに、「IT(情報技術)革命」に象徴される情報化社会の急テンポの進展に、多くの大人たちは、少々困惑気味です。なにしろ、パソコンに対する習熟度などの面では、子どもたちのほうが格段に早く、わが国でも、小中学校の教師たちが、休みを利用して、校長を先頭に、パソコンの扱い方の特訓を受けるなどの事例も現れています。
 サドーヴニチィ ロシアでも、似たような状況は散見されます。年配者ほど、機械を扱うのを苦手にしているようです。
 池田 とはいえ、そうした表面的な変移とは異なる次元で、人生には、生きて知らねばならぬこと、そうすることによってしか体得できぬ知恵というものが必ずあるはずであり、古来、それが人間を人間たらしめてきました。その意味では「知恵は経験の娘である」というレオナルドの言葉は、不朽の輝きを放っています。経験を通して得られる知恵の継承、共有なくしては、家庭であれ学校であれ、コミュニケーション不全に陥り、崩壊してしまいます。日本では、その崩壊のきざしがいろいろなところに見られ、大きな社会問題になりつつあります。
 すなわち、親や教師が、子どもの教育に、ともすれば自信を失いがちなのです。自らの生き方に照らして、生きて知らねばならぬ大切なことが人生にはある、と自信をもって言い切ることのできる人が、少なくなりつつあるのです。
 子どもたちの問題行動を数多く手がけている著名な精神科医が、おもしろいことを言っておりました。「私には絶対、息子に負けないことがある。息子がどんなに努力しても、絶対に負けないのです。何かご存じですか。私のほうが年上だということです。息子がいくら徹夜して頑張ったところで、私の年齢を絶対抜くととはできません。もう、そのぐらいしか、守るところはないんじゃないでしょうか」と。
 「そのぐらいしか」とは言葉のあやで、そこにこそ、人格の精髄があり、知恵の源泉が蓄えられているのです。
 レオナルドの言葉と響き合っており、そうした謙虚さこそ、自信の源泉であるといえましょう。
8  豊かさを生んだ「道具」としての知識
9  サドーヴニチィ ロシア語に限らず、世界全般に共通することだと思いますが、「知識」というと「日常的」知識と「学問的」知識があります。日常的な知識とは、いわゆる常識のことだといえるでしょう。学問的知識とは、論理的な根拠があり、証明可能で、ある決まった結果を必ず導くものです。
 一方、「知恵」という言葉には、深い道理に根ざしていて、善意に満ちた、真実の「何か」という響きがあります。
 私たちがここで取り上げた「知識」と「知恵」は、こうしてみると、その違いは、とても微妙ではあるけれども、じつは大きな違いがあることがわかります。
 おそらく、いずこの社会であっても、物知りな人イコール賢明な人(知恵のある人)ではない、という見方がなされてきたのではないでしょうか。この二つの概念は、もともと根本的に違うものであり、その点、池田博士と同じ意見です。
 池田 そのとおりです。根本的に違ったものを混同してしまったところに、二十世紀の悲劇を招いてしまった大きな要因があるのです。
 サドーヴニチィ 人間はつねに知識を求めてきました。それは知識のなかに、自己の成長や幸福、安全な暮らしへの道しるべを見出していたからです。人間は何か新しいことを知ろうと模索するなかで、新たな経験をします。そしてそれを実生活のうえに活かしながら、さらにその先はどうなるのかという興味にかられます。つねに新しい事実を知ろうとする衝動は、人間の頭脳に備わった自然な性質です。
 人間は心のなかのどこかで、あるいは意識していないかもしれませんが、知識を求める行為は、自分の身を守ることと、つねに結びついていました。なぜなら、人間は、災害や自然現象、あるいは他の生き物に対しては、無防備だったからです。そのため、自然に関する知識をできるだけ身につけなければなりませんでした。
 また、知識は豊かな暮らしとも結びついていました。知識や経験は、快適さと富をもたらしてくれるからです。たとえば、火は暖をあたえ、美味しい料理を作るのに欠かせない、かまど(家庭)の守り手であることを人間は知っていました。
 池田 ”ホモ・ファーベル”(工作人)といわれるように、古来、「道具をもつこと」が「言葉をもつこと」と並んで人間であることの大きな条件とされてきたゆえんですね。
 サドーヴニチィ ちなみに火を通して、人間の知的成長の過程を追ってみるのも興味深いのではないでしようか。
 ――ある時ふと、人間は「火とは何なのだろう」という疑問をもった。そして炎を見つめ、その美しさ、多様な姿を見ながら、いったい、この火とは何なのかと考え続けていった――。
 この疑問は何百万年も前からあったにもかかわらず、いまだに完壁な学問的な答えはありません。これは火に限ったことではありません。たとえば球電をとってみても、自然科学がここまで発展した現在もなお、不可思議な自然現象として謎のままです。
 池田 お話をうかがっていると、総長が体現しておられる”哲人”的側面――それは、先述のボーアやハイゼンベルクが濃密に体現していたものです――が躍如としてくるようです。

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