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日蓮大聖人・池田大作

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3 「歴史の真実」を語り継ぐ心  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

前後
3  「日清戦争」の戦場となった韓半島
  そうした経済の混乱の中で、わが国では、たびたび民衆による蜂起が起こりました。
 国家財政の悪化で税金の取り立ても厳しくなり、とくに農民の間で不安や不満が極限に達していたのです。なかでも最大のものは、一八九四年二月に始まった「甲午農民戦争(東学党の乱)」でした。
 最大の穀倉地帯であった全羅道チョルラ古阜コブ郡に端を発する農民蜂起は、またたくまに全羅道全体に広がり、農民軍はソウルにも迫る勢いとなりました。
 そのため、政府は急速、清(中国)に鎮圧のための援軍を求めましたが、このことを知った日本は、要請もないのに、清軍に対抗するような形で、ただちに軍隊を派遣してきたのです。
 政府は、最悪の状態を防ぐために、農民軍と内政改革を約束する「全州和約」を結び、清と日本の同時撤退を求めました。
 清はこれに応じ、日本にともに撤退することを呼びかけましたが、日本軍は駐留を続け、八月に清に宣戦布告し、日清戦争が始まったのです。
 池田 招かざる日本の出兵は、貴国の人びとにとって侵略以外の何物でもなかったはずです。
 しかし当時の日本では、日清戦争は、清の圧政に苦しむ貴国の人びとを救うための戦争であるかのように喧伝されていました。
 近代日本を代表する知識人の一人であった内村鑑三も、「日清戦争の義」と題する英文を発表し、その正当性を国際社会に訴えていたほどです。
 ただし鑑三は後年、強い自戒の念を込めて、日清戦争は「不義の戦争」であったと見解を改めました。
 そして、こう書き記したのです。
 「日清戦争は其名は東洋平和のためでありました、然るに此戦争は更らに大なる日露戦争を生みました、日露戦争もまた其名は東洋平和のためでありました、然し是れまた更らに更らに大なる東洋平和のための戦争を生むのであらふと思ひます」(『内村鑑三全集』13、岩波書店)
  内村鑑三の指摘のとおり、日清戦争の後も、わが国は、日本をはじめ列強諸国の脅威にさらされ、戦火が新たな戦火を呼ぶ困難の時代が続きました。
 日清戦争に勝利したものの、ロシア・フランス・ドイツによる「三国干渉」によって戦争で得た権益を手放すことになった日本が、わが国に対する支配をめぐってロシアと対立するようになりました。
 この時、高宗コジョンの王妃であった閔妃ミンピを中心に、ロシアを頼ろうとする動きが強まったのですが、これに反発した日本が一八九五年十月、宮廷内の紛争に見せかけて、閔妃を殺害する事件を起こしたのです。
 ソウルの日本公使は否定しましたが、二人の西洋人の目撃者がいたため、日本の関与は明白となり、否定できないものとなりました。
 この事件をきっかけに、反日感情が一気に高まりました。一方で、民衆の啓蒙と国権回復を目指す新たな政治勢力である「独立協会」が発足し、亡命先のアメリカから帰国した徐載弼ソジェビルによって「独立新聞」も発行されるようになりました。
 国内に独立思想が広がるにしたがって、国王・高宗は、従来の中国との関係を改める意味で独自の元号を建てたあと、「大韓帝国」を国号とすることを宣布しました。一八九七年十月のことです。
 しかし、日本とロシア双方からの脅威は、一向に去ることはありませんでした。
4  日露戦争と『人生地理学』のビジョン
 当時、日本は韓半島を足がかりにして、中国の東北地方への進出を目指していました。
 それだけに、一九〇〇年、東北地方で起こった「義和団」の蜂起を鎮圧するために出兵した日本とロシアは、その後の支配権をめぐって激しく対立するようになりました。
 その後、イギリスと同盟を結んだ日本は、次第にロシアとの戦争準備を強めていきました。
 一九〇四年二月、日露戦争が始まると、日本は仁川から軍隊を上陸させるとともに、中立を宣言していた貴国に戦争協力を強いる議定書の締結を迫りました。
 その上、日本は戦争に乗じて、貴国に対する植民地支配の道を開こうとしたのです。
  おっしゃるとおり、日露戦争を乗じて、わが国は日本に主権を次々と奪われるようになりました。
 まず、八月に締結した「第一次日韓協約」によって、政府は日本が推薦する人物を財政顧問と外交顧問に就けねばならなくなりました。
 そして翌年、戦争に敗退したロシアが、わが国に対する日本の指導・保護・監理の権利を認めた後、「第二次日韓協約(乙巳ウルサ保護条約)」で、わが国のすべての外交権は剥奪されたのです。
 これは、日本の憲兵隊が包囲する中で迫られた条約であり、その結果、一九〇六年二月には、日本の統監府がソウルに置かれることになりました。
 しかし、日本はこうした保護国化だけで満足したわけではありませんでした。
 池田 明治期以降の「富国強兵」路線が、どれだけ貴国をはじめとするアジアの国々の人びとを苦しめ、平和な生活を踏みにじったのかーー日本人は、真摯にその事実を見つめなければなりません。
 当時、こうした時代相を、「虎視耽々、いやしくもいささかの罅隙かげきあらば、競いて人の国を奪わんとし、これがためには横暴残虐敢えて憚るところにあらず」(『牧口常三郎全集』1)と鋭く批判し、弱肉強食的な世界からの脱却を訴えていたのが、創価学会の牧口初代会長でした。
 牧口会長は日露戦争が始まる前年の一九〇三年に、『人生地理学』を著し、世界を跋扈する帝国主義を「国民的利己主義」と非難し、国家の最終目的は「人道の完成」にあらねばならないと強調しました。
 そして、他者の犠牲の上に成り立つ幸福や繁栄ではなく、自他ともの幸福と繁栄を追求するための「人道的競争」のビジョンを世に問うたのです。
  牧口会長の先見的な思想は以前もうかがいましたが、本当にすばらしいものです。
 私も教育者として、青年たちに、”他人のため””社会のため”に生きるべきであると訴えてきました。
 以前、韓国の「新教育新聞」に、次のような言葉を寄せたことがあります。
 「青年たちよ! 世の中を広く見て、多くの存在に恩恵を施すことができるよう、高く飛翔せんと思索し、苦悩せよ!
 人のために苦悩できず、自分のためだけに生きようともがく人生は、下等動物のように結局は他人の餌食になってしまい、自分のためにもならず、その人生は無価値なものとなる。
 遠い将来を考え、深刻に苦悩することができず、今日のことだけを考える人生は、他の下等動物のように自身の運命を予測できず、今日という一日をも無価値なものにしてしまうのである。
 したがって青年は、自分をもとに、他人のために生きようと苦悩した時にこそ、力が湧き、人間として生まれた真の幸福を感じるのである」と。
 池田 すばらしいメッセージです。博士が、どれだけ青年たちの未来を思われ、教育に心血を注いでこられたかを、凝縮した言葉だと思います。
  過分なお言葉です。
 私のことはともかく、牧口会長のビジョンは、二十一世紀の人類にとって重要な指針だと思います。
 牧口会長が指摘されたように、二十世紀初頭の国際社会は、帝国主義による植民地支配が広がる中で、列強諸国の利害が衝突していた時代でした。
 一九〇七年六月、オランダのハーグで行なわれた「万国平和会議」は、こうした対立を平和的に調整しようというものでした。わが国でも高宗が使者を派遣し、日本の侵略行為を世界に訴えようとしたのですが、韓国には外交権がないとされたため会議に参加することはできませんでした。
 日本で「ハーグ密使事件」と呼ばれているものです。伊藤博文はこれを口実にして、翌月、高宗を退位させ、新たに純宗スンジョンを即位させました。
 譲位式は、新旧の皇帝のいずれもが参加せず、代理によって行なわれた、きわめて異例のものでした。
 その上、日本は「第三次日韓協約(丁未七条約)」を結ばせ、内政権を全面的に掌握するとともに、韓国の軍隊を解散させました。
5  独立運動の闘士ーー安重根アンジュングン安昌浩アンチャンホ
  こうした日本の動きに対し、各地で義兵闘争が広がり、一九〇九年十月には、安重根義士がハルピン駅で伊藤博文を暗殺する事件が起きました。
 池田 貴国では、安重根は独立の義士として崇敬されてきました一方、日本では伊藤博文は初代総理大臣として千円札紙幣の肖像に選ばれていたこともあるーーここに、貴国と日本の歴史観の違いが象徴的に出ていると思います。
 私は青年時代、安重根についての本を読んで、鮮烈な印象を受けたことを覚えていますが、博士はどう評価されますか。
  未完に終わった「東洋平和論」をはじめ、優れた思想をもっていた安重根義士が、危地にあった祖国を救うための最後の手段として暴力に訴えるほかなかったというのは、時代の悲劇と言わざるをえません。
 以前も申し上げたとおり、同時代にあって、「興士団フンサダン」などの結成を通じて民衆教育によって国を興そうとした安昌浩先生の生き方に、私は強く共感します。
 私自身が教育者ということもあるのでしょうが、安昌浩先生は、私が模範とする人物です。
 池田 安昌浩先生といえば、生前の伊藤博文が独立運動の中核を担う安先生を懐柔しようとして、一蹴されたエピソードが伝えられていますね。(前掲「至誠、天を動かす」)
 韓国の再建に助力したいと申し出た伊藤に対し、安先生は、”韓国を助ける一番の方法は、韓国人自身の手で改革を進めることである”と断言された。
 そして、「明治維新をアメリカ人がきてやらせたとしたらあなたはどう思うか。私は明治維新は成就しなかったと信じる」と鋭く切り返しました。
 また、この時、安先生は「日本が列強諸国の敵となり東洋の諸民族の敵となることを自分は憂うる」との諌言をされた。日本の未来を予見した言葉でした。
 後に、中国の孫文も、逝去の前年(一九二四年)に日本を訪れ、「西方覇道の手先となるのか、それとも東方王道の干城(=守り人)となるのか」との警告を行いました。日本の為政者は、こうしたアジアの賢人たちの言葉に、最後まで耳を傾けることをしなかった。
 その結果、軍国主義の道を突き進んだ日本が、どれだけアジアの人びとに塗炭の苦しみを与え、亡国への末路をたどったかーー。
 この過ちを正そうとして立ち上がった、牧口初代会長と戸田第二代会長が投獄され、牧口会長が獄中で生涯を閉じたことは、以前、ご紹介したとおりです。
 この愚かで悲惨な歴史を、二度と繰り返してはならないという決心で、私どもは行動していたのです。
  池田会長をはじめ、SGIの皆さんが取り組まれている平和運動に、私も深く共鳴します。過去の歴史は過去の歴史として、未来を見据えた建設的な行動が重要だと考えています。
 二十一世紀の人類の勝利のために、互いに尊重し合いながら平和のための連帯を強めていくーー時代をこの方向へ、韓国と日本の国民が手を取り合って、世界を先導していくべきだと思うのです。
 池田 博士の寛大なお心に胸を打たれました私もまったく同感です。
 しかし日本人は、博士のような韓国の方々の寛恕に、甘えていてはならないと思います。「過去の歴史」から、目を背けることは許されないのです。
 アジアの平和を強く願われていた師の戸田第二代会長は、近代の日本の行動は、「その国の繁栄を共にしようとした」ものではなく、自らの侵略的精神に発していたものであると厳しく批判していました。
 そして、日本という一国の繁栄だけでなく、日本の民衆が、韓国の民衆や中国の民衆とともに手を取り合って、「平和」と「幸福」の道を切り開いていかねばならないと力説していたのです。
 私は、この師の心を”わが心”として行動してきました。博士との対談を通じて、その心を青年たちに託したいと願っています。

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