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日蓮大聖人・池田大作

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3 忍耐と愛情で築いた”平和島”  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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6  「石」「風」と共存してきた民
 池田 これまでのお話で、済州島の方々のダイナミツクな成り立ちの歴史が、よく分かりました。
 古代から他地域との交流がもともと盛んであり、さらに大きな人的交流として、モンゴル軍による支配と、韓半島からの政治犯の配流があったということですね。
 結果として、島の人びとの文化水準、教育水準は高くなり、そして何よりも「心の器」は類例を見ないほど、豊かになったのではないかと思われます。
 ともあれ、異文化との交流は重大ですね。私が対談したトインビー博士の歴史観も、異文化との遭遇から新たな力強い文化が創造されていくとするものでした。
 続いて、済州島の自然条件などが島民にどのような影響おぼしたかを、お聞きしたいと思います。
  すでに「三麗」「三宝」の島であるということで、自然や文化を紹介してきました。
 これらは、一九六年代以降に言われるようになった言葉で、比較的新しいものと言えます。
 じつは、それよりももっと前から、済州島を表現する言葉に、「三多」というのがあります。
 池田 それは何でしょうか。
  「石」「風」「女」です。
 「石」が多くなった原因は、これまでにも述べてきたとおり、漢拏山の火山活動によるものです。
 済州島の地盤は、ほとんど岩盤であると言って差し支えないでしょう。
 そのため、水田が極めて少なく、土のあるところはほとんど畑でした。しかも農作物をつくるのにも、大変な苦労を強いられてきたのです。
 済州島民の日常生活では長い間、ごはんは米飯ではなく、雑穀でした。米飯は、先祖をまつる祭祀や結婚式でしか見ることはできませんでした。
 農民たちは地面を覆う多くの石の塊を取り除き、畑を開墾しました。
 漁民たちは大きい石を見つけては、港に積み上げ、海賊などに備えました。
 このようにして、すべての済州島の島民は、石と共存するなかで、長い歴史を積み重ねてきたのです。
 池田 済州島のいたるところで見受けられる「トルハルバン」(おじいさんの形をした石像)これも、石と共存する文化のなかで生まれた民衆の芸術なのでしょうね。
 人びとの苦労は一筋縄ではいかないはずなのに、「トルハルバン」の表情は、つねに穏やかでにこやかです。これは、偉大にして豊穣な精神文化がなければ、創られるものではありません。
 趙博士からいただいた「トルハルバン」も、大切に飾っております。
  ありがとうございます。
 「トルハルバン」は、人の背より大きなものから、観光みやげの一五センチ程度のものまでさまざまですが、まさに済州島のシンボルでしょう。
 起源は明らかではないのですが、朝鮮王朝の中期以前にさかのぼることができるようです。
 「トルハルバン」は、村落に病魔や邪気が入らないように、村の入り口に建てられています。日本でいえば、道祖神のようなものでしょうか。
 その他、民族村や済州大学など、主要な施設にも置かれています。
 池田 「トルハルパン」は、まさに済州島の人びととともに、歳月を刻んできたのですね。
 二番目の、「風」が多いというのは、強風が吹くということですね。
  ええ。二十四時間の平均風速は、例えばソウル市が毎秒二・五メートルであるのに対し、済州島は毎秒四・七メートルにも及びます。
 上陸する台風の回数も多く、全国一の強風地帯と言えるでしょう。
 済州島では、旧暦の二月一日から十五日までを、風の神である「ヨンドンハルマン」を祭る期間に定めて祭りを行ない、その年の海事の安全を祈願する風習があります。
 また、民家や畑の土が吹き飛ばされないように、いたるところに石垣が造られました。
 池田 そのたたずまいは、私も拝見したことがあります。
 三番目の「女性」が多いというのは、どのような理由によるのでしょうか。
  まず、「女性が多い」ということには、二つの意味があります。
 一つは、実際に女性の人口が、男性の人口より多いということ。
 もう一つは、韓半島に比べて、女性が、畑や海辺など、外で働く傾向が高いことを意味しています。
 このうち前者については、男性たちが、しばしば、漁の最中に遭難して命を落としたこと、また第二次世界大戦、済州島での「四・三事作」、「六・二五動乱(朝鮮戦争)」と続く一連の戦乱で、男性の犠牲者が多かったことなどが影響しています。
7  「門」がない信頼の島
 池田 それにしても、容易に人びとを寄せつけない、石の多い、風の吹きつける土地にあって、島の人びとは、厳然と人生の根を張り、忍耐強く息抜き、「三麗」「三宝」「三多」の島を築いてこられたのですね。
 その尊き強靭な精神性に敬服いたします。
 ところで、済州島を表す言葉に、「三無」という表現もあるそうですね。
 「泥棒」「乞食」「門」だというのですが、本当でしょうか。
  「門がない」というと驚かれるかもしれませんが、本当です(笑い)。
 古来、済州島民は、やせた土地で生活していくために、勤勉、節約、助け合いを美徳として、泥棒泥棒もせず、乞食も出さず、家と外部社会との境界になる「門」も設けずに暮らしてきました。
 自立心を強くもち、勤勉に働き、収穫した農作物を節約して来来に対する備えとしたからこそ、泥棒や乞食をしなくても生きてこられたのだと思います。
 もし、ひもじい人を見つけたら、隣人が畑の仕事を手伝うようにさせて食べさせていました。
 門がないのも、島民たちの間に秘密がなく、信頼し合い、開放的であったからなのです。
 池田 すばらしい! 心に垣根がなく、すべての人を迎え入れたのですね。
 島の暮らしは決して裕福ではなかったと思われるのに、この心の高貴さ!
 そういえば、歴史小説家の司馬遼太郎氏も、『耽羅紀行』の中で、済州島に「門」はないことを紹介していました。(『街道をゆく』28、朝日新聞社参照)
 氏によると、二、三本の棒を横にわたしただけの、のどかな造りの門に似たものも見受けられ、これは「動人は留守です」ということを意味するそうですね。済州島には泥棒がいなかったことを、世に証明しています。地域の友好と教育力のモデルを見る思いです。
 日本人にもかつては、そのような地域がありましたが、今は「心」にまで門を構え、他者を閉ざす傾向が見えています。地域の教育力が失われて、青少年の非行にも歯止めがかからなくなっています。これは、歪んだ大人社会の反映です。
 どこまでも寛やかでおおらかな済州島の人びとの心に、学ばなくてはなりません。
  経済的、社会的観点からもう少し説明すると、住民たちの間に貧富の差がなく、盗まれるものもなければ、乞食に与える余裕もなく、泥棒や乞食を放置しない環境ができあがったことが大きいでしょう。
 また精神的観点から言えは、耽羅国の末裔であるとか、正義を貫いたがために配流された気高い士人たちの末裔であることを誇りに、その先祖の名誉を傷つけないように生きてきたことが挙げられるでしょう。
 これらはとりもなおさず、安定した社各秩序と、平和な社会基盤を形成していることを意味します。
 観光産業中心の現代社会において、このようなよき伝統を、どう生かしていくのかが、今後の課題になると思います。
 池田 そうですね。済州島がいつまでも、南海の「ユートピア」であることを願ってやみません。
8  「武器」は忍耐、愛情、冷静さ
  一般的に、個人でも民族でも、耐え難い環境や歴史を経験した場合、「命を亡くす」のが世の常であると思います。
 そういう意味で、私は、ニーチェが唱えた「弱者と強者の共存論理」には、共感するところがあります。
 もし社会的弱者が、権力、金力、組織力、地位、名誉等をもった社会的強者と激しく戦い、生き残るとすれば、弱者の武器は、忍耐と愛情と、冷静な思考力以外の何ものでもない。
 しかもこれらは、苦難が甚だしくなればなるほど、忍耐力は強くなり、より多くの愛情を注ぐようになり、ますます冷静に脳細胞を働かせるようになるのです。
 結局、そのようにして弱者は、強者と対等に肩を並べるのみならず、相手から信頼と尊敬をも勝ち取って、相手をリードすることになります。
 池田 戦い抜かれた、真実の「人生の闘士」のみが到達する、どこまでも深い境地だと思います。
  ありがとうございます。済州島の人びとは歴史的に、韓国人の中でも最も苦難の多い生活を送ってきました。
 そして、その子孫たちが生きるために得た遺産は、個人としての忍耐心であり、勤勉で誠実な努力であり、家族関係の愛情であり、社会に対して切実に望む平和であったのです。
 地方自治の歴史も浅く、国民全体を統合するナショナリズムの街頭の歴史もなかったゆえに、縁故主義を超えた社会への博愛が未熟であったり、公的関係の共同作業も苦手であったりする短所も見受けられるのですが、戦争の歴史を最も身近に体験した済州島民たちが、だれよりも平和を望むことは言、つまでもありません。
 かつてわが国の慮泰愚ノテウ大統領と、ソ連のゴルバチョフ大統領が、済州島で歴史的な会談を行ない、冷戦構造を終わらせる先駆けとなりました。
 冷戦が終結した今、そして新たな紛争が起こり始めている今、韓半島の平和はもとより、「世界平和」へのメッセージの発信基地として、この済州島を輝かせていきたいのです!
 池田 済州島を敬愛する一人として、私も、そのように心から期待してやみません。
 幾多の苦難と試練を超え、忍耐と愛情に生きようと決めた人びとが、民しき済州島をつくり上げてこられたことが、よく分かりました。
 歴史を真に担い、築いていくのは、民衆です。無名の民衆です。
 時代の底流を動かしつつ、何ものにも膨せず色き恥く民衆こそ、最終的な「歴史の担い手」であり、広範な「平和の担い手」です。
 このすばらしき「済州島の伝統」を、次代の「世界の伝統」にしていくことが大切ではないでしょうか。

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