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日蓮大聖人・池田大作

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3 「人間教育」に生命を注ぐ  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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5  日本で送った研究生活の思い出
  日本で三回、またアメリカの大学でも研究生活を過ごしました。
 最初に日本を訪れたのは、一九八〇年七月でした。済州大学から教員を海外に研究派遣することになり、私が日本に渡ることになったのです。
 決定通知を受けた私は、かねてより尊敬していた、日本の行政法学の権威で東京大学名誉教授の田中二郎先生のもとに、手紙を出しました。
 田中先生は、私と一面識もなかったにもかかわらず、”自分はもう退官しているので、受け入れることはできないが、別の教授を紹介したいと思うがどうだろうか”と、懇切丁寧な返事をくださったのです。
 そこで、東大教授の塩野宏先生を紹介いただき、そこでお世話になることになりました。
 池田 田中二郎氏といえば、美濃部達吉博士のもとで行政法を学び、戦後の日本で、行政の民主化と地方分権化を積極的に推進された方ですね。
  田中先生は、私が来日した二年後に、病気で亡くなられましたが、そのご厚恩には、尽せない感謝の思いがあります。
 東京大学では、総合図書館の一室を私の研究室に割り当ててもらいました。
 研究時間は、朝九時から夜十時までで、来る日も来る日も、研究テーマである「韓日の官僚制の比較研究」に関する書物を、一つひとつ精読していきました。
 最終的には日本語で論文を書くつもりだったので、十分でない日本語の知識を補うために、参考文献の読み込みと並行して、語学の勉強にも取り組んだのです。
 池田 慣れない日本での研究生活で困ったことはありませんでしたか。
  そうですね。苦しかったのは、山ほど勉強したかった私にとって、夜十時という研究室の門限時間が早すぎたことと、ぎりぎりの生活費の中で、十分に本を買う余裕がなかったことでしょうか。
 それで、少し悩んでいた頃に、国際基督教大学の渡辺保男教授と知り合いました。
 その渡辺教授の尽力で、今度は同大学の社会科学研究所の招待研究員として、一年間、お世話になることになったのです。
 ここでは、懸案だった門限時間の制限もなく、毎晩、夜遅くまで勉強することができました。論文作成も順調に進み、書き終えた時には、四字詰め原稿用紙で一六三九枚にものぼる膨大なものになりました。
 池田 大変な労作ですね。
  できあがった論文を見た東大の塩野先生が「日本でも昔はかなりの分量の論文を書いたものですが、最近ではほとんどないことです」と、驚いていました。
 その後、一九八四年二月に帰国しましたが、その研究をさらに完成させたいとの思いが募り、一九八四年に再び、日本を訪れました。
 東京市政調査会から招聘を受け、一年間、研究生活を送った後、今度は、アメリカのエール大学に渡り、地方自治の研究をさらに深め、九二年に韓国に戻りました。
 しばらくして、日本の塩野先生から連絡があり、「学位論文の審査があるので、必要書類を送ってみてはどうか」との話がありました。
 塩野先生は、東大を定年後、成践大学に移っておられ、そこで私の論文が審査を受けられるよう尽力してくださったのです。
 翌年三月には、成際大学から政治学の博士号が授与されました。これは、私の長い研究生活の中で大きな節目となりました。
 私が、ちょうど六十歳の時でした。
 池田 人生の年輪を重ねる中で、ますます壮んに、学問の道を究めようとなされる姿勢に、深い感銘を覚えました。
 それも、勇んで新しい環境に飛び込み、次々と大きな成果を成し遂げられた。
 私も、六十歳(還暦)を迎えた時、今までの何倍もの仕事をしよう、何十倍もの歴史を残そうと決意しました。
 その際、”人生の大先輩”である松下幸之助氏から、次のような励ましの言葉をいただいたことが忘れられません。
 「本日(=還暦の誕生日)を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ「創価学会」をお作りになられる位の心意気で、益々ご健勝にて、世界の平和と人類の繁栄・幸福のために、ご尽瘁とご活躍をお祈り致します」と。松下氏は、この時、九十四歳でした。「もうひとつ『創価学会」を」との言葉に、私は、意を強くしたものです。
 師の戸田先生も、「人生、最終章が大事だ」と口癖のように言っておりました。
 戸田先生の弟子として、どこまで歴史をつくれるのかーー師の偉大さを宣揚するためにも、最後の最後まで、戦い抜いていきたいと思っています。
6  済州大学の総長に就任
  松下氏の言葉は、含蓄深いものがありますね。私も六十歳で学位を得た後、済州大学で行政大学院長を務め、一九九七年九月に総長に就任いたしました。
 まったく新しい挑戦となる、この重要な職務に就くにあたり、私は、今まで以上に強い心構えを持たねばならないと考え、ある奉仕活動に参加しました。
 総長という仕事は、大学を運営する上で大きな権力を持つが、その役目は、あくまで人間らしい立場から考えて教育の目的を果たすことにあると考え、社会で最も苦しい立場に置かれている人びとのもとで働くことで、それを今一度学ぼうと決意したのです。
 それで、小鹿ソロク島にあるハンセン病患者の施設での奉仕活動の一員に加えてもらうことになりました。
 池田 博士の誠実で高潔な人柄が偲ばれる話です。すべての指導者たちが、博士の行動に学ぶべきです。何のための職務であり、何のための責任なのか、それを忘れて、自らの権勢を誇ることにのみ忙しい指導者たちが、日本にはあまりにも多すぎます。
 人びとに尽くす、人びとの幸福のために生きるーー立場が高くなればなるほど、博士のように、常に原点に立ち返る姿勢こそ、真の賢人であると思います。
  過分な評価に、恐縮します。
 その奉仕活動で、私は、本当に得難い体験をすることができました。
 若い人たちといっしょに、草刈りや掃除、壁張りや洗濯をしたり、散髪をした患者さんたちの頭や顔を洗うのを手伝ったりしました。そんな私の姿を見て、周りの仲間たちは不思議がったり、感動したりしていました。
 何より私が学んだのは、患者さんたちが、自分たちの苦しい境遇に負けず、忍耐強く、常に希望をもって懸命に生きている姿でした。彼らの強さを、私たちのほうこそ見習わなければならないと痛感したのです。
 それで総長就任後も、毎年のように、済州大学の学生たち数十名を伴って、奉仕活動を続けてきました。
 池田 学生たちは、患者さんの懸命な姿とともに、博士が率先して奉仕に取り組んでいる姿に、多くのことを学んでいるのではないかと思います。
 まさに、「人間教育」の鑑と言えましょう。
 博士は、総長に就任される時も、こうした自らの教育方針をスピーチされたそうですね。
  ええ。学生や教職員を前に、こう話しました。
 「私たちのこの済州大学を、二十一世紀の人類社会の平和と繁栄を目指しての『真の人間主義』ーーすなわち、ニュー・ヒューマニズム、ニュー・ルネサンスの発源地となるよう、建設に取り組もう!
 そのためにも、まず私は、公益のために自らの私益を犠牲にすることはあっても、私益のために公益を犠牲にすることは秋毫ももないことを、ここに誓うものである」と。
 そんな思いもあったので、就任式は、一切の花束や花輪を遠慮することにしました。
 きわめて簡素な就任式でしたが、国内外の多くの友人や知人が祝福に駆けつけてくれたことが、一番うれしいことでした。
 池田 博士の教育理念は、私ども創価大学の目指すべき道と一致するものです。
 八月二十四日(二〇〇一年)に、アメリカ創価大学のオレンジ郡キャンパスで第一回の入学式が行なわれましたが、ここで日本の創価大学とともに、「真の人間主義」のための新しい教育に挑戦していきたいと決意しています。
 博士が言われるように、教育こそが、「世界の平和」と「民衆の幸福」の一切の基盤となるものです。
 私は、尊敬する博士と力を合わせながら、「教育の光」で二十世紀を、そして人類の未来を明るく照らし出していきたいと強く念願しています。

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