Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

関西創価学園の建学 おお 逞しき英知光る

2000.4.3 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
2  ここ関西創価学園の存在する交野の天地は、いにしえより、あまりにも有名である。千年前の『枕草子』にも、その名が綴られている。
 平安朝の時代から、交野は桜の名所としても知られていたようだ。
 『新古今和歌集』にも、次のような名歌が残っている。
  またや見む
    交野のみ野の
      さくらがり
    花の雪散る
      春のあけぼの
 学園生活の舞台には、「天野川」という川があり、「天野が原」という野があり、「星田」という地がある。その「天野川」には、天上を渡る「天の川」が映じたかのようなロマンがある。
3  この地は、蛍が飛び交う場所でもある。
 これにちなんで、学園では、蛍を飼育し、研究をし始めた。
 今では、幾たびとなくテレビで放映され、新聞にも載るくらいの名所になっている。
 私も一度、その時期、妻と二人して、蛍の成育の中心者である松田茂行先生の案内で、夕闇迫る学園の蛍の生息地を見せていただいた。
 それはそれは、万葉の夢そのものの、幾百幾千の蛍が乱舞しゆく、天才の光の芸術であり、私は驚嘆した。今でも脳裏から離れない。
 また学園では、桜の研究にも取り組み、桜の季節には、平和郷そのもののたたずまいが、すばらしい。
 わが学園は、英知の若き生徒たちが集う、ロマンと詩情に包まれた学舎である。なんという「おとぎの国」にできあがった、「青春の城」か! 「栄光の城」か! 「勝利の城」か!
4  宝治二年(一二四八年)、日蓮大聖人が、二十七歳の若き日、修学の途上に歩まれたと推察される街道も、交野を通っている。
 私が、ここ交野を初めて訪問したのは、一九五七年(昭和三十二年)の四月十六日の午後三時半であったと記憶する。交野町でのブロック座談会に駆けつけたのである。この日の午後だけでも、吹田、守口、四條畷等と、五会場の会合への出席となった。
 やがて襲い来る、権力の魔手を感じながらの、激闘の連続であった。
 関西の共戦の友は、三世永遠の家族である。
 そのお子さんやお孫さんが胸を張って学びゆく理想の学園を、この佳き地につくりたいと、私は遠大な夢を、人知れず広げていたのである。
5  三カ月後の七月十七日。冤罪の不当逮捕から出獄した私を、関西の勇敢なる同志は、中之島の公会堂に迎えてくれた。
 この雨の「大阪大会」に、ある母は生まれて間もない乳飲み子を抱え、ある母は出産を間近に控えながら参加してくれた。
 私は、その尊き姿をば、一生涯、忘れることができない。
 いかなる宿縁であろうか。
 この時に前後して誕生した子供たちが、十六年後、凛々しい乙女に成長して、関西創価学園の第一回入学式に集ってきたのである。
 それは、一九七三年(昭和四十八年)の四月十一日、陽光まばゆき水曜日であった。
6  関西学園も、建設に至るまで、地元青年部の有志が、何度も何度も草刈りに、金の汗を流してくださった。
 また「学園守る会」の方々が、献身的に庭園の整備を続けてくださっている。私は、心から感謝にたえない。
 開校直後から、私は、妻と共に泊まりがけで、建学に取り組んだ。
 駅から歩いて二十分ほどかかる、なだらかな坂道の通学路は、学園生にとって鍛えの道である。
 秋の第一回希望祭を終え、残って片づけをしている数人の学園生がいた。さぞかし疲れているにちがいない。
 私は、急遽、車を用意してもらい、夕焼けの道を一緒に乗って駅まで見送った。
 よき教育とは、よき思い出を残すことであろう。
7  ある時、学園生の下宿先に足を運ぶと、九州のお母さんが病気であるという。私は、その場で、すぐお宅へ電話して、受話器に出た妹さんに、お見舞いの伝言を託した。
 一期生の卒業を前にした厳冬の一月、たまたま廊下で会った学園生の中に、親を亡くした生徒が二人いた。
 私は「学園っ子は負けてはいけない。苦しみ悩んだ人ほど強い人になる」と励まし、後日、校内にそれぞれの亡き父、亡き母の「竹」を植樹した。
 私の創立した学園に、大切な我が子を送り出してくださったご家族のことは、生死を超えて、胸の奥深くに留めている。
8  関西学園には多くの世界の識者が訪れる。
 ノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ元ソ連大統領ご夫妻、キューバのハルト文化大臣、ヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長、モスクワ大学のログノフ前総長、イギリス・グラスゴー大学のマンロー教授、フィリピン大学のアブエバ総長、トルコ・アンカラ大学のセリーン前総長、韓国・慶煕大学の趙永植学園長、アメリカの精神医学者ポーリング・ジュニア博士等々、来校者の数は三十七カ国・四百人以上に及ぶ。(肩書は来校時)
 これ自体が、類例のない「国際人教育」の象徴の姿といってよい。
 海外の大学総長、学長等の来校も、世界四十大学を超える。
 それぞれの方々が、口々に、「日本一の学園、いな世界一の学園である」と感嘆し、賞賛してくださっている。
 「この中から、日本の優秀な指導者、世界にまたがる大指導者が輩出されるであろう」と期待し、主張してくださる方も、まことに多い。
9  男女共学となって第一回の入学式(一九八二年=昭和五十七年)には、アカデミー・フランセーズの会員であるルネ・ユイグ氏が祝福に駆けつけてくださった。ルーブル美術館の至宝を、ナチスから守り抜いた、精神の闘士である。
 その時の「共学一期生」も、教職員の方々と一体になって、新しい伝統を立派に築いてくれた。十年にわたって関西学園の構築に挺身した長男の博正も、この期の担任を務めた。
 関西学園の同窓の仲の良さ、連帯の深さを、いつも誇りを込めて語っている。
10  学園生の探究は、宇宙にも広がっている。
 一九九四年(平成六年)には、アメリカのウィルソン山天文台との画期的な映像交信が実現した。さらに本年二月には、「アースカム」計画に、日本の初の代表校の一つとして参加した。スペースシャトルが、宇宙から撮影した地球の映像を、学園の教室で受信したのである。
 可憐な蛍の光も、壮大な宇宙の星の光も、共に包みゆく二十一世紀の知性の最先端が″関西創価″である。
11  新入生を迎える関西学園の講堂には、快活な民衆詩人・ホイットマンの像が、「勝利の行進」を呼びかけるように立っている。彼は歌った。
 「君ら西部の若者たちよ、君らが先頭に伍して進みゆくさまがわたしにははっきり見える、
   開拓者よ、おお開拓者よ。
   年長の種族は立ちどまってしまったか、
   (中略)
   ならば我らが引き受けよう、その永遠の任務を、そして苦役と勉学を、
   開拓者よ、おお開拓者よ。
   (中略)
   もっと大きな新たな世界、多様な世界に我らは乗り出す」(『草の葉』酒本雅之訳、岩波文庫)

1
2