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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 「生への希望」を語る「人間のた…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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7  「革命文学」より「革命人」こそ必要
 金庸 ところで池田先生と巴金先生の語らいでは、「文学と政治」もテーマになったと聞きました。巴金先生は「絶対に忘れないこと」と題する短編のなかで、こんなふうに語っています。
 「愛国主義は終始棄てることができなかった。なぜなら、私は中国人であり、各種の差別と侮辱虐待を受けっ放しであることに不平を感じ、自分の運命は終始自分の祖国と切り離せないものと感じていたからである」(『随想録』石上韶訳、筑摩書房)と。
 私が生まれるはるか以前から、すでに中国は帝国主義列強の圧迫を受けてきました。私個人は直接、外国人から差別や軽蔑を受けたことはありませんが、国が受けてきた圧迫と侮辱は、子供のころから深く脳裏に刻み込まれてきました。抗日戦争が始まってまもなく、わが家は日本軍の手によって跡形もなく焼き払われました。間接的にではありますが、私が愛した弟は母とともに、日本軍によって殺されました。
 池田 重ねて、心から哀悼の意を捧げます。
 金庸 私が少年のころ、国家と民族は、生きるか死ぬかといった、あまりにも厳しい瀬戸際に立たされていました。全国が一つになり、民族の存亡をかけて、もがきながらも奮闘していたのです。ですから、すべての文学活動が、敵に抗し、国を守ることに集中したことは、きわめて自然なことだったと思います。
 抗日戦争の後、国民党と共産党との激烈な闘争は、内戦へと進展しました。文芸界は、ほぼ共産党擁護一辺倒でした。
 中華人民共和国成立後、一連の運動が展開されていきました。「三反五反運動」「反右派闘争」、「三面紅旗」を掲げた「大躍進」運動、文化大革命……。文革が終わるまで、政治運動は連続して、絶えることがありませんでした。文芸活動も、すべての分野において、政治運動を核としていました。政治活動のまわりを、ぐるぐる回ることを余儀なくされたのです。
 池田 「政治が文化に優先する」ことが中国の歴史の一側面です。その伝統が、新中国成立後も続いたといえますね。
 金庸 そうです。「文学の根本目的とは何か?」――この問題は、新中国にあっても、提起すらできませんでした。なぜなら、これは「問題ではない」からです。文学とは、議論の余地なく、革命に奉仕するものであり、人民に奉仕するものであり、目前に展開されている政治運動に奉仕するものだと考えられていたのです。
 このことに少しでも疑問をはさむと、いかなる人も、ただちに「反革命」のレッテルを貼られ、大きな帽子を頭の上にかぶらされ、糾弾されなければなりませんでした。
 池田 巴金氏の友であった老舎もまた、その犠牲になりました。
 巴金氏は、こんな追憶の文章を書いておられます。
 「私は、首から上を血だらけにし、白い絹布に包まれた老人が声一つ立てず横たわっているのを見る思いがした。彼には、あれこれの思いが湧きかえり、吐露したい話がたくさんあるのだ。こんな有様のまま死ぬわけにはいかない。彼にはまだ、後世に残して置くべきすばらしいものがたくさんあるではないか!しかし、会議から一日たつと、彼は太平湖の西岸に横たわっており、身体には一枚のぼろむしろがかけてあった。自己の心にある宝物を完全に献げ尽くすことができないうちに、老舎は無念さをいっぱい腹にためたまま眼を閉じた。これが私たちの想像し得た老舎の最後の姿である」(『探索集』石上韶訳、筑摩書房)
 「彼の口を通して叫ばれた中国知識分子の心の声に、どうか皆さん耳を傾けていただきたい――『私は、自分たちの国を愛してきた。だのに、誰が私を愛してくれたというのか?』」(同前)
 あの文革で巴金氏は、老舎をはじめ多くの友人を失いました。最愛の夫人の生命も奪われました。そうした悲しみ、無念さが伝わってきます。
 金庸 全国が一つになって敵に対抗し、亡国を防ごうとしているときは、いかなる人であれ、皆、この目標のために力を尽くすべきです。たとえ生命を犠牲にするようなことがあっても、当然そうすべきでしょう。
 しかし平和が訪れた後もなお、文学は政治のためだけに奉仕すべきでしょうか?文学創作は、やはり国家や民族に有利であると同時に、人類社会に有益である主題を表現することに主眼を置くべきではないでしょうか。
 池田 同感です。前回も紹介しましたが、巴金氏は言われていました。「文学は政治から離れることはできません。しかし、政治は絶対に文学の代わりにはなりえない。文学は、人の魂を築き上げるものだからです」と。「人の魂」や、「人類普遍のテーマ」を扱うのが文学です。
 巴金氏が師と仰ぐ魯迅の文学観の根本も、そこにあったといえます。「芸術のための文学」「文学のための文学」ではない。いわんや、「政治のための文学」などではありえない。あくまでも「人生のための文学」であり、「人間のための文学」である、と。
 魯迅が活躍した当時は、文学に対する政治の優位を説くプロレタリア文学を中心とする、いわゆる「革命文学」が主流だった。しかし、必要なのは「革命人」であって「革命文学」ではない、と魯迅は叫びました。
 時代は「革命人」を待望しているという。ならば幾百千の「革命文学」を描こうとも、それが文学そのものとして優れ、質の高いものでなければ「革命人」を育てることなど、望みうべくもない。
 「人をつくる」「魂を築く」という根本のところをはずれて、いくら「革命文学」をもてはやそうとも、それは目的意識のみが先ばしりしたプロパガンダ(宣伝)の域を出ない、ということでしょう。
8  万人を感動させうる「生への希望」
 金庸 ええ。文学の特質ということでいえば、私は、文学の働きと、宣伝文句や理を説いた文章とは、性質が違うと思います。
 理を説いた文章の目的は、事柄の道理を明確に説明し、筋道の立った、きわめて厳格なロジック(論理)で分析して、読者を心の底から納得させ、作者の意見を受け入れさせるところにあります。
 敵への抵抗を宣揚したければ、憎悪すべき敵の実態を、あますところなく描き出さなければなりません。ここで奮起せず、抵抗しなければ、すぐに国家は滅亡し、民族は絶滅するということを、人々に認識してもらわなければなりません。
 革命を鼓吹したければ、事実を列挙して、現在の政府と制度が、人民に対してきわめて大きな危害を及ぼしていること、そして、これをひっくり返し、大々的に「民主」を宣揚しなければ国と人民の運命は危ういということを人々に自覚させなければなりません。
 文学も敵に抵抗し、革命を鼓舞することはできます。しかし、それは説教とは違います。また、登場人物に説教させるものでもありません。人々を感動させる物語なり、劇的なシーンなり、人々の心を激しく揺さぶる詩句によって、作者の感情を読者や観衆が受け入れる、というかたちをとるのです。
 そこでは読者が単に受け入れるだけではなく、熱血が沸騰し、熱い涙がほとばしるような感動を覚えることすら可能なのです。
 池田 わかります。人の心を揺り動かすのは、道理や大義名分ばかりではない。作者自身の内面にたぎる、「大感情」のほとばしりだということですね。辛亥革命の前夜、青年の憂国憂民の熱血を燃え立たせた鄒容の『革命軍』など、その好例でしょう。
 巴金氏の『寒夜』にしても、文章に込められた世の悪や、不条理への激しい怒りは、やむにやまれぬ「大感情」となって凝結し、凡百の宣伝文など足もとにも及ばない、有無をいわさぬ説得力をもっています。
 金庸 私が書いた武侠小説には、何らかの主題をもった思想を宣揚したいという意図はありません。たまたま、社会における醜悪な現象や醜悪な人物を浮き彫りにし、風刺することはあっても、それはただ興に乗った勢いで、気ままに描き出したものにすぎないのです。
 本来の主旨は、中国人の伝統的な美徳と崇高なる品格、高邁なる思想を肯定し、読者の心に、これらに対する敬慕の念を自然に湧き立たせ、「この世に生を享けたからには、当然こうあるべきだ」と思ってもらうところにあります。
 大多数の読者は実行できないかもしれませんが――実は、作者の私自身もできないわけですが(笑い)、そうした美徳に「あこがれる」気持ちを引き出すことができれば、それで目的は達成されたと思っています。
 池田 いえいえ。幾百千万の読者が先生の作品を愛読しているということ自体、先生の文筆活動が成功し、その目的が達成されている証明だと思います。
 金庸 ありがとうございます。比較的広い立場からいえば、文学の目標は、文字を用いて人物、物語、感情(ただし漢詩には、通常、人物や物語はありませんが)を創造し、ある種の美的で、善的で、純粋な感情、または価値を表現するところにあります。
 こうした感情または価値は、人生において本来、すでにそなわっているものです。それを芸術家が精錬し、組織立てることによって、読者に感動を与えるとともに、読者は、その価値を見いだしうる観点を受け入れていくのです。
 ときには作者が描く人物や物語が、それ自体は美的でも善的でもない場合があります。それでも、根底において表現したいものは、美的、善的な価値の肯定にほかならないと私は思います。たとえば魯迅の『阿Q正伝』『狂人日記』『薬』、ロシアではゴーゴリの『外套』、ドストエフスキーの『罪と罰』『白痴』などがそうです。
 この問題は、これまでに多くの哲人、学者が論じてきました。それぞれの考え方があります。私の意見が必ずしも正しく、完璧であるわけではありません。
 池田 真摯な魂にとっては、生きることそのものが「希望」への道程です。「希望」への間断なき、限りなき前進です。
 現実のカオスに身を投じ、苦闘しながら、そこから自分自身の人生の軌跡を切り開いていく――その意味で、人間のあらゆる営み、人間の生活、人間が生きるということそれ自体が、価値創造への闘争だといえるでしょう。
 ペンをとるということも、その例外ではないはずです。ホイジンガは、言っています。
 「生は闘争である」
 「人間の精神生活の全語彙は、すべて闘争の領域において機能している」(『朝の影のなかに』堀越孝一訳、中央公論社)
 人生とは、そして「言葉」とは、「より良く生きる」「人生の価値を見いだす」ための闘争である、と。
 もちろん、エンターテインメントとしての読み物や、人生の現実や矛盾を、そのまま読者の前に投げ出してみせるような作品もあります。しかし万人を感動させうる文学とは、よしんば逆説的なかたちをとったにせよ、どこかで「生への希望」を語っているものではないかと私は思います。

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