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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 ペンによる大闘争――『立正安国…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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9  『随想録』にみられる勇気ある告白
 金庸 巴金先生は一九七九年から八六年まで、全部で五冊の『随想録』を著しました。そのなかで、かなりのページを割いて、"文化大革命中、自分は意志を堅く保つことができず、硬骨漢になりきれなかった"と自責しています。
 具体的には政治の圧力に屈し、「良心に背く」総括と批判を書き、不合理とわかっていながらも自分を告発し、さらには友人や他の文芸工作者をも告発してしまったのです。
 作者自身が自己を暴露し、自己を批判したことは、読者を驚かせ、動転させました。巴金先生のように"卑しくて恥ずべき行為をしでかした"と自分で自分を罵り、きっぱりと自責の念を表したことは、中国の歴史上、まったく先例がないからです。
 池田 『随想録』の一つである『探索集』には、こう記しておられますね。
 「一切のことをすべて『四人組』に押しつけることはできない。私自身も『四人組』の権威を認め、低頭してひざを屈し、甘んじて彼らのなすがままに任せた。だから、まさか自分に責任がないとも言えないだろう!まさか他の多くの人々に責任がないとも言えまい!」(『探索集』石上韶訳、筑摩書房)と。この炎の吐露こそ、偉大な人格を示しています。
 金庸 文革期間中は、当局の圧力のもと、殴打や残虐な刑罰に遭い、また家族にも被害が及ぶかもしれないと脅され、多くの人々が屈辱的な自己批判書を書きました。
 しかし巴金先生が『随想録』を書いたときは、いかなる圧力からも完全に自由でした。ですからこれは、正直で善良な一人の人間の、純粋な、真心からの懺悔なのです。これはおそらく、彼が生涯、敬服してやまぬフランスのルソーと深い関係があるのではないかと思います。
 池田 ルソーの『告白』が、すぐ想起されますね。
 金庸 私は、『随想録』を読み終えた後、巴金先生に対する敬服の念を増すとともに、「自分ならこのようにはできないだろう」と恥ずかしく思いました。
 私が、もし同じ環境のもとに身を置いたとしたら――私の行動はきっと、彼の半分にも及ばなかったでしょう。
 池田 そのお言葉そのものが、真摯な、そして勇気ある告白です。人間、正直であるということは、やさしいようで難しいことだと思いますが、言葉の本当の意味で「正直な」告白であると、私は受けとめました。
 ここで巴金氏は、わが「内なる悪」「内なる『四人組』」を見すえておられる。「内なる『四人組』」を見すえることが不十分であったがゆえに、「外なる『四人組』」の恫喝に、一時とはいえ、もろくも屈してしまった。邪な権力の在り方を、ある意味で認めてしまった。そのことを他人の責任にせず、「自分の問題として」、とらえ返しておられる。ここが大事です。
 T・S・エリオットは指摘します。
 「世俗的な改革家や革命家の運命が一段と安易のように私におもわれる一つの理由はこういうことなのです――主としてこれらの人々は世の悪を自分の外部にあるものと考えているということです。この場合、悪はまったく非個性的と考えられるので、機構を変革する以外に手はないということになります。あるいは悪が人間に具体化されているとしても、それはいつも他人の中に具体化されるのです」(『エリオット全集5』所収の中橋一夫訳「キリスト教社会の理念」中央公論社)
 悪は外にあると同時に、自らの内にもある――この点を凝視しない限り、あらゆる世直しや革命は、単なる権力の交代劇の域を出ることができないでしょう。
 金庸 文化大革命が始まるやいなや、私はすぐに新聞紙上に社説を発表し、文革を推進する中国共産党当局のデタラメぶりを厳しく糾弾しました。さらに『月刊明報』を創刊し、文革中に起こった、さまざまな不合理を、白日のもとにさらしていったのです。
 私たちは、江青に反対し、林彪に反対し、康生、陳伯達、柯慶施、張春橋、姚文元に反対し、郭沫若に反対し、毛沢東に反対しました。そして私たちは、彭徳懐、鄧拓、呉晗、廖沫沙、鄧小平、周恩来、李先念、劉伯承、陳毅、巴金、曹禺、老舎をほめたたえ、支持し、画家の黄冑、黄永玉たちを支持しました。
 池田 よく存じあげています。「明報」紙上における先生の舌鋒の鋭さは、今なお語り継がれています。
 金庸 これは私が、巴金先生よりも大胆で、正義感に富み、観点が正しかったことを意味するものではありません。単に私は香港にいた――つまり安全な場所にいたからにすぎないのです。中国共産党の極左派が、私を暗殺しようと企てたことがありましたが、ほどなく周恩来総理が命令をくだし、極左分子が香港で暴力行動に出ることを禁止したため、ことなきをえました。
 私たち香港在住の文化人が、大胆に直言して、はばかることがなかったのは、また政治的な迫害という大きな災いを免れることができたのは、比較的幸運だったというだけのことです。内地に身を置く同業種の人々よりも、勇敢であったとか、正しかったというわけでは決してありません。この点について私は、「己を知る」聡明さをわきまえるべきでしょう。
10  文学は人の魂を築き上げるもの
 池田 そうは言われますが、日本でも当時、文革の熱に浮かされた人は大勢います。むき出しの権力闘争を、思想や哲学の粉飾で飾り立て、文字どおり、人類史上空前の文化革命だと期待を寄せ、空疎な理想を振り回していた人たちがいます。
 そのなかで金庸先生は、はっきりと「これは権力闘争だ」と見抜かれた。炯眼というほかありません。
 ところで巴金氏に、「政治と文学」について質問したことがあります。
 巴金氏のお返事は、「文学は政治から離れることはできません。しかし、政治は、絶対に文学の代わりにはなりえない。文学は、人の魂を築き上げるものだからです」というものでした。
 「大災厄」の試練を受けた後での発言でした。政治に関わることを厭い、無関心を決め込んでも不思議ではない。憎悪や鬱憤がにじんでいても、おかしくはない。ところが、この断固たる発言です。
 前に触れたように、中国では「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」といいますが、まさに「文に生きる」真金の覚悟に触れた思いでした。
 金庸 巴金先生は語っています。
 「私が文章を書くのは、『敵と戦う』ためだ。すなわち、封建的で立ち遅れた伝統、人類の進歩を妨げ、人間性の発揚を阻む一切の不合理な制度、愛を破壊するすべてのもの……これらを打破するためだ」と。
 彼は常に、一つの崇高な目標をいだき続けてきました。もちろん「私が作品を書くのは、ただ生きていく糧を得るためであって、名を成したいと思ったからではない」という発言も見られますが。
 池田 若さですね。精神の若さ……。
 巴金氏が来日された際、講演会で、こんな「作家としての自画像」を語っておられたそうです。
 「来る日も来る夜も、あたかも私の魂を鞭打つかのように、私の内部では、情熱の炎が燃えさかる。大多数の人々の苦しみと、自分自身の苦しみが、一刻の休みもなく私のペンを走らせる。私の手は、押しとどめることのできない力で、紙の上を動く。それは、あたかも、多くの人々が私の手の中のペンを借りて、その苦しみを訴えているかのようだ。
 私は自分を忘れ、周囲のすべてを忘れ、物を書く機械と化してしまう。時にはイスの上にうずくまり、時には机の上に頭を伏せ、時には立ち上がってソファの前まで歩いていき、すぐまた腰をおろし、心を高ぶらせながら、ペンを走らせる」
 まるで巴金氏の日常、「ペンの戦士」の苦闘しゆく様子が、目の前に浮かんでくるような言葉ではありませんか。
 金庸 巴金先生の文章は、激情に満ちあふれています。彼自身、創作のモットーは「心を読者に捧げる」ことだと述べています。
 たしかに私たちは、巴金先生のどの文章からでも、彼の心に触れ、彼の豊饒な感情を受け取ることができます。古典主義の観点からいえば、含蓄に欠け、吐露しすぎるきらいがあると評されるのでしょうが。
 私自身は、おとなしく、あっさりした文章を好み、そのような創作を常々心がけています。
 しかし、かつて巴金先生の文章を読んで、涙を流したことがあります。少年のときは、『家』の鳴鳳めいほうの自殺や、瑞玉ずいぎょくの難産の末の死に、最近では巴金先生が蕭珊しょうさく夫人の逝去を描いたものを読んで泣きました。
 作者は、決して感情のおもむくままに任せているのではなく、哀悼と苦悩を深く心に刻みながらも、自身は涙をじっとこらえているのです。彼は創作のとき、涙を流さぬよう、じっとこらえて書いていますが、私はこれらを読むとき、とてもこらえることはできません。

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