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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 民衆の魂の覚醒――革命的ヒュー…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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7  魯迅のなかの「寂寞」と青年への希望
 池田 ところで魯迅の文筆活動をたどっていくと、初期の評論の一つである「摩羅詩力説」(一九○七年)以来、繰り返し「寂寞」という言葉に突き当たりますね。
 「寂寞」――どんなに叫んでも何一つ反響がない。静まりかえった"底無し沼"を相手にしているような感触は、生涯、魯迅にまとわりついて離れませんでした。
 もちろん、それは虚無感とも絶望感とも違うものでした。
 「人が寂寥を感じたとき、創作がうまれる。空漠を感じては創作はうまれない。愛するものがもう何もないからだ」(竹内好訳『魯迅文集4』所収の「小雑感」筑摩書房)と語っているように、それは彼にとっての創作の源泉でもあったのですね。
 金庸 そうです。「寂寞」とは、魯迅先生の文筆活動を理解するうえで、欠くことのできない重要な言葉です。
 池田 また魯迅は、「暗黒ともみあっていただけだ」と語ったこともあります。
 自身の文筆活動を振り返って「寂寞」といい、「暗黒」という――中国と中国人の未来を憂うる魯迅の苦悩は、それほど深かった。複雑だった。
 しかし、その苦悩こそ、むしろ「ペンの闘士」としての勲章なのかもしれません。魯迅が目指したものは、目には見えない「民衆の魂」の変革という、いまだ誰も登ったことのない峰でした。
 険しい峰を登る者にしか、山頂に吹く風の激しさはわかりません。彼の苦悩は、そのまま、彼の闘争の偉大さを物語る証明だったように私は思います。
 偉大な事業を成し遂げようとする者なら、一度は必ず、そうした孤独の試練に突き当たることでしょう。「寂寞」という言葉には、そんな魯迅の深い真情が込められていると思うのです。
 金庸 池田先生は、魯迅先生の「摩羅詩力説」に注目されています。独自のご見識に敬服します。といいますのも、中国で魯迅研究に従事する人はたいへん多いのですが、この論文に言及する人は少数だからです。
 「摩羅詩力説」が書かれたのは、『阿Q正伝』の一四年前です。魯迅先生の当時の作品は、その多くが西洋の知識や思想を紹介したものですが、これもその一つです。
 「摩羅」という言葉はインドに源を発する言葉で、「悪魔」を意味します。西洋でいうサタンです。魯迅先生は、この言葉を使って激しい反抗の思想、既存の秩序や制度を打ち破ろうとする精神を表しています。
 サタンとは、天国に背き、神に反抗する者のことですが、ここでは封建的な道徳や観念に反対し、全力で個性を発揮し、終始たゆむことなく、既成の制度や観念を拒絶するという意味に広げています。
 池田 魯迅が青年を愛したゆえんも、そこにあったのではないでしょうか。青年は本質的に、未来を志向するものです。また革新性をもっています。現状に甘んじることなく、常に未知の可能性へ挑戦していく。
 先ほどは「寂寞」という言葉について語り合いましたが、私は魯迅が、どこまでも青年を愛したという一点に、彼がいだいた希望の光を見ます。文豪は、ある種の文学青年たちの、まじめではあるが短兵急な非難、攻撃に、ときには絶望的になりながらも、最後まで若さのもつ可能性に信を繋ぎとめていました。
 あるときは本を買ってくれた青年が握り締めていたお金の温もりに、自分の本が青年の前途を誤らせはしないかと心配する魯迅。
 またあるときは権力の弾圧に散った青年のために、幾度となく紅涙したたる追悼の筆を執った魯迅。そして生前、最後の写真のなかでも、青年と語り合っていた魯迅。
 彼は言っています。
 「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(石一歌著、金子二郎・大原信一共訳『魯迅の生涯』東方書店)
 青年は希望です。その青年を愛し、育てようとした人に、根本的な「絶望」はない。そう思います。
8  評論「摩羅詩力説」と生命の力
 金庸 私たちも青年のために、もう少し、「摩羅詩力説」の内容について説明しておきましょう。
 魯迅先生は「摩羅詩力説」を通して、愛国の観念を深めるとともに、祖国を解放し、自由を勝ち取り、圧迫に反抗するための戦争、闘争を鼓吹しています。
 作品の冒頭は、古くからの文明国は、その多くが衰亡し、文化さえも二度と興隆することのなかったこと。かくしてインド、イスラエル、エジプト、イランといった古い国は、鳴りをひそめて没落していったという指摘から始まります。
 しかし、たとえ国家が軍事や政治の分野で失敗したとしても、その後に、もし偉大な文人が詩文を創作し、その国の民衆の魂を呼び覚ましたならば、プロシアやイギリスのように、復興の機会は十分にあると主張します。彼は、こうした詩人を「摩羅派詩人」と呼ぶのです。
 池田 激しい情熱をたぎらせた、憂民憂国の詩人たち、という意味ですね。
 金庸 いわゆる"聖人君子"たちは、そうした詩人たちを、まるで悪魔でも見るように、反逆者のごとく扱います。しかし実際は、こうした反逆の徒のペンによって、民族の活力や社会の良心が表現されるのです。
 魯迅先生が特に力を込めて推賞しているのが、イギリスの大詩人バイロンです。世間の耳目を驚かせる彼の言動が、論文のなかで紹介されています。
 池田 バイロンが「自由」を勝ち取るという己の理想を実現するために、ギリシャの解放戦争に身を投じる。そして結局、自分の生命を犠牲にする。
 私も、いかなる現状にも安住せずに、絶えず新しいもの、創造的なものを求めゆく彼の魂の革命性に、強い共感を覚えます。
 金庸 そして同じく「自由」を謳い上げたイギリスのシェリーの叙述に移り、彼の詩作である「プロメテウスの解縛」と、「チェンチ家」が紹介されます。
 チェンチという乙女の父親は暴虐無道で、むやみに民を惨殺していた。チェンチは民の害を除くために実の父親を殺します。父殺しは本来、大逆ですが、シェリーの詩は、この乙女をほめたたえています。
 魯迅先生は、さらにロシアの詩人プーシキン、レールモントフ、ポーランドのミツキェヴィチ、ハンガリーの詩人ペテーフィなどを紹介しています。
 ペテーフィは偉大な愛国詩人です。「生命は誠に貴重なものだが、愛情の価値はこれに勝る。しかし、もし自由のためならば、両者ともなげうつべし」(ペテーフィ著『自由と愛情』〈一八四七年作〉から翻訳)という有名な詩句の作者です。彼は帝政ロシアの圧政に抵抗して戦死しました。
 池田 バイロンにしろ、プーシキン、シェリーにしろ、私も若いころから愛読してきた詩人です。とても共感を覚えます。なかには残念ながら、日本ではあまり知られていない詩人もいますが。
 ともあれ魯迅が挙げた詩人たちは、理想に生き、信念に生き、「自分自身」に生きるという、「生命の光」にあふれています。澄み切ったロマンの青空があります。
 「苟に日に新たに、日日新たに、又日に新たなり」――私の大好きな言葉ですが、いずれの詩人からも、そんな清新な「魂の息吹」を感じてなりません。
9  魯迅に比肩しうる文人が日本にいたか
 金庸 魯迅先生は、この文章の結論を次のように述べています。
 「(こうした詩人たちは)いずれも剛毅不撓の精神をもち、誠真な心をいだき、大衆に媚び旧風俗習に追従することなく、雄々しき歌声をあげて祖国の人々の新生を促し、世界にその国の存在を大いならしめた。わが国において、これに比肩しうる詩人がいるであろうか」(『魯迅全集1』所収の北岡正子訳「摩羅詩力説」学習研究社)
 池田 魯迅にとって、そうした詩人たちの姿は、自らが進む「民衆覚醒」の道の先達と映ったことでしょう。彼の心の鼓動が聞こえてくるような一節です。
 金庸 この文章は古文で書かれていて、やや難しかったせいか、当時の青年たちは、あまり注意を向けませんでした。
 しかし、そこに描かれた、国を愛し、国の発展を願う思い。民衆を目覚めさせようという情熱。人々の足枷になっている風俗習慣に反対し、古く朽ち果てたものは取り払おうという思想は、その後、魯迅先生が一生を通じて行った言動と寸分も違いません。
 「わが中国において、これに比肩しうる詩人がいるであろうか」
 この問いかけは、池田先生が言われるように、まさしく魯迅先生が、「これぞわが道」と思い定めたゆえの言葉です。自分自身に課した言葉であり、自らを励ます言葉であったと思います。
 池田 私も問いかけてみたいと思います。
 「日本において、果たして魯迅に比肩しうる文人がいたであろうか」と。
 日本の近代の主だった文人のなかで、魯迅のように社会悪と真正面から戦った人がいたかといえば、おそらく皆無でしょう。
 もちろん中国と日本とでは、背負った時代背景や事情が違うかもしれません。
 十九世紀以来の帝国主義の流れのなかで、日本は「後発」の帝国主義国でした。そのため近代化の進展の度合いが比較的早かった。「先発」の帝国主義国に追いつけ、追い越せと、国民がこぞって先を急いだ。
 その近代化の欺瞞性や醜さを文人たちが鋭く感じとっていたことも事実です。
 夏目漱石が有名な『草枕』の冒頭で「……とかくに人の世は住みにくい……どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」と述べているように、文学や芸術の世界が、実社会への一つの異議申し立てを基盤にしていることは事実でしょう。
 しかし、日本と中国では「住みにくさ」の度合いが、まるで違う。ゆえに文人たちの問題意識も、魯迅のように社会の矛盾や悪に目を向け、真っ向からそれに立ち向かおうとするのではなく、個人の内面へ、あるいは魯迅が中国古典との断絶を叫んだのとは対蹠的に、古典の世界へと向かってしまいました。
 それは、見方によっては、ゆとりともいえるし、逆に、むしろある種の逃避といえます。いずれにせよ、そうした土壌からは、魯迅のような戦う文人が生まれなかったことだけは事実です。日本と中国の近代史を比較するなど、軽々にすべきではないし、もっともっと長いスパンで見なければ、その理非曲直は判断できないでしょう。しかし私は、この「果たして魯迅に比肩しうる文人がいたであろうか」という問いは、絶えず問い直されてよいと思っております。
 よく日本に「革命」はなかった――太平洋戦争後の民主化はもとよりのこと、あるいは明治維新にしても、みな外圧をきっかけにして起こったもので、民衆が自ら起こしたものではない、といわれますが、総じて民衆が自分たちで意識して、自発的に社会を変革するという経験がなかった。
 そうした精神的土壌からは、一人の「魯迅」も世に出ることはなかった。これは日本人の精神の骨格を考えるうえで、重い意味をもっているように思えてなりません。

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