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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 新たなる「文学の復興」を――『…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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9  『三銃士』に描かれる個性豊かな登場人物たち
 金庸 デュマにはもう一つ、『三銃士』という傑作があります。
 以前もご紹介しましたが、中国語訳には伍光建先生の非常に優れた翻訳があり、題名を『侠隠記』といいます。その訳文の素晴らしさは、今日ひもといても、まったく色あせていません。もし私が翻訳したとしても、とても伍先生のように訳せないだろうと、よく思います。(笑い)
 池田 翻訳といえば、牧口初代会長が今世紀初めに著した教育論が八年前に英訳され反響を呼びました。教育への関心は世界共通で、学説は時代を超えて読まれました。
 私の著書のことで恐縮ですが、トインビー博士との対談集(『二十一世紀への対話』)は、世界の二一言語に翻訳されています。各地で思いがけない人から"対談集を読みましたよ"と言っていただきます。翻訳という作業のありがたさを感じたものです。
 ともあれ、ある作品が、言葉を超え、国境を越えて親しまれていく。そのためには作品自体のできばえはもとより、「翻訳」によるところが大きいですね。「翻訳」は命です。
 金庸 続編である『続侠隠記』の翻訳は、残念ながら前作には及びません。伍先生は続編を訳すとき、とても忙しかったのかもしれません(笑い)。また前作が大成功したので、続編を訳すときは、こまやかな心配りを欠いてしまったのかもしれません。
 池田 先生は『三銃士』を高く評価しておられますね。それだけに続編への期待も大きかったし、その仕上がりが残念だったのでしょう。
 金庸 『侠隠記』の一書は、私の生涯にきわめて大きな影響を与えました。私が武侠小説を書いたのも、この作品から啓発を受けたからだといっても過言ではありません。
 フランスの騎士団名誉勲章を受章したとき、フランスの駐香港総領事が祝辞のなかで、私を「中国の大デュマ」とたたえてくださいました。
 もちろん、これは私にとって過分の賞賛です。でも、本当にうれしかった。なぜなら私が書いた小説は、ほかでもない、デュマの作風を慕って書いたものだからです。洋の東西を問わず、私が最も愛好する作家はデュマです。このことは十二、三歳のころから現在まで、ずっと変わりません。
 池田 『三銃士』の登場人物といえば、少年時代に手にした少年版「世界文学全集」にたしか「笑わぬアトス」に「紅色マントのポルトス」、それに「美男のアラミス」という呼び名で出てきたと思います。懐かしいですね。手に汗するような思いで一気に読んだことを覚えています。
 金庸 私が読んだのは『侠隠記』の題名でしたが、ふつう『三銃士』の中国語の題名は『三剣客』といいます。『三剣客』といっても、主人公はもう一人の剣客・ダルタニャンが務めていますので、実際は「四剣客」です。
 また題名では「銃士」となっていますし、銃も使用されていましたが、当時のフランスでは、ふつうはまだ剣を使っていた。この作品に描かれているシーンでも、ほとんど剣を使っており、ごく少数の場合のみ、銃が使われています。
 池田 内容面から言って、『三銃士』の魅力は、どこにあると思われますか。
 金庸 先ほども触れましたが、やはり、登場人物の性格が生き生きと描かれているところにあると思います。
 四人の若者のうち、池田先生なら、誰を推しますか。ダルタニャンですか、それともほかの若者ですか。(笑い)
 池田 どちらかというと私は、アトスに魅かれます。
 四人のなかで一番の年長者である彼については、こう描かれています。
 「(ダルタニャンは)このアトスにもっとも心をひかれていたのだ。その気稟と、ふだんは故意に閉じこもっているような蔭から時々さっと光り出す閃き、誰にでも親しみやすくむらのない性質、または辛辣味を帯びた陽気さ、もし極端な冷静の結果だと考えなければ猪突としか見えない勇気、そういうことごとに優れた性質が、ダルタニャンを尊敬以上にひきつけて、友情というより心から敬服しきっていたのである」(『三銃士』〈上〉生島遼一訳、岩波文庫)
 「知勇兼備」というか、多面的で何とも魅力ある人物ではありませんか。
 金庸 たしかに。たくさんの美点を兼ね備えた偉丈夫ですね。
 池田 たとえばアトスが、前途を憂慮するダルタニャンに対して、こう語る場面があります。
 「人生とは、そうした不愉快な故障や災難の数珠つなぎになったものだ。その数珠を、笑いながらつまぐって行くのが哲人だ」(前掲書〈下〉)
 まさに名セリフです。単に冒険を愛し、剣を愛する若者というだけではない。ここには人生の嵐や波浪を悠然と見下ろしながら、さっそうと頭を上げて進む、「哲人の風格」すら感じさせます。
 金庸 『三銃士』の作風は、西洋の小説というよりは、むしろ伝統的な中国の小説に似ています。
 ダルタニャンは頭の回転が早くて、気性が荒く、このうえない勇気の持ち主です。『三国志』や『水滸伝』の登場人物になぞらえると、趙子龍(常山)というところでしょうか。
 ポルトスは巨漢で力持ちですが、思考は少々鈍い。こちらは、張飛、李逵(小李広)に似ています。
 アトスは、先ほど先生が指摘されたように、人格が高尚で、屈託がなく、学者肌でおっとりしています。周瑜と花栄を合わせたような人物といえるでしょう。つまり、最も人々を心服させうる人物です。
 アラミスは、どこかいわくありげで、あれこれと悪だくみをはたらきます。これは『七侠五義』の智化(黒妖狐)に、やや似ているでしょうか。
 池田 アトスについて「周瑜と花栄」と言われましたが、むしろ『三国志』の関羽に似ているといっては、ほめすぎでしょうか。(笑い)
 金庸 なるほど。こうした四人が集まっては、酒を片手に高らかに歌い、馬を馳せては剣を抜く。そこにもう一人、桃か李のようにあでやかで、かつ毒蛇をもしのぐ悪辣さの持ち主である、美女ミレディーが加わります。彼女は、国王ルイ十三世の宮廷に織り込まれていきます。目立たないようにしたいと願っても、どうしてそんなことができるでしょうか。(笑い)
10  歴史と人物をみる眼を養う読書の醍醐味
 池田 『三銃士』の魅力は、いろんな個性がぶつかり合い、活劇を繰り広げていくところにあると思います。人生の劇も、同様でしょう。同じような個性の持ち主ばかりが集まったのでは、筋書きが読めてしまって、おもしろくもなんともありません。
 恩師は、よく言われていた。
 「人材を登用する場合は、組み合わせの妙というのがある。一たす一が二ではなく、三にも四にも五にもなる。そこが人間世界のおもしろさだ。同じような人間ばかりじゃおもしろくないし、大事も為せないぞ」と。
 金庸先生は人物描写の巧みさでも有名ですが、この点でも、あるいは『三銃士』の影響を受けたのでしょうか。
 金庸 『三銃士』から直接的に教わったわけではありません。私の場合はやはり、中国の古典小説から学んだものです。『三銃士』からは、むしろ歴史事実をどのように活用すればよいかを教わりました。
 池田 デュマと、古典小説。そのほかに、どうでしょうか。影響を受けた作品なり、作家は。
 金庸 もう一人の大切な師匠は、イギリスのスコットです。文学的な価値からいえば、一般にはスコットのほうがデュマよりも評判が上です。でもデュマの最も優れたいくつかの作品は、スコットの最も優れた作品と比べても、はるかに読みごたえがあります。
 池田 スコットの作品では『アイヴァンホー』を読んだことがありますが、やはりデュマの作品のほうが優れているように思います。これは、私の勝手な見方かもしれませんが。(笑い)
 金庸 池田先生は青年時代、文学の創作は詩作が中心でした。小説は書いておられませんでしたので、『三銃士』を読まれたときは、私とは違った感想をもたれたと思います。おそらく、四人の剣客が命令を受け取るや、全力を尽くし、毅然かつ不屈の精神で任務を遂行していく姿に、感銘を受けられたのではないでしょうか。
 池田 青年の「若さ」「健康」「気っ風のよさ」といった点では、やはり強い印象をもちました。
 それともう一つ、感銘を受けたという点から言えば、私はリシュリューという人物に興味をもちました。ご存じのとおり、近代フランスの礎を築いた大宰相です。
 権謀術数にたけた老練の政治家であり、複雑な性格の持ち主だった半面、"私"をかえりみることの少ない「無私の人」でもあった。特に人材を愛することにかけては、群を抜いていた。
 『三銃士』の最後のくだりでも、自分の配下であったミレディーを殺したダルタニャンを罰することなく、かえって銃士隊の副隊長に抜擢します。
 為政者としての度量の大きさ、敵味方を超えて人材を愛する心の深さでは、どこか『三国志』の曹操をほうふつさせますね。
 ともあれ登場人物と歴史上の人物を比較しながら読むことも、読書の醍醐味の一つですね。いい作品は、それだけ想像の翼を広げさせてくれるということでしょうか。

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