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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 友情、精神と人格、仏教との出合…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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8  「真理は仏教のなかにあった」
 金庸 中国の仏典は、おびただしい量があり、数万巻余りにも及びます。そこで簡単な入門書を数冊読んだのですが、そこには迷信と虚妄の要素が色濃く、真実の世界を認識するためのものではないと思いました。
 しかし、のちに「雑阿含経」「中阿含経」「長阿含経」に取り組み、何カ月も寝食を忘れ、研鑽に没頭し、一心に思索に打ち込んだのです。すると、突然ひらめくものがあったのです。「真理は仏教のなかにあったのだ。必ずや、そうにちがいない」と。
 ただ、漢訳仏典は難しすぎます。なかには一つの文字に、まったく異なる意味が含まれるなど、理解のしようがありませんでした。
 そこでロンドンのパーリ文学会から「原始仏典」の英訳本全巻を購入しました。ご存じのように「原始仏典」とは、仏典として最も早い時期のもので、仏教研究者が釈迦牟尼(釈尊)の説法に最も近いと考えた記録を指します。インド南部やスリランカ一帯に伝わっていたので、「南伝仏典」とも呼ばれます。大乗仏教学者や大乗各宗派が「小乗仏典」と貶称しているものです。
 池田 漢訳の仏典と英訳の仏典を比較対照しながら、研究されたのですね。
 金庸 はい。英訳仏典は容易に読み進めることができました。「南伝仏典」の内容は、簡明で飾り気がなく、人生の真実に十分、接近しており、私のような英語を母国語としない者でも、理解し、受け入れることに困難はありませんでした。
 私の信仰は、ここから生まれました。そして信じるようになりました。仏陀――パーリ語原文の意味は「覚者」ですが――は、たしかに人生における真実の道理を悟ったのだ。そして仏陀は、この道理――つまり「仏法」を世の人々に伝えることをわが使命にしたのだ、と。
 私は長い間の思索、考証、疑問の問い直し、研鑽の継続などの過程ののち、ついに心の底から全身全霊で、仏法を受け入れたのです。仏法は、心に巣くった大きな疑問を解決してくれました。「そうだったのか!ついにわかったぞ!」と、心は喜びで満ちあふれ、歓喜は尽きませんでした。このようにして苦しみが歓喜に変わるまでに、約一年の歳月が流れていました。
 池田 当時の先生の心情がそのまま伝わってくるようです。
 金庸 私は次に大乗経典を研鑽しました。たとえば「維摩詰経」「楞伽経」「般若経」などです。すると、ここでまた疑問が起こってきました。これらの仏典の内容が、「南伝仏典」とは異なり、神秘的で不可思議なことを誇張する叙述ばかりなのです。私はこれを受け入れ、信じるわけには到底いきませんでした。
 しかし『妙法蓮華経』(法華経)を読むにいたり、長い思索を繰り返した結果、ついにわかったのです。すなわち本来、大乗経典がいいたかったことはみな、この「妙法」だったということを。大乗経典は、知力の劣った、のみこみの悪い人々にも理解させ、帰依させるために、巧妙な方法を用いて仏法を宣揚し、説き明かしたものだったのです。
 『妙法蓮華経』で仏陀は、火宅、牛車、大雨など多様で身近な比喩を使って、世の人々に仏法を説き明かしています。人々を導くためには、「方便」を使う場合もある。仏陀が毒に当たって死にかけているふりをする場面もあります。それも、仏法を人々に広めるためなのです。
 池田 おっしゃるように『法華経』は、豊かな芸術性に満ちています。「永遠」があり、広々とした世界観、宇宙観があります。森羅万象の一切を包みゆく生命空間の広がりがあります。
 数々の譬えがちりばめられた経文の言葉は、映像性に富んでいる。あたかも荘厳な「生命の写真集」をひもとくかのように、一瞬一瞬の場面が目に浮かび、胸に迫ってきます。
 金庸 「妙法」。この二字の意味をわきまえるようになって、ようやく大乗経典を幻想で満たしている誇張にも反感をいだかなくなりました。大苦悩が大歓喜へと変わるのに、およそ二年の歳月がかかりました。
 池田 『法華経』は「円教」です。大乗経典の最高峰である『法華経』から見るならば、他の仏典は、それぞれ真理の一端を説いたものであり、一切経は、そのことごとくが、円教である『法華経』におさまります。あたかも大小さまざまな川の流れが、すべて海へ注いで大海となるごとく。
 金庸先生は先に小乗教を学ばれ、のちに大乗教を学ばれ、その結論として『法華経』に仏教の真髄を見いだされた。これこそ先生が、どれほど真剣に仏教を探究されてきたか、ということの証ではないでしょうか。
9  胸を打たれた恩師との出会い
 金庸 ありがとうございます。
 ここで池田先生に、一つお願いがあるのです。先生が創価学会に入会し、仏法に帰依された動機、経緯を語っていただけないでしょうか。
 私は小さいころ、祖母が唱える『般若波羅蜜多心経』や『妙法蓮華経』を聞きながら育ちましたが、まるまる六○年の歳月を経て、苦悩の探究と追跡の果てに、ようやく仏法の道に入ることができました。
 池田 私の場合は、日蓮大聖人の教えそのものというより、まず戸田城聖先生という人に出会った感動です。
 敗戦後で、昨日まで"鬼畜米英"などといっていた大人たちが、今日は欧米流の民主主義を賛美しだすという変わりようでした。私も多くの青年たちと同じく、大人たちへの不信、急激な価値観の転換へのとまどいのなかで、友人と読書会を行うなど、「確かなもの」を必死に求め続けていました。
 そのためもあってか、初対面の戸田先生に率直な質問をぶつけました。「正しい人生とは」「真の愛国者とは」「天皇制について」の三つです。
 恩師は無名の一青年に対して、何のハンディキャップもつけずに、誠実に答えてくださいました。また、その答えには曖昧さというものがなかった。少しの迷いもなかった。恩師の答えのすべてが理解できたわけではありませんでしたが、私は感動しました。胸を打たれました。いわば戸田先生の内側からほとばしる「生命の光」「人格の光」に打たれたのです。
 金庸 私も池田先生の小説『人間革命』を読みました。戸田先生との出会いの場面も、詳しく記されていますね。
 池田 もともと私は宗教というものが、あまり好きになれませんでした。また、それまで日蓮系の仏教と聞けば、少年時代によく見た光景――白装束を着て、団扇太鼓をたたきながら街を練り歩く人たち、といった光景が目に浮かんできた。正直にいって、あまり良いイメージはありませんでした。(笑い)
 金庸 では、創価学会に入会するまで、先生は、どのような「心の遍歴」をたどってこられたのでしょうか。
 池田 実際、入会してから「これは大変なところに入ってしまったな」とも思いましたが(笑い)、戸田先生という希有の師の魅力は、私をとらえて離さなかったのです。
 おそらく金庸先生も実感されていることではないかと思いますが、私たちの青年時代は、「人間とは何か」「人生、いかに生くべきか」といった問いについて、現代より真剣であったように思います。私も悩みました。ゆえに自分なりに学びました。
 最近、日本でも話題になった『ソフィーの世界』という本があります。ソフィーという少女が謎の人物の問いかけに導かれて、哲学の森に踏み入っていく――少女の目を道案内に、ともすれば難解になりがちな哲学の歴史の流れを、とてもわかりやすく学ばせてくれるということで、ベストセラーになりました。
 その探究の旅の出発点で、著者は、こう綴っています。
 「ソフィーは二つの封筒をあけた。
 『あなたはだれ?』
 『世界はどこからきた?』
 なんてくだらない質問!いったいこの二通の手紙はどこからきたのだろう?それこそ本当に謎だった。
 ソフィーをありふれた日常からひきさらい、突然、宇宙などという大問題をつきつけたのは、いったいだれなのだろう?」(ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』須田朗監修・池田香代子訳、日本放送出版協会)
 「自分は、誰だろう?」「世界は、宇宙は、どこからきたのか?」。やさしいようでいて、誰もわからない質問です。しかし、誰もわからないからといって、そのままにしておけるものでもない。
10  永遠のテーマ――「人間、人生とは何か」
 金庸 そうです。いくら時代が変化し、文明が進歩したからといって、解明できる問題ではありません。
 池田 特に「生および、その前」「死および、そのあと」という命題は、人間にとって普遍の、そして永遠のテーマです。
 この命題に真摯に取り組まずしては、人生は、およそ薄っぺらなものになってしまうでしょう。極端な話、「あとは野となれ、山となれ」――今現在を、ただおもしろおかしく暮らせばよい、ということにもなりかねません。
 金庸 先ほど先生と語り合った「拝金主義」も、そうした問いかけが失われたところに大きな原因があるといえるでしょう。
 池田 同感です。入会する前の私も、私なりに、この命題に何とか迫りたいと努めていました。哲学を学び、文学を読みあさったのも、そのためでした。ときには、エマソンの超絶主義の哲学にあこがれたこともありますし、あるときはベルクソンの「生の哲学」の書物を、むさぼるように読んだこともあります。
 「心の遍歴」といえば、そうした遍歴の果てに、私は仏法にめぐり合うべくして、めぐり合ったといえるでしょう。
 戸田先生に初めてお会いしたとき、その生命から放射される強烈な光線の前に、今まで魅力を感じてきたエマソンやベルクソンのイメージも、みるみる春の霞のような淡い輪郭と化していくのを、いかんともなしえませんでした。
 私は「確かなもの」にめぐり合うことのできた感動を、即興の詩に託して先生に聞いていただきました。
 「旅びとよ/いづこより来り/いづこへ往かんとするか……」
 人間とは何か。人間は「いづこより」来るのか。そして「いづこへ」往かんとするのか――いつも脳裏から離れないテーマだったからこそ、こうした詩が即座に浮かんできたのでしょう。以来、私の求道の旅は始まりました。この旅路に終着点はありません。

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