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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 人生幾春秋――若き日の鍛えと人…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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9  恩師・戸田先生のもと若き編集者として
 金庸 池田先生は、少年時代に第二次世界大戦に遭遇し、教育を受ける機会を大きく奪われました。しかし創価学会に入会されてのち、戸田先生の薫陶を受けられ、学問は飛躍的に進歩された。
 また、それと並行して少年雑誌の編集を担当されたとうかがっています。仕事上の必要から、困難を乗り越えて勉学に励まれ、多くの知識を吸収されたことと思います。
 池田 恩師の出版社で初めて任された仕事が、『冒険少年』(のち『少年日本』と改題)という少年雑誌の編集でした。二十一歳のときです。
 プランから原稿依頼、編集作業から校正まで、一人でやりました。予定していた原稿が間に合わず、雑誌に「穴」があきそうなときは、自分で書きました。要するに必要に迫られたわけですが、本格的に文章に取り組みはじめたのは、このときです。また当時、戸田先生に厳しく文章を鍛えていただいた経験は、私の生涯の財産です。
 とにかく子供たちのために少しでも良い作品を、と思って、ほうぼうの作家を訪ねましたが、作家というものはやはり一風変わっていて締切もなかなか守ってもらえない(笑い)。"この忙しいのに、何度、足を運ばせれば気がすむのか"と、腹立たしくなることもありました。(大笑い)
 それに当時は夜学にも通っていました。忙しい毎日でしたが、自分の心が躍動していなければ、子供たちが感動できる雑誌はつくれません。ですから本だけは読んだつもりです。
 金庸 私も、池田先生と似た経験があります。新聞の芸能欄の編集に携わったときのことです。企画や編集のほかに、自分でも映画や演劇に関する記事を書きました。
 もともと映画芸術についてはまったくの門外漢だったのですが、仕事の必要から毎日、とりつかれたように映画と芸術の理論書に目を通し、わずかの期間で、この方面の「セミプロ」になりました。(笑い)
 実践経験はないのですが、理論面での知識や、主な演劇、映画に関する理解度はすでに映画、演劇にじかに携わる人々を超えていました。これ以後、「即学び、即用いる」が、私の仕事の取り組み方になったのです。
 私をよく知らない人は、私の学問は博くて深く、きわめて幅広い知識をもっていると思い込んでいます。しかし実際の私のやり方は、「必要があればただちに学ぶ」「わからないことをわかるようにする」、自分自身を「素人から玄人に変身させる」ということです。
 池田 まさに「必要は成功の母」です。
 金庸 ところで、先ほど私の読書体験について聞いていただきましたが、池田先生は青年時代、どんな本を読まれたのか、今度は先生の学問と読書の経験についてお話しいただけないでしょうか。
 池田 恩師にお会いする前は、主に文学と哲学、詩にあこがれ、独学で挑戦していました。戦争直後で本もなく、同世代の友と読書サークルをつくって本の貸し借りなどもしながら、手当たりしだいに読みました。
 当時の愛読書を思いつくままに挙げれば、日本では国木田独歩、徳冨蘆花、石川啄木、吉田絃二郎。また西田幾多郎、三木清など。西洋ではユゴー、ゲーテ、ベルクソン、エマソンなどでしょうか。トルストイは、ほぼ全作品を読みましたし、ホイットマンの詩にも大きな影響を受けました。
 今振り返ってみれば、やはり体が弱かったためでしょうか、「人間とは何か」「人生いかに生くべきか」、さらに「生命とは何か」というテーマに強く心ひかれたようです。
 それも否定的、悲観的なものより、宇宙的生命観というか、人間の「生」を大きく肯定しゆくもの、より人間の可能性を信ずるものへと向かっていたように思います。
 金庸 そうした読書経験が、先生の今日に大きな影響を及ぼしているのですね。
 池田 善くも悪しくも、かもしれません。(笑い)
 ハーバード大学で初めて講演した際(一九九一年九月)、ホイットマン、エマソン、ソローの「アメリカ・ルネサンスの旗手」について触れたのですが、講評してくださったハービー・コックス教授が言われていました。"池田氏には今後、できればメルヴィルなども論じてほしい"と。
 痛いところを突かれました(笑い)。作家のもっているものは、処女作のうちにすべてある、といわれますが、人間は若い時期に学んだものが一生を決定づけるのかもしれません。
10  若き日の志望、青春の蹉跌
 池田 青年時代のエピソードを種々うかがいましたが、先生は、もともと何になりたかったのですか。やはり文筆家ですか。
 金庸 いえ、若いころは外交官になるという強い願いがありました。ですから(当時、中華民国の首都であった)重慶に行き、大学に進みました。大学は中央政治大学の外交学部です。
 その後、当時の国民党がもぐりこませた学生と衝突し、退学させられました。戦後は上海に行き、東呉学院で国際法を学び、同じ学科で引き続き研究を続けました。
 一九五○年に北京へ行き、外交部(日本の外務省にあたる)の仕事に就こうとしました。これは当時の外交部顧問だった梅汝放先生の招きによるものです。梅先生は国際法学家で、かつて日本の戦犯を裁いた極東国際軍事裁判の司法官の一人です。
 (地主の家という)私の出身と家庭の背景から、当時、外交部の実質的責任者であった喬冠華先生は、私に「まず人民外交学会で、ある一定期間、仕事をし、それから外交部に転入するように」と主張されました。この間のいきさつについては、一部では誤って伝えられているようですが、喬先生は、あくまでも好意で言ってくださったのです。
 しかし私は、うれしいとは思いませんでした。当時の人民外交学会は、国際的な宣伝や外国の賓客の接待といった事務しかやっていないと思ったからです。
 そこで、以前に携わっていた「大公報」の仕事に戻ることにしました。
 池田 外交官への夢が断たれたのは、あるいは青春の一つの蹉跌だったかもしれません。しかし、お国の故事にあるごとく、「人生は万事、塞翁が馬(人生における幸不幸は一概には測れないことのたとえ)」です。
 ゴルバチョフ氏が語ってくれました。氏は大学卒業後の進路として首都モスクワのソ連検察庁への就職を希望し、内定していた。ところが突然、採用を取り消され、故郷に戻ることになってしまった。氏は、たいへんなショックを受けたといいます。将来への希望が一瞬にして崩れさった、と。
 しかし、そのとき、当初の希望どおりに首都の桧舞台に立っていたとしたら――その後の氏の人生は大きく変わっていたはずです。
 金庸先生の場合も、同じではないでしょうか。青春の蹉跌を超えて先生は今日、アジアの動向を一望し、香港と中国の将来に多大な影響を及ぼす存在となられた。先生の若き日の夢は、より壮大なかたちで実現されたといってよいのではないでしょうか。
 金庸 今から思えば、外交官への夢は破れたとはいえ、かえって良かったと言えないこともありません。というのは、私のクラスメートの多くは、のちに国民党政府の大使や総領事といった高位の官職に就きました。しかし、一人また一人と、その職務を失っていき、失意のなか閑居するという境遇に陥ってしまいました。自分の生活すら思うに任せない状態です。
 「香港基本法」の起草委員、またその後の政府準備委員を務める間、私は中華人民共和国外交部の多くの高級官僚と一緒に仕事をし、あるいは交渉をもちました。しかし、現在では、彼らの立場をうらやましいとは思いません。
 もしも私の小説家、言論人、研究者としての経歴を、彼らの経歴と交換する可能性があったとしても、私は絶対に拒否するでしょう。(笑い)
 でも池田先生、私は現在の成功が、彼らよりも大きいなどと言うつもりは、決してありません。
 池田 謙虚なお心は、よくわかっております。
 金庸 私が言いたいのは、私自身がこの人生で自由自在、心のおもむくままに生きているということです。上司の命令や官職の束縛を受ける必要がなく、行動は自由で、言論も好きなことを言って過ごし、自由に生きて人生を大いに謳歌しているということです。
 新聞紙上で評論を発表し、民族の主権と尊厳の維持、そして世界平和を訴えることは、外交官となって貢献するよりも、より大きな意義のあることだと思います。
 外交官の行動は、各種の厳格な規則に束縛されるものです。私のように独立独歩、他人が何を言おうと自分のやり方でやる自由な性格には、まったく合わないのです(笑い)。もし私が外交官になっていたら、おそらく一生、束縛されているような気がして、幸福や喜びを今ほど感じることはできなかったでしょう。

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