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日蓮大聖人・池田大作

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4 二十一世紀の国家観――人類こそわが…  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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9  人間に正義と美を教える「文学」の可能性
 池田 こうした宗教観ゆえに、マルティは、人間を卑小化する、ひからびた既成の「宗教」に対置して、人間に正義と美を教える「文学」の可能性に大きな期待を寄せておりました。
 理性と気品とを巧みに調和させるそのような文学は、「驚異と詩に渇き、それを求める人類」が「古い信仰の空しさと無力さ」を感じながら待ちわびている新たな「宗教」――いわば真の宗教性を実現するにちがいない。彼はこう信じてやまなかったようです。
 ある発言をとがめられ、ローマ法王から破門されたマックグレーン神父の最終演説に対して、マルティが「自由に奉仕する者は教会に奉仕できないのでしょうか」と問いかける一文は、マルティの宗教や文学のあるべき姿に対する考え方を、明確に浮かび上がらせています。
 「宗教は、人間が外界に予感する一種の詩であり、到来するであろう世界の詩です。そして、それこそ、宗教のもっとも純粋で永遠たる側面なのです。
 多くの夢と翼で、さまざまな世界が結ばれ、その世界は、まるで翼で結ばれた乙女たちが舞うように、空間で輪を描きます。だから宗教は死なないのです。むしろ広がり、さらに浄化され、偉大さを増し、自然の真理と響きあうなかで、最終的には、広大な詩へと転じていくのです」と。
 ヴィティエール 未来の宗教への導き手ともいうべき文学に関しては、私はそうした役割を担う文学と、偶像化された文学とを、区別して考えなければと思います。
 つまり、教会やドグマとは無関係に内なる宗教性を志向しゆく文学と、十九世紀末にフランスでつくり出された文学至上主義(文学の偶像化)や芸術至上主義(芸術の偶像化)とを区別する、ということです。高踏派や象徴主義、デカダン派、芸術のダンディズム(おしゃれとして身につけること)や宗教のディレッタント(趣味として愛好すること)がこのような偶像化に貢献してきました。
 マルティは、それらの芸術的成果のいくつかを評価したり、吸収したりしていますが、本質的にはマルティとなんら関係ありません。
 彼にとっての文学、また彼のなかに脈打っていた文学は、
 このうえなく強力かつ甘美なものであり、たえず人生に奉仕するものだったのです。祖国や他人のために、そしてすでにお話ししてきましたように、人類全体、「人間のあらゆる魂」に仕えるものだったのです。
 池田 何のための文学か――マルティが巧まずして体現していたような文学は、現代では、むしろ西洋以外のところで継承されているのではないでしょうか。
 私の経験で言えば、たとえば、現代中国文学界の長老である巴金氏などがそれです。
 私は、巴金氏とは、つごう四回ほどお会いしていますが、そのつど強く印象づけられたのは、ご高齢にもかかわらず衰えを感じさせない創作意欲、敵と戦う闘志、そして徹底して人民に奉仕していこうという姿勢でした。氏は、私との語らいで、談たまたま“政治と文学”におよんだとき、「文学は政治から離れることはできません。しかし、政治は、絶対に文学の代わりにはなりえない。文学は、人の魂を築き上げるものだからです」(『旭日の世紀を求めて』潮出版社)と語っておられました。
 また、氏が来日したときの講演会で語った“作家としての自画像”は、次のようなものでした。
 「来る日も来る夜も、あたかも私の魂を鞭打つかのように、私の内部では、情熱の炎が燃えさかる。大多数の人々の苦しみと、自分自身の苦しみが、一刻の休みもなく私のペンを走らせる。私の手は、押しとどめることのできない力で、紙の上を動く。それは、あたかも、多くの人々が私の手の中のペンを借りて、その苦しみを訴えているようだ」(同前)と。
 ここには、
 明らかにマルティと魂を共有しあう“使徒”的人間像が浮き彫りにされています。
10  人々を救うための文学
 ヴィティエール 私は、中国のことはよく知りませんが、おっしゃることはよく理解できます。
 もし、お許しいただけるならば、ここで私の個人的な見解を述べさせていただきたく思います。
 おそらく東洋では、とりわけ日本においては、文学は西洋におけるように病的で毒されているようなものではないのでしょうが、しかし、現代西洋文学がマルティの示唆した方向に進むことは、ほとんど期待できないことは確かです。当時は、ユゴーやエマーソンやトルストイなどの、世界的に偉大な作家・思想家たちが、まだ生きていましたけれども。
 現代においては“使徒”としての文学など、もはや存在しないのです。
 マルティの思想を普及させていくうえで、もっとも大きな障害の一つは、まさしく彼の“使徒”としての雰囲気なのです。それはマルティの大きな魅力なのですが、今日の多くの読者を遠ざける要因となっているのです。
 マルティは職業作家として生きることに、あまり関心をいだかなかったため、(もっぱら教師たちによって研究されるためだけでなく)人々を救うために書いたマルティの文学が息づくための“時”が過ぎてしまったのか、あるいは、まだその“時”がめぐってきていないのかもしれません。
 私は、その“時”がまだめぐってきていないものと信じ、池田博士の学識豊かな熱情と、決して手放すことのない熱い希望に勇気づけられて、あなたとの対話を行うという名誉を、お受けすることとしたのです。
 池田 光栄です。
 もう一人、私の友人を紹介させてください。キルギス(共和国)の出身で旧ソ連邦を代表する作家の一人であるチンギス・アイトマートフ氏です。ご存じのとおり、氏の作品は、現代のヨーロッパやアメリカ合衆国では、ほとんど見られなくなった、コズミック(宇宙的)な世界観を濃厚におびています。
 ゴルバチョフ元大統領の側近として、ペレストロイカ(改革)に挺身していた氏にとって、一九九一年のクーデターはたいへんなショックであった。そして、その後のソ連の混乱、荒廃は氏の文学にかける情熱にも、冷水を浴びせかけるものであった。
 当時、彼は文学の力、生命力を信じられなくなった苦しみを切々とつづった長文の書簡を私に寄せてくれました。
 それに対し、私も私なりに、自分の思いのたけを返信にしたためました。その最後の部分を引用させていただきたいと思います。やや、長文になりますが……。
 「『私は今、文学の生命力が感じられないことで苦しんでいます』とのあなたの言葉は、優れた文学者の発言だけに、また私の親しい友人の表白であるだけに、他人事とは思えません。日本においても言えることですが、グラスノスチ(情報公開)による言葉や情報の洪水は、それに反比例するかのように、言葉の内実の希薄化をもたらすことは否めません。厳しい言論統制下にあっては、限定されたものであっても、真実の言葉を求める渇きにも似た希求がありましたが、ちょうど、その反対の現象が現れるようです。
 しかし、それも一時のことでしょう。私は、
 歴史の淘汰作用を信じております。もちろん“外野席”からの発言ではなく、みずからその流れの中で、流れを作る作業にたずさわりながら、そう申し上げたい。本年(一九九一年)六月、あのヨーロッパの“緑の心臓”と呼ばれる美しいルクセンブルクで語り合ったさい、あなたはおっしゃったではありませんか。――ヴィクトル・ユゴーを領袖とするロマン主義を古いと言う人がいるが、私は、そうは思わない。現代にロマン主義をよみがえらせる作業は、とても大切なこと、と。
 今こそ、決してあせらずに、その共同作業を始めましょう。この対談集も、もちろん、その一環です。ユゴーのごとく、善を語り、正義を語り、友情や愛を語るに、なんの臆することがありましょうか。マルクスの評判は、今や地に墜ちたかの感さえありますが、少なくとも、私は、彼が、大著『資本論』の冒頭に、次のダンテの言葉を引いた心意気は、壮とするものです。『汝の道をゆけ、世人をして語るにまかせよ』と」(『大いなる魂の詩』。本全集第15巻収録)
 ヴィティエール 博士! 私もあなたと同じく「まだその“時”がめぐってきていない」と確信するがゆえに、また、その“時”を招来せんがために、僣越ですが、アイトマートフ氏に送ったエールを、あなたにも送らせていただきたいのです。

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