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日蓮大聖人・池田大作

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1 流罪の讃歌――千年先を見つめる眼光…  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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14  革命家の自覚と宿命
 ヴィティエール その一方で、ホセ・マルティが自国の状況および自分自身について自覚して以来――それはかなり早期に意識したことですが――彼は、彼自身の家族のなかでさえ、まるで亡命者のような生活をしていたのです。
 ゆえに思春期には、中学校の校長であり恩師であったラファエル・マリア・デ・メンディーベ先生の“精神上の家庭”を必要としたのでしょう。
 池田 日本の読者のために、マルティの家庭環境に簡単にふれさせていただければ、マルティは一八五三年一月二十八日、ハバナの港近くの貧しい一家の長男として生まれましたね。七人の妹がいました。
 まじめで寡黙な父ドン・マリアノ・マルティは、スペイン軍の軍曹として、植民地のキューバにやってきた。が、マルティが二歳のときに軍を退役。その後は失業も重なり、気丈な母ドーニャ・レオノール・ペレスが懸命に切り盛りするものの、一家は暗い日々が続きました。
 父親は、小学生であったマルティに、学校をやめて働くよう望みます。実際、マルティ少年は小学校の卒業を前に学校をやめ、食料品店の店員として働いています。
 両親は善良な庶民でありましたが、
 ともにスペイン人だったこともあり、キューバへの植民地統治をどちらかといえば肯定していました。
 ですから、マルティが貪るように本を読み、知識を吸収して、解放思想へとかたむいていくことに、二人とも不安と恐れをいだいていました。
 ヴィティエール そのとおりです。父親とは親子としての関係は親密でしたが、政治囚という悲惨な経験をして以来、ある程度、深刻な間柄となっていきます。
 母親との関係も同様です。母親は最後まで、息子を革命家としての苦難に満ちた流浪の人生のなかに埋没させたくないと思い続けていました。
 革命家の人生というものは、宿命的に永遠の流浪の生活とならざるをえません。自分の人生を、犠牲者としてではなく解放者として――まず第一に自分自身の、そして最終的には自分の民族の解放者として――選択したときのみ、その人生は完璧な義務と自己犠牲への心からの讃歌に包まれていくのです。
 マルティにとって、その讃歌は、憎悪に対する勝利、隣人への愛、全人類の絶対的正義に対する絶大な信頼とともに、収容所の恐怖のなかで奏で始められたのです。
15  青年は大志を抱き、大きく未来へ羽ばたけ
 池田 私は、一部の前衛革命家のように、“小市民”を決して軽蔑しませんし、小市民的幸福を犠牲にした革命などというものも、ありえないと思っております。
 そのうえで申し上げれば、やはりマルティのような人の人生は、小市民の枠に収まりきらずに、おっしゃるとおり「宿命的に永遠の流浪の生活とならざるをえない」ものなのでしょう。
 私も若き日、父母のもとを離れて下宿し、民衆運動に奔走していたころ、日蓮大聖人の「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり」との御文を、当時の心情を託して日記に記しました。
 また、私が、創価学会の第三代会長に就任した日(一九六〇年五月三日)の夜、帰宅した私を待っていた妻は「きょうは、わが家のお葬式と思っています」とけなげに言いきってくれました。毅然としていました。
 いずれにせよ、たしかに小市民的な小さな幸福も大切であるが、それらを超えて、時代と切り結び、大きく人類や世界の動向、運命とかかわっていくことを忘れては、あまりにも寂しいと言わざるをえません。
 とくに若い人たちは、大志を抱いて、大きく未来へと羽ばたいていってほしいと願ってやみません。
 ヴィティエール まったく同感です。
 エセキエル・マルティネス・エストラダは著書『革命家マルティ』(一九六七年)の中で、スペイン、メキシコ、グアテマラ、ベネズエラ、アメリカと渡り歩いたマルティの人生行路を、神話の英雄の運命の構造、あるいは典型と解釈しています。
 マルティの一個人としての生涯が一国の歴史と合致するにいたり、最終的には彼自身が自認するように“生きた模範”になるのです。このような意味で、マルティの投獄およびそれに引き続く流刑は、キューバを出国する以前から予想されたものでした。
 この“英雄の模範”の生き方は、スペイン支配下の祖国へ戦闘員として帰国した“大いなる幸せ”の後も続きました。また彼の死をもっても終わることなく、明るい展望を開く誓いのごとくに、キューバ人たちの歴史的創造力を揺さぶり続けたのです。
 池田 たしかに、“行蔵(出処進退)”の総体を神話の英雄に擬したくなるようなスケールの人物が、稀にいるものです。
 革命家や政治家といっても、最近はずいぶんと小粒になってしまいましたが、戦後の歴史を振り返ってみれば、フランスのド・ゴール大統領などは、好き嫌いは別にして、その稀な例外の一人ではなかったでしょうか。
 私は、フランスの作家アンドレ・マルロー氏と対談集を発刊しました(『人間革命と人間の条件』。本全集第4巻収録)。周知のように、彼はド・ゴールと肝胆相照らし、長い間、側近であり続けた人です。
 マルロー氏は、ド・ゴールとの思い出を回想しながら、次のような、いかにもド・ゴールの面目を躍如とさせる発言を伝えています。
 「一度だって、いいかね、ただの一度だって! 私に対抗して、フランスを代表した男、フランスを引受けた男を、私は見たことはない」(『倒された樫の木』新庄嘉章訳、新潮選書)と。
 傲岸なまでの自信に裏打ちされた言葉ですが、そう言いきることのできる人、言ってもあながち奇異には感じさせない、フランスという国家の命運を一身に担い立つアトラスのようなスケールの大きさ、重厚さを感じさせる人物であったことは事実でしょう。
 マルロー氏は「彼は、(=妻の)イヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚する前に、フランスと結婚したのである」(同前)と語っております。
 そうした人物の人格を支えるものは、
 本当の意味での「責任感」だと思います。
 一身の栄達などとはまったく次元を異にした偉大な使命の道に、心を焦がし、身を尽くし、一点として悔いなき一日一日を送っている「責任感の人」にして初めて、いっさいを「引き受ける」と言いきることが可能なのです。
 私は、ホセ・マルティとキューバとの間には、ド・ゴールとフランスの間がそうであったと同じような、だれびとも切り離せぬ“磁力”が働いていたように思えてなりません。

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