Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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富の蓄積と僧侶の堕落  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
3  池田 この富の問題と、先に取り上げた民衆との結びつきが薄かったことを示すものとして、たとえば中村元氏はマウリア王朝時代の遺品を検討して、仏塔に寄進された品物は大半が資産家(大地主・豪商)、商人、手工業者によるもので、農民からのものは皆無であることを指摘しています。
 また岩本裕氏は比丘の名前が多く出てくる三つの経典を取り上げ、それらの名前を出身階層別に分類し、平均するとバラモン(祭司)出身が五七パーセント、クシャトリア(王族・武人)出身が二五パーセント、ヴァイシャ(庶民)出身が一八パーセント、シュードラ(隷民)出身がゼロという数字を挙げています。これを見ると、当時の支配階級であるバラモンとクシャトリアの出身が八二パーセントを占めており、これはこれらの経典の特殊例というより、当時の比丘の構成の傾向を示していると考えるべきであると思います。(『仏教入門』中公新書、参照)
 すなわち、このことから出てくる結論は、当時の仏教教団は、都市を中心に、支配階級の知識人を主な支持者として成立していたということです。イスラム教徒の侵略によって、ほぼ完全にインドから仏教が消え去った一つの理由は、この点にあるのではないかと考えます。侵略者が支配するのはまず都市であり、都市を中心として農村を従属させます。従属させられた農村部は、支配者との関係を主に経済的な側面に限定させて、内面まで干渉されることを避けえたわけですが、支配権の中心たる都市部は、あらゆる面で一新され、仏教は滅びていったのであろうと思われます。
 このような意味から私は、思想というものには革新性が必要ですが、それが真に民衆のなかに息づき、長く生きぬくためには、土着性ということがたいへんに重要な問題になってくると考えています。
4  カラン・シン 仏教が都市部を中心としていたために、異民族による征服に対してほとんど無力であったことは、私も先にふれたとおりです。あなたは、比丘の階層別構成に関する岩本教授の研究を引用されていますが、これはまことに啓発的な研究です。
 仏教はもともとバラモンの支配に対する反対運動として始まったものです。にもかかわらず、教授の示す数字によれば、当時の比丘のなんと六〇パーセント近くがバラモンの出であったことがわかります。これは、仏教の基盤の大部分を都市の知識階級が占めるようになっていたことを明示するものです。
 またヒンドゥー教では宗教教師が大衆のなかに住んでいたのに対して、仏教では比丘を僧院に隔離するのが伝統となっていました。彼らは民衆への奉仕を命じられてはいましたが、やがては社会にとってお荷物的な存在になっていったようです。時折やってくる托鉢僧に食物をあげる分には、どうということはありません。しかし、生産活動に直接かかわっていない何千人という比丘を常時養わなければならないとなると、話はまったく別になるのです。
 いかなる哲学・宗教でもそれが存続し、しかも活力を保ち続けるには、絶えまない改革と刷新が行われることが必須条件です。さらにあなたのいわれるように、大衆の心の中に深く根を張っていなければなりません。これを実現する唯一の道は、精神的に啓発され、智慧と慈悲とを兼備した人々が陸続と現れること、そして彼らが信仰によって得た内面的な力により、その宗教の永遠の諸真理を、変転する社会・経済の道徳的習慣に照らして再発見し解釈し直すことができることです。
 もちろんインド仏教は、仏滅後も偉大な聖賢を生みだしました。しかしその基盤が、階層別構成から見ても、また地理的にも限定されていたため、イスラム教徒による大虐殺に耐えられるだけの力はもっていなかったのです。

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