Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

神話から哲学への推移  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
3  世界中の人々は、四種類に大別することができます。
 まずバラモン(指導者階級)がおります。教師法律家・専門職等がそれにあたります。次にクシャトリア(王族)がおります。支配者政治家等がそれです。それからヴァイシャ(庶民)つまり銀行業者農民等がおります。そして最後に使用人・肉体労働者等のシュードラ(隷民)がおります。
 四姓が理念としてもっているはずの資質は、道徳的・知的な性格のものであるということも注目すべき点です。この点でギーターはブッダと意見が一致します。ブッダも「人をバラモンにするのはむき出しの頭髪でもなく、血統でもなく、生まれでもない。真理と正義を具えた人がバラモンなのである」(『法句経』)と述べているからです。
 この点に関する私の所見を終わるにあたって、私はどうしてもヒンドゥー哲学を理解するうえでまことに重要な、グナという概念にふれざるをえません。
 三種のグナ、つまりサットヴァ、ラジャス、タマスがあり、それぞれ純質翳質と訳せましょう。インド哲学の体系においては、これら三種のグナはあらゆる現象にかかわりあっています。そして解脱(モークシャ)の道は、タマスからラジャスへと移行し、それからサットヴァにいたり、最終的にはグナを完全に超越することにあるのです。理想的な人間のことをギーターではグナティータ、つまりグナを超越した者、と呼んでいます。
 カースト制度においては、私心なく純粋で、すべての事象に同一の真理を見る理想的なバラモンはサットヴァ・グナを表象します。なにものをも恐れない
 忍耐強い王族はラジャス・グナを表します。富の創造にたずさわる庶民は欲性、つまりラジャスとタマスが混じりあって、つねに下方へ向かって流れているものを象徴します。人に仕えるために生まれてくる隷民はタマス、すなわちすべての人の道具となる肉体を表象します。
 一個の人間においても、身体のさまざまな器官がこの四段階の秩序を表していると考えることができましょう。知力を表象する頭部はバラモン的要素に、闘争のための器官である両腕は王族的要素に、食物の摂取と配分に常時かかわっている胃は庶民的要素に、つねに身体に仕え、他のあらゆる器官を支えている両脚は隷民的要素に該当するといってよいでしょう。
 ブッダは、その説教の対象を特定のカーストに限定しませんでした。彼が伝統的なウパニシャッドの教師たちと異なっていたのは、たぶんこの点にあったのでしょう。しかし、仏教僧団(サンガ)にカーストがなかったというならば、ヒンドゥー教の遊行托鉢僧団にもやはりカーストがなかったといえます。ヒンドゥー教徒は、僧団の黄衣をいったん身にまとうと、階級的な背景をかなぐり捨てます。そして、もはやカーストを示す称号で呼びかけられることは一切なくなるのです。
 松の林を吹き抜け、すべてを豊かにし、しかも、なにものにも縛りつけられない清浄な山の空気のように、覚者は人の群れの中を動きまわります。彼の住む所が混雑した都会であろうと、あるいは寂しい山の頂であろうと、彼はつねに“家なき人”なのです。なぜなら、たとえ社会的な義務を果たしても、覚者は家族にも、カーストにも、種族にも、宗教にも、一切縛られることがないからです。
4  池田 ただ、教団内部のモラルや、形而上的な解釈といった次元を超えて、宗教が現実に果たしている社会的機能の問題を等閑に付すわけにはいかないと思います。その意味からカースト制とヒンドゥーとの関連性は、やはり否定できない事実でしょう。
 この点、日蓮大聖人の仏法は、仏教史上においても画期的な意義をもっているといえます。すなわち、みずからの出生に関する「旃陀羅せんだらが家より出たり」、「民の家より出でて」等の宣言にも象徴されるように、そこには徹底した人間尊重の理念と、民衆を抑圧する社会的権威の否定が貫かれているからです。

1
3