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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 権力の腐敗を正すものは何か――…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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8  民主主義を選択する理由
 エイルウィン 結局のところ、任務を遂行するための政治家の能力、知性、知識、奉仕者としての資質、みずからが宣言する理想や行動原理や価値観に対する大きな使命感などが、政治家の行動結果に決定的な影響をおよぼす要因なのです。
 率直に申しますと、私は無分別な大衆に追従されている指導者や偉大な統率者が、自分の意思を国民に押しつけているのを、あまり歓迎しません。
 歴史を見ると、多くのカリスマ的指導者が、国を統治して偉大な事柄を達成していても、ほとんどつねにその統率者がその権力を乱用しがちであったことが分かってきます。私は偉大な統治者というものは、公共の課題や構想に関して意思を統合できる人たちであると思います。
 だからこそ私は、民主主義を選択します。フランスのジョルジュ・ブルドー先生がおっしゃったように“政治秩序の基本として自由な人間の尊厳を提唱している”のが、唯一の統治の形態だからです。そのような形態のなかでは、統治者の権限は、統治される人々の意思にもとづいているのです。
 池田 よく理解できます。私も同じ考えです。当然、一人の卓越した統治者による政治よりも、多数決原理と制度的な調整能力を背景とする民主主義のほうを信頼する立場をとります。
 “民主政治は大きな善はなしえないが、少なくとも独裁のような大きな悪のないことをもって満足すべきである”と説くトクヴィルなど、その典型でしょう。
 民主主義は何事も“中ぐらい”で我慢せよ、というわけです。ハンス・ケルゼンやカール・ポパーなども、トクヴィルと同様の意見のようです。
 エイルウィン アメリカの民主主義に関するトクヴィルのすばらしい研究は、さまざまな真実を私たちに教えてくれます。そのなかでも、民主主義制度が最良の政府を保障するものではない、ということは印象的でした。
 私は同様に他のどのような政治体制も、最良の政府を保障していないと考えます。民主主義は、政府が質的に並以下になったり腐敗したりしてしまう危険性に対して、人々の自由や野党の活動、定期的に行われる選挙などを保障することによって、むしろ対抗したり変革したりすることを可能とする制度なのです。
 池田 私はトクヴィルらの説とプラトンの説を、必ずしも二者択一的にとらえる必要はないと思っています。
 むしろプラトンの「哲人政治」の理想を、政治における道義性、精神性の問題として位置づけたいのです。
 そうすれば、ペレストロイカ(改革、再建)を「政治と文化の同盟」(クレムリンでの私との対談のさいの言葉です)としたゴルバチョフ氏らの試みとも、深く通底しているはずです。ゴルバチョフ氏は、その後、モスクワでお会いしたときも、「政治の世界は、自分が考えていた以上に非道徳的な世界であった」と述懐していました。
 あなたは、政治の世界に道義性、精神性を復活させるために、どのような方途が可能であり、有効であるとお考えですか。
9  時代は一人一人の内面の改革を要請
 エイルウィン ゴルバチョフ元大統領が政治の世界における純粋性や道徳性の欠如に関して、あなたに述べた意見には、その歴史的課題は最大の評価に値するものの、同意しかねる面があります。もっとも旧ソビエト連邦の諸国で起こったことに関して意見を述べるほど、事情に明るいわけではありません。しかし先に述べたような意味で、それを普遍化することは不可能だと私は考えます。
 私はみずからの経験を通して、民衆の道徳性はその社会の一般的道徳性のたんなる反映にすぎず、それ以上でも以下でもないと受けとめています。人間が行うさまざまな職務のなかで、政治の世界は他の分野と比較して、不正や腐敗に対する倫理的非難を、より繁雑に受けていることは確かです。このことは、私の判断では、以下の二つの事情によって説明がつくかと思われます。
 一つは政治活動というものは、その性質上、公的で集団の利害にかかわっているため、あらゆる目がそそがれており、いかなる間違いや過失もただちに発見され、告発されやすいこと。もう一つは、政治活動が探求するところの公共の利益という目的を実現するために、必要な手段である権力とかかわっており、権力は一般的に大きな情熱や野心、嫉妬や誘惑や不安、乱用や譴責を引き起こすからだと思います。
 池田 民衆の道徳性は、その社会の一般的道徳性のたんなる反映にすぎず、それ以上でも以下でもない、ということは分かります。
 社会を構成する一人一人が、いかにレベル・アップしてみずからを高めゆくか。民衆の自発の運動が求められるゆえんです。また、社会や時代の道徳性の指標となるものを、だれが掲げていくかが問われると思います。道徳性は、知的・心理的成熟ともいえるでしょう。
 振り返って見ますと、この二十世紀、人々は外側のみの変化や豊かさを求めてきました。いや、狂奔してきたといってよいでしょう。人々は気づき始めました。一見したところ豊かになったように見えて、じつは精神は貧しくすさんでいるのです。外側の改革だけでは、完全に行き詰まってしまいました。環境問題が、その良い例です。
 私は、真の豊かさを求めるには、人間の内側からの改革が要請されると、力説したいのです。そろそろ人類は、外側から内側へ、無限の可能性を求めて、探求の旅に出るべきではないでしょうか。そして崩れない道徳性の確立をめざし、内側から変革の力を汲みだすべきでしょう。                 

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