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日蓮大聖人・池田大作

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第十四章 「母性」のあり方  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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6  理想像を求めるより自身に生きぬくこと
 池田 日本でも、そうした傾向は、予想を超えるテンポで進んでいるようです。
 私は、正直言って、憂慮に耐えません。古いと言われようと何と言われようと、悪いことは悪いと言いきっていかなければならないと思います。
 たしかに、自由や権利は尊重されなければならないでしょう。私も、女性解放に異を唱えるつもりはまったくありません。
 しかし、母性の問題に限らず、自由と権利を正しく行使していくには、厳しい自己規律、場合によっては自己犠牲さえ辞さぬ、エゴイズムとは対極にある生き方を必要とすることを、決して忘失してはなりません。現代の日本の風潮などは、真実の自由や権利とは似て非なるものです。
 ここで、もう一つ、今日的な課題に立ち返ると、今のお母さんたちは、立派な母親になろうとするあまり、その役割の重さに耐えられなくなってきているという事実もあるのではないでしょうか。自分の「理想の母親像」と「実際の自分」とのギャップに苦しんでいる人が多いように思えてなりません。
 「立派な母親」になろうとする努力は、もちろん大事でしょう。しかし、母の「人間として」の生き方こそが、子どもの人生にもっとも大きい影響をあたえるのだということを忘れてはならないと思います。
 私の友人でもある、日本の著名な映画監督・松山善三氏の『母』という映画を思い起こします。私はかつて、この映画を通して、スピーチしたことがあります。
 リハーノフ どのような内容ですか。
 池田 簡単に紹介しますと、ある日、農村で楽しく暮らしていた家族に、父の大けがという悲劇が襲う。母は、全身マヒで寝たきりとなってしまった夫を看病することに人生をささげることを決心し、子どもたちに宣言します。
 「おら、おまえらのお母ちゃをやめねばなんねえ」
 「今日から、お母ちゃは、お父ちゃの命ば守る……おまえらは、みんな仲よく助け合って、勝手にでかくなるんだ」(松山善三・藤本潔『母』ひくまの出版)と。
 この「母親放棄宣言」を受けた子どもたちは、しかし、懸命に生きぬく両親の姿を見て、おたがいに助けあい、立派な人間に成長していきます。
 「母親をやめる」と言いきった母親。これは、育児雑誌などで描かれる「立派な、よい母親」の像とはかけ離れているかもしれません。しかし、懸命に生きる母の背中が、子どもたちの生命に刻まれ、子どもたちを大きく育んでいったのです。
 現在の若き母親たちに大切なのは、理想の母親像を追い求め、背伸びをするよりも、今、自分のいる大地にしっかりと足を踏みしめ、自分自身に生きぬくことではないでしょうか。
 リハーノフ よい話ですね。母親が子どもを自分の所有物だとする感情については、フロイトの学説でずいぶん説明されているところです。ただ、どんな学説もオールマイティー(全能)ではありません。
 私の知っている家庭でも、母親が一人息子に支配性を示すケースが多くあります。こうした場合、母親の墓石が立つまで自立できない「マザーコンプレックス」現象が起こります。
 母親の権威にいったん従ってしまった息子は何事につけ、母親の世界からぬけ出せず、自立した人生を始めることができず、しっかりした自分の家庭を築くことができなくなります。秘められた家庭の問題は、つねに悲劇的です。子どもを支配するタイプの母親は、重く威圧的な存在です。
 その点、池田さん。あなたが例に採られた『母』という映画は、多くの示唆に富んでいます。困難な渦中、子どもたちにあのような言葉を発することができたお母さんは、おそらく、人間としての高い精神性をそなえていたにちがいありません。
 母以上に高貴な位はないのかもしれませんが、彼女は、母親という立場をしのぐ、もっと尊貴な位に達したのではないかとあえて申し上げたい。愛情と責任を自覚した人間として。
 池田 スタインベックの名作『怒りの葡萄』に出てくる母親像も強く印象に残りますね。何があろうと、どんな困難が待ち受けていようと、このたくましい母親は、どっしりと大地を踏まえ、大きく息を吸いながら、いつも明るく一家を励まし、支え続ける。
 次のような名セリフなど、深い哲学性の響きさえ伝えています。
 「女ってものは始めから終いまでが一つの流れなんだよ、川の流れみたいにね、小さな渦巻があったり、小さな滝があったりするけど、それでも、川はどんどん流れていくのさ。女はそういうふうにものを見るんだよ。あたしたちは死に絶えやしない。人間は続いていくんだよ――」(大橋健三郎訳、岩波書店)
 リハーノフ まさに庶民の大哲学者ですね。私やあなたの世代の人間にとって、母親というものは、高潔な存在です。
 ところが現代の女性たちにとって、この高潔さや純粋性は、母親の絶対条件にはまったくなっておらず、子どもを産むか産まないかという技術的な選択の権利と結びついているようです。
 ロシアでも、こうした母としての倫理観が、しだいに失われつつあります。低俗な雑誌などは、そうした傾向をさらに煽っており、嘆かわしいかぎりです。
7  母の笑顔は子どもたちの未来を照らす
 池田 ソ連崩壊にともなうロシア社会の混迷の様子は、しばしばお聞きしています。
 しかし、リハーノフさん。私は、根本のところでは楽観主義者です。現実がどうあれ、未来への希望を失わないかぎり、そこには必ず、「幸福の道」があり、「平和の道」があるものです。
 母性というものも、どんなに揺さぶられようとも、決して「死火山」ではなく、「休火山」であります。地中深く蓄えられたマグマが、やがて時を得て噴出してくるように、必ずやすさまじいエネルギーとなって盛り返してくるにちがいない。もちろん、座して待っているのではなく、そのために力を尽くしていかねばなりません。
 母は「太陽」です。そのほがらかな笑いは、すべての人々に安心をあたえ、心の闇を照らします。
 かつて私は、わが愛する同志の母たちに贈った詩のなかで、こう謳いました。
   母親は
   疲れていても
   叱っていても
   真剣な態度であっても
   その奥には
   いつも笑いがある
   安堵がある 安心がある(「高貴な笑役者に贈る――尊き母の詩」)
 トルストイも言っています。
 「お母さまの顔はただでも美しかったけれど、微笑によってそれはいっそうすばらしくなり、まるで周囲のもの全体が明るくなるようであった。生涯のつらく悲しいおりおりに、もしほんのちょっとでもあの笑顔を見ることができたら、私はおそらく悲しみとはどんなものであるかをすら知らなかったであろう」(前掲『幼年・少年・青年』)
 家族の中の、母の笑顔の光。生命の輝き――ささいなことかもしれませんが、それこそが、子どもたちの魂を照らし、未来を明るく輝かせていくのではないでしょうか。
 リハーノフ 母性も、父性同様、人間の資質が問われる問題であります。周囲の世界、社会、その社会の発展レベルから切り離して考えることはできません。この世界の一部分を構成している要素です。
 また子どもに影響をあたえるのは、母親と父親だけとは限りません。環境、遺伝、社会の経済状況、文化等々、すべてが子どもの成長にかかわってきます。
 とはいえ、人間はだれでも生まれたときは、真っ白なカンバスと同じです。そして、自然の法則を繰り返しながら、無意識の存在からしだいに何者かによって成長していくのです。自分の名前、家族、歴史を学びつつ。
 そのいたいけな子どもにとっての屋根は、母と父です。多くの場合、母親だけということもあります。だからこそ、人間のあらゆる知恵と賢明さをもって、母性を保護していくことが、いやまして重要になってきています。
 池田 話題は尽きませんが、偉大なる母へのエールをもって、対談を締めくくりたいと思います。
 児童基金の役割は、ますます重要になってくると思います。総裁のさらなるご活躍を祈っております。
 リハーノフ ありがとうございました。一年あまり、楽しく有意義な語らいをさせていただきました。池田会長の東奔西走をはるかに想い描きつつ、ふたたびお会いできる日を念じ、心待ちにしております。

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