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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 成長家族――理想と目標の共有…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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4  ともに向上をめざす「成長家族」に
 池田 その悪循環を断ち切らねばなりません。二つ目の「親と子のかかわり」から言えば、社会の支配的な価値観とは違う「哲学」を家族が共有することでしょう。
 日本では、第二次世界大戦での敗戦、そしてバブル崩壊にいたるまで、価値観の崩壊、激動のなかで、親たちは自信を失い、子どもたちは、そうした両親、社会を前にして、不信と不安をつのらせてきました。
 大切なことは、そうした社会の毀誉褒貶とは別の次元で、いつの世にも変わらぬ「人間として」生きる意味を問い続ける共同作業を行うことではないでしょうか。
 たとえば「まじめな人が損をする社会」であれば、「あなたは、最後までまじめな人の味方になれ」と教える。「認識せずに評価する付和雷同の社会」であれば、「透徹した眼を磨け。信念に生きよ」と教える。
 親と社会との接点が「会社」という単線のみでは、これはできません。より普遍性と永遠性に根ざした理想や目的が必要になる。ここに私たちのSGIの運動の一つの意味がある、と思っているのです。そのために大切なのは、「親自身が向上しようと努力する」ことではないでしょうか。
 トルストイは言っています。
 「すべて養育は、結局自身が善良な生活を送ることに帰着する。すなわち、自ら働き、自らを養育するということに帰着するのである」(『国民教育論』、『世界教育宝典』昇曙夢訳、玉川大学出版部)と。
 「親の背を見て子は育つ」という言い方が日本にあります。「子どものため」と見下し、行動のベクトル(方向性)を向かいあわすのではなく、子どもと同じく「成長」の方向へ、ベクトルを開いていく。
 ここに、幼児期の「保護者」と「被保護者」の関係を脱皮した、成熟した家族関係を築くカギがある。私はこのことを、「成長家族」という表現で、繰り返し訴えてきました。
 さて、今、私は家族を“荒波のなかの浮き”と表現しました。しかし、親が寝たきりになったり、いい子が突然非行に走ったり――「家族をもつゆえの苦しみ」もまた、万人が逃れられないものです。絶大な権力があっても、巨万の富があっても。
 家族とは、一切の虚飾を取り払った「人間としての生きざま」をいやおうなしに問うてくる。そうとらえることから、新しい家族像の創造を始めるべきではないかと思っております。
 リハーノフ 同感です。新しい家庭像はぜひ必要であり、同時にむずかしい課題です。トルストイは、「幸福な家庭はどれもみな似たりよったりだが、不幸な家庭は不幸なさまがひとつひとつ違っている」(『アンナ・カレーニナ』、『世界文学全集』37、木村彰一訳、筑摩書房)と言っていますが、変化した現代社会では、幸福な家庭もそれぞれに違ってきています。
 たとえば、ある家庭に芸術に秀でた子どもがいたとします。わが国では、そのような場合、親は喜び、その子の才能を「開花」させようとして、躍起になってコンクールへの出場、入賞、そして海外公演へと子どもを押しだす――そんな家庭を私はたくさん知っています。
 ただ、悲しいことに、早期に伸びた才能の多くは、早々に枯れてしまうことも見てきました。非凡な才能を持った子どもは、早死にしてしまうか、成長とともに平凡になっていく場合が多い。何かが彼らの中で消え、死に絶えてしまうのでしょう。そう、これが幸福な家庭の一例です。つまり、幸福と不幸のどんでん返しです。
 では、富や成功はどうでしょうか。同じようなどんでん返しはないでしょうか。
 私は、かねてより、本物の才能は試練にあって堅固になると思っています。そして、豊かさや安逸のなかではなく、貧しさや労苦のなかで、善良さ、思いやりを養うことができると考えてきました。
 若い時に困難を経験していない人は、かわいそうです。彼は人生にそれほど価値を見いだせないのです。なぜなら、幼くしてすべてが与えられてしまい、ほとんど何もみずからの手で達成したものを持たないからです。
 これは極論ととられるかもしれません。現実には、完全に理想的な状況も、完全に行き詰まった状況もほとんどないのですから。それでもやはり、傾向性については述べておく必要があると思ったのです。
5  師弟に生きる家族は幸福
 池田 極論どころか、まさに正論であり大賛成です。恩師も、荒海で知られる日本の玄界灘で育った鯛は、身が引き締まっておいしいことに寄せて、若いころの苦労は、買ってでもせよ、と強調してやみませんでした。
 ここで、もう一点、社会に開かれた創造的な成長家族を築くために、人格の錬磨という面で、「師弟」の重要性について、再度、考えておきたいと思います。
 よく知られるように、ナポレオン戦争で荒廃したデンマークの復興に貢献したのは、グルントヴィとコルの師弟です。二人は、“民衆の大学”と呼ばれる「国民高等学校」という開かれた学びの場を通して、民衆教育を普及させました。
 グルントヴィの理念と闘志を受け継ごうと精進したからこそ、コルは、自身を向上させることができたのです。また、師よりも三十歳以上も若い後継の弟子がいたからこそ、デンマークの民衆教育は花開き、国土を蘇生させる原動力となったのです。
 牧口先生は、その著『創価教育学体系』の緒言でこの二人に言及され、コルの姿を愛弟子の戸田先生の闘争と二重写しにしておられます。すなわち『創価教育学体系』は、戸田青年の全力の献身によって完成したと感謝されています。戸田先生もまた、すべてをささげて牧口先生を守り、その偉大さを証明しぬかれたのです。
 師弟――この道に生きぬくところにこそ、「人間」としての最高の自己完成があります。「人間」としての最高の誇りがあります。こう考えると、「どういう家庭をめざすのか」「どんな子に育てるのか」という目的観を共有するとともに、共通の師の下で、悔いない人生を歩んでいることが、どれほどか充実した家庭を築きゆく土台となることであろう、と信じてやみません。
 あなたはこの点、どのようにお考えでしょうか。
 リハーノフ このテーマは、本対談ですでにふれましたね。付け加えて申し上げるとすれば、残念ながら子どもの心身の成長に完璧な教育環境を備えている家庭は少ないと言えます。多くの家庭生活は、寝て、食べて、しゃべってという日常の繰り返しです。それだけで十分だと言う人もいます。
 しかし、より本質的には、家庭は子どもにとって、精神的価値の源です。ところが、そうでない場合もある。そこで教師は、大局的に見れば、一種の補足的役割を担っていると考えます。家庭であたえきれない部分をおぎなってくれる人です。もちろん、教師がしっかりしている場合の話ですが。
 私は教師にたいへん恵まれました。戦時下で、私たちの先生アポリナリヤ・ニコラエヴナ・チェプリャシナは、文字どおり私たちを救ってくれました。物理的に救ってくれたこともありました。どの家もお父さんが戦いに出ていってしまい、父親の欠けた家庭が私たち子どもにあたえられなかったことを、彼女はすべてをおぎなってくれたと言えます。
 池田 さん、あなたのおっしゃる先生というのは、精神の師匠のことで、学校の教師とは異質のものだと私は理解しています。
 牧口氏のような運動の指導者は、戸田城聖氏のような、またあなたのような弟子を持たねばなりません。大きな運動と多くの同志を率いていく精神的師匠という存在で、学校の教師とは、まったく別です。ここでは、弟子が師匠の精神的理想を社会に伝えるという、まったく別の一歩が踏み出されていくのですから。
 創価学会の運動は、社会の幸福をめざす上での新しい運動形態とも言えるのではないでしょうか。そして、創価学会が代々卓越した精神性を持つ指導者を得たことを、私は心からたたえたいと思います。
 数百万の人々をたんに魅了しただけでなく、その人々が、隣人を救い、手をたずさえ、弱い立場の人々を助けようとの熱い願いを長年にわたって保ち続けられるように、励まし支えておられる指導者に恵まれたことを。

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