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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 傷ついた心を癒す“励ましの社会…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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3  虐待され捨てられる子どもたち
 リハーノフ ここでもう一点、子どもたちの正常な成長のために、ぜひ直視しなければならない、ある特殊な状況が存在します。譬えるならば、“残酷性”という名のコウモリが、そのかたい羽を広げて、暗い、人目のない隠れた場所で、人の心を支配しているかのような状況です。
 その典型が、また最悪の形が、家庭内の子どもに対する性的虐待です。そのほとんどのケースは、義父によるものです。このような性的攻撃は、あたかも母親が自分の安心の場を持つことの――それもかなり疑わしいものなのですが――、まがりなりにも家庭を持つことの代償として、子どもたちに加えられます。
 ロシアでは、このような犯罪的児童虐待が、ますますふえています。その背景には、家庭の崩壊を恐れるあまり、こうした問題が、隠されたままになっているからなのです。
 ここ数年のロシアで特筆すべきは、暴力と犯罪のいまだかつてない増加です。わが国を表面的にしか知らない人々は、民主主義の兆候を歓迎したりしていますが、はっきり言って、ロシアは、偽りの民主主義です。
 犯罪で、いちばん取りざたされるのが、実業家を狙ったビジネスマン殺しです。
 もっとも、殺されたほうも、どこかで汚いことに手を染めていたり、みずから犯罪とか、汚職構造の一翼を担っていたりすることも、多いようなのですが。
 池田 ペレストロイカで脚光を浴びた、ルイバコフの名著『アルバート街の子供たち』で、主人公が、流刑地で自問する言葉は印象的です。
 「そもそも道徳とはなんなのだろうか?レーニンは、プロレタリアートの利益にかなうものが、道徳的なのだと述べている。しかし、プロレタリアも人間であり、プロレタリアのモラルも人間のモラルであることには変わりない。雪のなかの子供を見捨てることは、非人間的な行為であり、つまり非倫理的な行為ということになる。他人の生命を犠牲にして、自分の生命を救うことも、非倫理的なことなのだ」(長島七穂訳、みすず書房)と。
 たとえば、「雪のなかの子どもを見捨てる」という、だれが見ても非人間的行為であっても、プロレタリアート(労働者階級)の利益になるものなら、それが「善」であるとされてきた。こんな極論というか不条理が、大手を振ってまかり通ってきたのですから、それを強制していた力(暴力)が取り除かれてしまえば、価値観は混乱し、収拾のつかない混乱を招いてしまうでしょう。
 リハーノフ ええ。ところが、子どもの人身売買など、民主主義どころか野蛮としか言いようのない事件には、だれも真剣に取り組もうとはしません。
 そのような子どもたちは、ほとんど行方不明のままになってしまいます。また数多くの子どもが、家庭や施設から逃げ出して浮浪児になっています。さらには捨て子の数が、一九九四年に十一万五千人増加し、一九九五年にはさらに十万人近くふえました。この数字は、戦時中の状態に匹敵するものです。
 池田 先日も、ある外電が報じていました。ロシア人にとって、捨て子(ベスプリゾールニキー)は、一九一七年のボルシェビキ革命から続く、国内戦争時の社会の大混乱を連想させる現象であったが、一九九一年のソ連崩壊で到来した経済危機で、ぼろぼろの洋服を着せられた子どもたちがどこでも見られるようになったため、この言葉にきわめて現代的な意味をもたらした――と。
 総裁のご心痛、ご苦労は察するにあまりあります。
4  絶望感と精神の空白をどう埋めていくか
 リハーノフ 浮浪児の数は、二百万人以上にものぼるのです。私は、このような社会崩壊の原因を、ぜひとも究明しなくてはならないと思っております。経済的混乱が背景にあるのは言うまでもありません。
 ただ私が真に憂えるのは、今、野ざらしで愛情を知らずに育っている無数の子どもたちが大きくなったとき、彼らが、自分たちの生存の権利を主張して街頭に繰り出したときのことです。その時こそ、ロシアが想像を絶する最悪の事態を迎えてしまうのではないかと。
 少し本題からそれてしまいましたが、傷ついた子どもの心、その絶望感と精神の空白をどう埋めていくべきかについて、語りあいたいと思います。
 義理の父に性的虐待を受けた、ある少女の場合です。その父親は、彼女を言いくるめたのか、誘惑したのか、それとも脅したのか、いずれにしても、少女のほうはだれにもそれを打ち明けようとはせず、お母さんにも何も言えないでいました。もっと悪いことに、お母さんは知っていて、苦しみ、泣いていたのですが、家庭内のもめごとを警察に訴えることができなかったのです。そうなれば、夫は法律で裁かれることになり、つまりは自分の身にもふりかかると考えたからです。
 池田 日本では、この種の問題は、アメリカなどに比べると、格段に数が少ないようにも見えます。しかし、最近では、児童相談所などを通じて、徐々に実態が知られるようになり、社会的注目を集めつつあるようです。
 リハーノフ そうですか。いずれにせよ、大人たちが自分の気休めに、この少女のために何をしてあげようと、彼女の心は癒されることはありません。たとえ、彼女の秘密はかたく守られ、世の中に彼女の苦い真実を知る人はだれ一人いないとしても、彼女の心にあいた巨大な虚無感を埋めるためには、限りない善良な幸福感が、果てしなく注がれることが必要です。
 このような少女の多くは、精神的な回復ができずに、将来の家庭を築く力を永遠に失ってしまいます。精神的な埋め合わせには、相当のパワーと影響力が存在しなくてはならないからです。だから彼女たちは、いくら手を差しのべても、長い間、倫理的な障害を背負って生きていかざるをえません。
 たとえば、ロシアのある調査結果によると、このような少女たちは、早い時期から非行に走るケースが多く、または、うつ症状、閉鎖性、人嫌いにおちいっているケースもあります。
 池田 たしかに、そうした子どもには、不安、人間不信、抑うつ、罪悪感や自己への否定的評価などの悪影響が、顕著に見られるようです。
 当然でしょう。こうした忌まわしい出来事は、絶対にあってはならないし、人倫にもとる最悪の行為です。
 フランスの人類学者レヴィ=ストロースは、周知のように、近親婚などをタブーとすることをもって、「自然過程」と「文化過程」との接点、言葉を換えれば、動物と人間とを分かつ分水嶺であるとの、画期的な説を打ち立てました。
 こうしたタブーを忌避することは、文化的存在である人間のもっとも普遍的な習慣であり、制度であり、証とされています。いわば人類史とともに古い知恵なのです。そのタブーを犯す性的虐待などは、人類の文化史への反逆であり、否定であり、自殺行為にほかなりません。
5  苦しんだ人こそ、幸福になる権利がある
 リハーノフ そのとおりです。さらには、じつの娘への暴行――これはもう法精神医学の範疇です。この問題は、社会ではよく知られておらず、むしろこのような問題を恥として、耳を塞ごうとします。
 アメリカ人は、このような状況の打開策として、法廷の判断と、リハビリテーション(社会復帰療法)を組み合わせることに成功しているようです。裁判所は、該当の少女(または少年)を家族から引き離し、特別のリハビリセンターで回復訓練を行います。その後、あらためて裁判所の決定を受ける形で、通常、その子どもの苗字を変更して、重責に堪えうると判断されて選ばれた、新しい家庭に引き取ってもらうというものです。
 このような、有無を言わせぬプラグマティズム(実用主義)は、アメリカ人社会では十分、受け入れられるのでしょう。しかし、ロシアの伝統的な精神風土に照らしてみると、過去に、わが国で新しい教育法をいくつも試みたときがそうであったように、この米国式のアプローチ(取り組み方)も、ロシアに取り入れるとなると、どこかではきちがえられ、ゆがめられてしまい、純粋にロシア風の解釈がされかねません。
 池田 「ロシアふうの解釈」とは、どのような解釈ですか?
 リハーノフ それは、善意の思いつきも悪意にまみれてしまい、まったく逆の結果となるということです。善意で子どもの過去を隠そうとすればするほど、それだけ悪意のマスコミによって、恰好のスキャンダルネタとなってしまうのです。
 だからといって、手をこまぬいているわけにはいきません。現在のロシア政府が、このようなリハビリテーションを行える制度をつくるための資金を捻出することは、簡単とは思えませんが。
 ただ、何か行動を起こさねばと思うと心が痛みます。そして、わが愛するロシアが、いつまでも思索と助言に明け暮れているのにも疲れてしまったのです。第一、社会も政府も、だれもそういう言葉に真摯に耳をかたむけてはいないのですから。
 他の国々では、どういう状況なのでしょうか。日本はどうですか。こういう環境に置かれてしまった子どもを救うには、どんな方法があるとお考えですか?
 池田 事件が起きないようにすることが先決ですが、起きてしまった場合、やはり、対症療法と根本療法の両面から考えていかなければならないと思います。
 対症療法に関して言えば、日本は遅れており、ようやく緒についたばかりといっても過言ではありません。カウンセリング、リハビリテーション、すべてに知恵と経験を持ちあい、学びあっていくべきでしょう。
 それと同時に、私は、仏法者として、どうしても根本療法のほうに目を向けざるをえません。それは、傷を受け、罪悪感に苦しんでいる人を、どこまでも温かくつつみ、励ましていける社会でなければならない、ということです。
 「もっとも苦しんでいる人、もっとも悩んでいる人こそ、もっとも幸福になる権利がある」というのが、仏教の根本精神です。仏教に限らず、そこにスポットを当てていくのが、宗教の生命線ではないでしょうか。
 私どもの信奉する日蓮大聖人は、こう述べています。
 「今、法華経というのは一切衆生を仏にする秘術がある御経である。いわゆる地獄界の一人、餓鬼界の一人、ないし九界の中の一人を仏にすることによって、一切衆生が皆、仏になることができるという道理が現れたのである。譬えば、竹の節を一つ破れば、他の節もそれにしたがって破れるようなものである」(御書一〇四六㌻、通解)と。
 「地獄界の一人」「餓鬼界の一人」とは、もっとも苦しみ、悩んでいる人々です。その「一人」にスポットを当て、救済していくところに、一切の人々の救済の可能性が開かれる、としているのです。
 事実、創価学会は、草創以来、「貧乏人と病人の集まり」などと、傲り高ぶる人から蔑視されてきました。しかし、私どもの宗祖ご自身が、「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅せんだらが家より出たり」と、高貴な出自でないことを、むしろ誉れとしてきたのです。
 私どもは、その精神にのっとって、徹して無名の庶民の側に立ち、胸を張って戦ってきました。その“汗”と“涙”の集積が、今日の創価学会の揺るぎない礎となっているのです。
 私が、なぜ「母と子を救う」ことに、政治の本質を見たのかも、ご理解いただけると思います。このような思いやりに満ちた社会と文化こそ、傷ついた心、悩み苦しむ魂にとって、このうえない“癒しの水”となり、“励ましの風”になっていくと思います。

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