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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 「触発」のドラマが結ぶ絆  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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5  教師の人間的敗北は、子の命にかかわる
 リハーノフ 新聞にこんな記事が掲載されました。教室で、ある女の先生が、教え子である十二歳の男の子を何かの理由でとがめ、みんなの見ている前で、
 その子の顔を叩きました。その子には、お父さんもお母さんもいるのですが、両親に助けを求めようとすることをしないで、森で首を吊って自殺してしまいました。
 ジャーナリストたちは、事情を究明しようとして、このクラスの子どもたちに、この教師のふだんの振る舞いについて尋ねたところ、それまでは知られていなかった事実が、明るみに出ました。
 子どもたちによると、この先生はしょっちゅう怒鳴るし、えこひいきして、一部の教え子たちを、露骨にきらっていたというのです。両親は、行政的な処分を求め、この教師は解雇されました。
 池田 日本では、体罰は学校教育法によって禁止されているのですが、しばしば、新聞だねになります。
 もっともよくない点は、教師の側の人間的未熟、こらえ性のなさから起きた、衝動的な場合であり、教育的効果などとは裏腹の“弱い者いじめ”のたぐいであるときです。これらは、人間の敗北以外のなにものでもありません。
 リハーノフ 教師が、人間として敗北したときの対価は、あまりにも高価です。子どもの命を代償にしてしまうのですから。
 先ほどの事例では、一応これで、問題は解決したことになったのですが、根っこは残されたままです。まず、事件に立ち入るまでもなく、教師は罰せられるべきだというのは、疑う余地がありませんが、解雇という行政処分だけでよかったのでしょうか。行政的な処分にしても、他の学校でふたたび教壇に立つことのないよう、教師の資格を剥奪することが最低限必要ですし、さらに言えば、刑事事件として法廷で裁かれるべきです。
 いずれにしても、この事件をめぐる心理鑑定を行うべきだったと考えます。この少年は、なぜ両親に助けを求めなかったのか? わかってもらえないと思ったのか? 両親が子どもにとって、十分な理解者、そして、弁護者、擁護者になりえていなかったのか。
 少しくらい子どもの理解ができていなかったからといって、そんな些細なことで、責任を問うわけにはいかない、と人は言うかもしれません。しかし、まさにこのために、子どもたちが死んでいくことを忘れてはなりません。
 池田 まさに、現実の問題です。
 リハーノフ ええ。また、この女性教師のほうですが、彼女は大人であり、仮にも子どもたちを教育する責務を、みずから引き受けた人間なのだから、えこひいきなど、もってのほかです。
 ともかく、教室という閉ざされた場所での、彼女の長年の振る舞いは、完全にフロイトの方程式に合致しています。
 つまり、外側は教養をまとっているが、中身は自堕落な人格で、一定の心理テストをやってみると、まったく学校で働くのには不適当というタイプです。
 池田 フロイトの理論のもつ決定論的性格を、私はあまり好みませんが、それが、かなりの部分で妥当性をもっていることは、実証的に明らかにされているようですね。
6  人間は善性と悪魔性をあわせもつ存在
 リハーノフ なぜ、ある人は卑劣に振る舞い、ある人はそうではないのでしょうか。教育だけの問題でしょうか。なぜ人は、とくに子どもには、善人と悪人を見分けられないのでしょうか。
 また、一見、礼儀をわきまえているような大人たちが、社会の目の届かない自分の家の中だと、ずいぶん傍若無人になり、自分の子どもに対して、家長の特権を振りかざしたりするのでしょうか。
 教師が、他の大人たちの目の届かない閉ざされた教室で、生徒に向かって同様に傍若無人ぶりを発揮して、何とも思わないのは、なぜなのでしょうか。
 残酷性の根っこは、デプリベイション(欠乏状態)とか、「超自我」とかの領域での分析を待たざるをえない問題のように思われます。
 池田 さん、あなたはこれについてどのようにお考えでしょうか?
 池田 先ほど、道徳的人間、非道徳的人間ということを言われましたが、私は、先天的、あるいは先験的に、人間をそのように区分けすることは、できないと思います。
 人間は、善性と悪魔性をあわせもつ存在であって、「縁」によって善性が顕在化してくる場合もあれば、逆に悪魔性が、わがもの顔に跳梁跋扈する場合もあります。
 そのさい、仏教的な観点からいちばん大事なことは、この「縁」が、外からばかりあたえられるのではない、ということです。
 この対談の冒頭で、「縁起」について若干ふれましたが、「縁起」を正確にいうと、「因縁生起」を意味します。
 たとえば、先生を「因」とすれば、生徒は、「縁」であり、両者が和合すれば、当然そこに善性が生起してくるでしょう。
 しかし、経験からも明らかなように、和合がすんなりとなることは、むしろまれで、「因」が善くても、「縁」が悪い場合もあるし、逆に「因」のほうに問題がある場合もある。それゆえ、和合を実現するには、たがいに忍耐強い努力や、勇気ある挑戦が不可欠であり、その結果、和合、すなわち真の信頼関係という善性が生起してくるわけです。
 その過程では、幾多の「触発」のドラマが、展開されるにちがいありません。そして、そこから生起してくる善性が、優れて“内発的”なものであることは、論を待ちません。
 リハーノフ 興味深いですね。
 池田 精神分析学や心理学が勝ちとってきた成果に十分敬意を表しつつも、私が、ただ一点、気にかかると同時に、要望したいことは、人間精神の探究は、この“内発的な精神性”を育み、薫発させる方向での働きかけであってほしい、ということです。
7  「入魂」と「和気」と「触発」
 池田 文学作品に範をとれば「因縁生起」をいろどる「触発」のドラマが、もっともドラマチックに展開されているのが『レ・ミゼラブル』の中の、ジャン・ヴァルジャンと警視ジャヴェルの葛藤でしょう。
 私は、少年のころ、「善」の道を必死に生きようとするジャン・ヴァルジャンを、蛇のように執念深く追い回すこの冷酷な警視が、憎らしくてたまりませんでした。その分、ジャン・ヴァルジャンの「善」の心が、ついに残酷無比なジャヴェルの心を打ち負かすくだりは、まばゆいばかりの光彩を放っていました。
 ジャヴェルの心境を、ユゴーは、こう綴ります。
 「彼の最大の苦悶は、この世に、確実なものがなくなったということだった。彼は自分という人間が根こそぎにされたのを感じた。(中略)彼は暗黒のなかに、まだ知らなかった道徳の太陽が恐ろしくのぼってゆくのを見た。それは彼をおびえさせ、彼を眩惑させた。彼はまさしく、鷲の目をもつことをしいられた梟だった」(齋藤正直訳、潮出版社)と。
 リハーノフ そのとおりです。
 池田 さて、あなたが引用されたフロイトの論文「ある幻想の未来」は、「ある幻想」、つまり宗教の未来を論じ、その幻想性をはぎとることを、趣旨としたものでした。
 その中で、彼は、自分以外のものに頼らず、自分の力を正しく使うべきだと強調します。そして、「氷河時代いらい科学は、人類に多くのことを教えてくれたし、今後とも人類の力をいっそう増大してくれることだろう」(前掲『フロイト著作集』3所収)と述べ、宗教に代わる支えを、科学に求めていました。
 周知のように、その後の近代科学の歩みは、フロイトの言う意味での人間の支えには、とうていなりえないことを明らかにしたと言っても、過言ではないでしょう。ゆえに、私は、真実の宗教こそ、善く生きようとする人々の「入魂」と「和気」と「触発」のドラマの、よき演出者とならねばならないと、深く期しています。
 リハーノフ じつは無神論的世界観は、わが国には、もう生きていないのです。
 ですから、池田さん! 私にとっては、博識の方であり、偉大な仏法の実践者であるあなたの世界観、人間観がとても大事なのです。

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