Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 いじめ――小さな暴力  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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2  一人立つ「善」←→徒党を組む「悪」
 池田 「犬の群れの論理」に対して、「正義と善の力」に裏打ちされた「勇気」をもって立ち向かっていく――イメージ喚起力に富んだすばらしい言葉です。その対比は、古来さまざまに論議を呼んできた「善」と「悪」との道徳的な内実を、ひときわ鮮やかなコントラスト(対照)で浮かび上がらせています。そこで、やや抽象的になりますが、暴力やいじめの背景にある「善悪」の本質論に少々言及させていただきたいと思うのですが、よろしいでしょうか。
 リハーノフ どうぞ、ぞんぶんに論じてください。
 池田 私は、悪の本質は、総裁がいみじくも「群れ」と表現されたように、何かにつけ、すぐ「徒党を組む、組みたがる」点にあると思います。大人の世界でも、子どもの世界でも、この傾向に変わりありません。
 悪の生命というものは、どんなに強がり、偉ぶって見せても、本質的には臆病ですから、一人でいることに耐えられません。必ず何らかの徒党を組み、数の力に頼ることによって虚勢を張るしかない。虚勢を自信らしきものと錯覚して、たがいにもたれあい、威を張るしか生きようがないのです。
 まさに「犬の群れの論理」そのものであり、大人の悪の集団も、子どもの悪の集団も、よく調べてみると、例外なく、この論理に絡みとられ、“長いものに巻かれろ”式の大勢順応主義に支配されているものです。
 リハーノフ このような結合が、力の論理によることは明白です。
 池田 仏法では、人間の――人間には限りませんが――生命状態を、基本的に十の範疇に分類します。
 悪いほうから言いますと、第一に「地獄界」とは、怒りや憎しみにとらわれ、苦しみに押しつぶされて身動きのとれない、最悪の苦悩、煩悶の境地。
 第二に「餓鬼界」とは、とどまるところを知らない激しい欲望にがんじがらめにされている境地。
 第三に「畜生界」とは、理性も意志も働かず、動物的本能のみにつき動かされている愚かな境地。
 第四に「修羅界」とは、強い者にへつらい、他人に勝ろうとする自己中心的な境地。
 第五に「人界」とは、平静に物事を判断できる生命状態。
 第六に「天界」とは、喜びに満ちた生命状態。
 第七に「声聞界」とは、世の無常の理を知り、煩悩を断尽していこうとする境地。
 第八に「縁覚界」とは、自然現象などを縁として、真理に目覚め、覚りに入る境地。
 第九に「菩薩界」とは、民衆を救済しようと利他の実践に出ていく境地。
 そして十番目の「仏界」とは、万法に通達した覚者の円満自在な境地、を言います。
 簡単に申し上げましたが、この序列の最初のほうであればあるほど“極悪”に近く、最後の「仏界」に近づくほどに“極善”に接近してきます。
 もとより、この十の範疇は固定的なものではなく、瞬間瞬間、千変万化して揺れ動くのが、人間の心というものです。大切なことは、その揺れ動く心の基底部が、どこに置かれているかです。
 リハーノフ ロシア正教の世界観を持つ私のような人間にとっては、この基本原理を知ることは、きわめて大切なことのように思われます。
 池田 私たちが検討してきた「徒党を組む」生命状態は、この範疇の三番目の「畜生界」に当たります。あなたのおっしゃる「犬」は、まさしく「畜生」の代表格であり、ゆえに日蓮大聖人は「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」、つまり、弱い者には威張りちらし、強い者の前では、犬のように尾を振ってこび、へつらうと、喝破されております。
 要するに、毅然とした「自分」というものがない。だから、すぐに「徒党」を組みたがる。そこに悪の本質があるわけです。
 リハーノフ 興味深いお話です。
 池田 それとは逆に、善の本質は「一人立つ」ところにあると言えましょう。われに「正義と善」の旗印あり、との信念と確信の人は、決して衆を頼まず、そして衆の力を恐れることもありません。
 与する人が皆無であっても失望や絶望もせず、多いからといって、いい気になって居丈高になることもなく、信ずる道を、一人、まっすぐに進んでいく。「千萬人といえども吾往かん」(『孟子』)といった賛辞は、こうした信念の勇者にのみふさわしいと言えましょう。「一人立てる時に強き者は真正の勇者なり」というシラーの言葉とともに――。
 牧口会長も、「悪人の敵になりうる勇者でなければ、善人の友とはなり得ない」「羊千匹よりも獅子一匹」等と、一人立つ勇者の道を宣揚され、みずからもその道を踏破されました。
 リハーノフ それらの考え方は、ロシア文化のなかにも見られるものです。
 池田 もちろん、私は、そうした自覚的な勇気ある決断や行動が、子どもたちに、すぐさま可能であるといっているのではありません。そうした信念は、人生経験を積み、幾多の風雪のなかで鍛え上げられていく以外になく、まずもって、大人が範を示していくべき性質のものでしょう。
 しかし、善と悪とのコントラストという構図は、より素朴で粗けずりなかたちで、子どもたちの世界にあっても、姿を現じていることは否定できません。
 「犬の群れの論理」と「正義と善の力」「勇気」との対峙にしても、たとえば、いじめに遭い、怒り心頭に発したいじめられっ子が、必死になって、いじめっ子にくらいつき、挑んでいったところ、意外なかたちで事態が好転していく突破口になった、などという話を耳にすると、善の力と悪の力が対峙し、火花を散らしゆくドラマは、子どもたちの世界ならではの、粗けずりであるだけ、いっそう輝かしい光彩を放っているのではないか、という気さえします。
 たしかに、そういう話は、例外的なもので、実際のいじめは、もっと陰湿で、暗いやりきれなさを感じさせるものが大部分であることは、十分承知していますが……。
3  教え子への献身を貫いたロシアの教師
 リハーノフ 残念ながら、おっしゃるとおりです。
 日本でもそうでしょうが、ロシアの現状を見ると、実際にはなかなかそのようにドラマチックにはいっていません。
 子どもたちは、いじめられる側からいじめる側に移ることによって、まるで問題が解決したかのように思い込んでいます。それは間違いで、本当は、ただ、打ちのめされて弱くなっているだけなのです。いじめの力に負け、同じような人間になってしまったのです。
 ロシアでは、こうした問題が過去にもあり、現在も存在しています。とくにこの問題が目立っていたのは、戦後の時代ではないでしょうか。私は、そのテーマを取り上げ、二冊の長編小説『清らかな石』と『男子学校』を書きました。
 池田 そうした作品も、われわれが論じているテーマに関係があるわけですね。
 リハーノフ とくに『男子学校』は、自叙伝に近い作品です。もちろん小説なのでフィクションの部分はありますが、基本的には自分自身について書きました。
 ただ、小説としていったん出版されると、今度は、自分の作品を、第三者の目で見られるようになります。この作品を読み返してみて驚いたのは、私自身をモデルにした主人公が、ちょうど今、私たちがこの対談で取り上げているテーマにとって、恰好の例を見せていることです。
 池田 なるほど。もう少しくわしく紹介してください。
 リハーノフ 私が小学校に入ったのは、戦争が始まってまもなくのことでした。当時はまだ、男女共学制がとられていましたので、私は共学の学校で勉強を始めましたが、この時期は、スターリンの命令で、男女別の学校が組織され始めていた時でもありました。このため、共学校と別学校の違いに苦しんだ子どもは少なくなかったと思います。私も、そのような子どもの一人でした。
 私の場合は、初等学校の四年間を共学で勉強しました。その時の先生チェプリャシナは、すばらしい人でした。彼女は、そのころ、もうかなり年配で、私たちの学校がまだ教会付属小学校と呼ばれていた革命前から、教鞭を執っているとのことでした。
 革命ののち、学校が公立になったのにともなって、おそらく、私たちの先生は、教育方針やカリキュラムなどを変えるよう迫られ、どれほどか悩んだだろうと思います。それでも彼女は、子どもにいかに接するかという最重要の問題については、教育者としての自分の信条を貫いていたようでした。
 当時のロシアの教師のなかには、教え子たちに献身するというナロードニキ的遺訓にしたがって、みずからは、家庭や子どもを持たない者が多くいました。
 池田 “ヴ・ナロード”(民衆のなかへ)をスローガンにしていたナロードニキ運動のもっとも良質な部分ですね。
 リハーノフ そのとおりです。
 私たちのチェプリャシナも、そんな先生の一人でした。彼女は、国語、算数、社会、書き方と全教科を一人で教えてくれました。
 なかでも、彼女が私たちにいちばん力を入れて教えてくれたのは、心根のよい人になること、自分を大事にするのと同じように他の人を尊敬すること、読書を愛すること、そして、とくに潔癖を重んじることでした。
 戦争の飢餓で人の心がすさんでしまっていた学窓の外の濁った空気は、なぜか、私たちの小さな学舎の中には入り込んできませんでした。そのせいか、私たちは四年生の終わりまで、汚い言葉を使うのを恥ずかしく思い、乱暴はできず、およそ、何かから自分を守らなければならないというふうに考えたことがなかったのです。
 池田 小さい時であればあるほど、そうした先生の影響力は強いものです。たしかに、教師は「聖職」という側面を持っています。
4  ケンカが下手というだけで“いじめ”に
 リハーノフ ええ。ところが、それが突然、一度にガラガラと崩れてしまいました。四年で初等学校を卒業し、今度は男子中等学校に進むことになりました。この男子校で、学校教育の最後までを受けましたが、そこの校風は、今までとまったく違っていました。
 昨日までよいと思っていたことが悪いことになり、長所は短所になってしまいました。たとえば、私は下品な言葉を使ってケンカをすることができませんでした。それまでは、だれからもそういうことを要求されなかったからです。反対に、そんなことをしたら叱られるのがふつうでした。ところが今度は、ケンカが下手だということで、新しい友だちの笑い者にされたのです。
 以前は、成績がよいことが評価されたのに、今は黒板の前に出てしっかりした解答をしたりすると、かえって馬鹿にされてしまい、優等生という言葉は、今度の学校では一種のさげすみに近い意味で使われました。
 周りの友だちはなぜか、私がケンカが下手なのをすぐに感づいたようで、放課後いつも「コサルカ」(一対一のケンカ、愚鈍な二人の暴れん坊が周囲にはやし立てられながら行う対決、観衆が解説をくわえたりする)に呼び出されるようになりました。
 そしてついには、自分が思った本当のことを言ったために、裏切り者にされてしまいました。私は、集団の掟とか真実というものが、どれほど本当の真実とは違うものなのかを思い知らされることになったのです。
 以来、私は仲間外れにされるようになりました。冷やかしとからかいが絶えず、いつもいじめの対象にされるようになりました。
 池田 そうでしたか。その時、教師やご両親は知っていましたか。周囲の人たちは、何らかの応援なり、救いの手を差しのべることはありましたか。
 リハーノフ 母親とか先生とか、大人に助けを求めたり相談したりすることは、仲間に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。父は戦争に行っていて、いませんでした。
 このようなわけで、私はある意味で、はっきり心理学でいうデプリベイション(欠乏状態、喪失感)をかかえていました。たとえば、ケンカが下手なことです。自分を拳骨で守ることができませんでした。それが私の欠点であり、デプリベイションだったのです。
 さらには、悪態をつくことができませんでした。当然、そういう悪い言葉は知っていました。子どもならだれでも汚い言葉を聞き知っているわけですが、だからといって使うかどうかは別です。ところが、私の新しい仲間たちは、公用語では使ってはいけない巷の汚い言葉、スラング(俗語)を連発して自分の感情を表現するのでした。
 池田 偽悪者ぶって得意になっているというのは、子どもの世界によく見られる傾向です。反抗期の一つの表れとして――。
 リハーノフ そこで問われるのは、欠乏状態をかかえているのはどちらだったのか、ということです。私なのか、それとも私のクラスの仲間たちなのか。
 教養のある人には、ふつうの口語を話せることで事足りるはずです。でも、私も、私の“ダチ”たちも、およそ教養というものをよいことだとは考えていませんでした。むしろ、その逆だったのです。
 言葉が汚ければ汚いほど、親密な仲間だということで、仲間内で通用する資格があるだけでなく、大人の世界、つまり、周囲からの監視のない世界にも、通じているということでした。つまり、スラングで話すことが一種の通行証のようなもので、そうすれば、仲間と認めてもらえるわけです。
 そういう基準で見ると、私は明らかに言語障がい者だったわけで、言葉の欠乏状態をかかえていたことがわかります。それと同時に、まったく別の視点から見れば、何の制約も受け入れられず、また罵り言葉なしだと会話ができないというのも、一種の心理的欠乏状態の症状で、こちらのほうは、私の仲間たちが持っていた問題でした。
 ところで私は、これまでに初等学校で受けたしつけを意識的に踏みつけて、街のごろつきが使っている言葉を覚えることにしました。それがよかったかどうかは別として、ともかく、そのおかげで、少しは友だちの中に入るチャンスを手にすることができたのは、事実でした。
 池田 見当外れの質問かもしれませんが、その時、いじめられていたのは、総裁一人だったのでしょうか。周恩来少年のように、仲間を糾合して、対抗し
 ていくという方法は、考えられませんでしたか。学校全体が、そういうことのできる雰囲気ではなかったかもしれませんが……。
 リハーノフ 私の場合は、他校から来た新参者は私一人だけ、という状況だったのです。
 十二歳、十三歳、十四歳という多感な時期に、私の場合、何度も文化的に低いほうに、下りていかなくてはならなかったのです。友だちの中で、何とか自分という存在を守るためには、みんなと同じでなければだめだったからです。そして、のちにそこからふたたび上に上るのは、たいへんなことでした。
 池田 今の日本の学校にも、似たような状況が見受けられます。
 リハーノフ 私は、初等学校では成績はよいほうでしたが、中等科では目立たないように、いつも皆とならんで、五段階で「3」ぐらいにいることを覚えました。
 ところが、クラスの仲間たちは、底なし沼のような深みから、いつしか這い上がり始めていて、学年が上がるにつれて、顕著に成績を伸ばすようになりました。私のほうは、いい学校から移ってきたあと、高いところから宙返りして低いほうに下りて、みんなと交ざろうと努力した果てに、ふたたび飛翔することにとまどいました。
 この“飛び立ち”はもう、仲間と集団でというわけにはいきませんでした。それぞれが、人知れず準備を進めているという具合でした。八年生(中等教育の最終学年)に近づくと、進路を決めなければならないという切実な課題に迫られました。
 多くの級友たちは、いつのまにか羽目を外すのを控えるようになり、実地で役立つ代数や幾何学、製図に取り組み始めていました。将来の職業として
 エンジニア、機械屋を選び、それにあった科目に力を入れだしていたのです。
 ところが、私のほうはというと、あまり理数系が得意ではなく、おまけに、すっかりのんびりするのに慣れてしまっていたせいか、今度はみんなに追いつくのに一苦労しなくてはならなくなりました。
 池田 おっしゃることはよくわかります。子どもは、どんどん変化していくものです。
 リハーノフ そういった転換期には、その子どもがどういう友人を持っているか、また、どんな大人がそばにいて、本当の励ましの一言をかけてあげられるかが、何よりも大事になってきます。
 なぜなら、たとえ一つのことで劣っている子も、必ず、別の何かで優れているものを持っていて、挽回できるからです。しかし、子どもを取り巻いている環境は、彼と同じような子どもたちです。その幼稚な考え方で、いったんある種のレッテルを貼ってしまうと、それは張り替えるのは容易ではないのです。
 でも、本人が本気になれば、決して不可能ではないし、人の考えは変わるものです。それを助けてあげる役目を大人は果たしていくべきでしょう。
5  父を処刑された少年を励まし支えた教師
 池田 アイトマートフ氏も、私との対談の中で、そのことにふれていました。
 氏の父君トレクル・アイトマートフ氏は、一九三七年、当時吹き荒れていたスターリンによる粛清旋風に巻き込まれ、処刑されてしまいます。三十五歳の若さでした。
 ちなみに、世界を震撼させた九一年のソ連保守派のクーデターの直前、粛清の犠牲者を葬った、ある秘密の場所が発見され、その中からトレクル・アイトマートフの名が入った紙が発見されて、五四年ぶりに、不明だった父君の埋葬地が判明したという、衝撃的なエピソードもありました。
 父が処刑されたとき、アイトマートフ氏は小学生で、筆舌に尽くせないほどの苦労とつらい思いを味わったそうです。なにしろ、父親を政治的に疑わしい人物であると公的機関に密告し、銃殺に追いやった少年の行為が、公式に称賛されていた時代ですから。
 リハーノフ 氏の苦しみが、痛いほどよくわかります。
 池田 そうしたなか、アイトマートフ少年を支えてくれたのは、そうした全体主義的イデオロギーに染まらぬ大人たちだったそうです。
 ある村の小学校の先生は、「君は自分の父親の名前を言うとき、決して眼をふせるな!」と励ましてくれたそうです。氏は、その言葉を「絶対に忘れません」と、こう語っています。
 「今となっては想像することも困難ですが、その先生は、考えることすら空恐ろしいことを口にするのを恐れなかったばかりか、私が父親を誇ることができるということを――今は彼の言葉の意味が理解できますが、当時はただ言葉の温もりが感じられただけでした――、私に言うことを恐れなかったのです」と。
 アイトマートフ少年は、この先生の短い言葉が伝えてくる「善」や「正義」、そして「勇気」のメッセージを、鋭く、誤たず感じとっていたにちがいない。そして、幼心に焼きついたその一言が、その後の彼の人格形成に、どれほど大きな力になっていったことでしょうか。もし、その先生の存在がなかったとしたら、彼は「犬の群れの論理」に飲み込まれてしまったかもしれません。
6  君でなければできない使命がある!
 リハーノフ 私の場合、何がきっかけになって、この群の力に抵抗できるようになったかをお話ししてみたいと思います。
 ある日、ふらっと競技場に出かけてみたとき、そこでたまたま先輩に出くわし、彼は私をスキークラブに連れていってくれました。
 それがきっかけとなり、その後、私は彼と一緒に陸上競技を始めることにしました。コーチをしてくれたのは彼のお父さんで、陸上の教え方も上手でしたが、それ以上にすばらしい人であり、教育者でした。彼は、私たちに自己を確立すること、そう、男子として自立することをうながしてくれました。
 自分が、より粘り強く、より頑強になったと感じることは、男子にとって、とくに大事なことです。コーチは陸上の練習を通じて、私が以前には夢にも考えられなかったことを可能にしてくれました。
 その冬、学校でクロスカントリー(原野や森林などを横断するコースでの競走)が行われたとき、私は、いじめっ子の級友たちを次々にぬかして、先頭に出ることができたのです。それで、拳骨をふるわずして、一挙に自分の強さを証明することができたわけです。
 やはり、うるわしきは青春時代です。ともかく、いつの世も、いずこの国でも、青少年の友だちづきあいにあっては、何かで力をつけることが、自分の存在を認めさせる絶対条件のようですね。
 ある部分での私の欠点、他の人より劣っている点、ある一つの基準で見たときの欠乏状態は、ほかの何かで長所を引きだすことで、しだいに埋められるようになっていきました。ちょうどシーソーのように、一つダメだったら、別のことで挽回すればよい、と。
 池田 欠点を指摘するよりも、長所を見つけ出してほめてあげること――これは、人を育てるさいの鉄則ですね。
 どんな子どもでも、その子ならではの個性と何らかの長所を必ず持っているものです。そこに“追い風”を送ってあげると、才能の芽は急速に開花し、人格的な面でも、驚くほどの成長を見せる例がしばしばあります。
 かのチャーチルにしても、パブリック・スクールに入学したときは、ラテン語は零点、最下位で合格した、いわゆる劣等生であった。しかし、国語である英語を猛烈に勉強し、のちに、ノーベル文学賞に輝くような名文と、戦時下のイギリス国民を奮い立たせる雄弁の基礎を築いています。
 また、アポロ打ち上げの立役者の一人であるドイツのフォン・ブラウン博士にしても、勉強が好きでなく、成績も決してよくなかった。その彼が、母親が折にふれて語ってくれた星の話に触発されて、天文学が好きになり、苦手の数学も克服して、ロケット研究の第一人者になっています。
 日本では、標準的な“秀才”をつくりだすことに使われた「偏差値」などというものが、いまだに幅をきかせていますが、チャーチルにしてもブラウンにしても、その基準に照らせば“落ちこぼれ”の部類だったわけです。
 子どもたちの可能性は、もっともっと幅広く見ていくべきであり、あたら才能の芽をつむようなことがあってはならない。ゆえに、私は若者たちに、こう訴えています。
   われには われのみの使命がある
   君にも
   君でなければ 出来ない使命がある(「青年の譜」。本全集第39巻収録)

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