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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 幼年時代、それはまえぶれではな…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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8  「子ども的なるもの」を保ちゆく大切さ
 池田 “猫かわいがり”もよくないが、だからといって、“無関心”であってよいはずはない。子どもとの間にきちんとしたスタンスを保つことは、意外にむずかしいものです。
 リハーノフ 私は、日本でも翻訳された自著の『けわしい坂』(島原落穂訳、童心社)の中で、父と子の関係と、そのあり方について書きました。戦争でたいへんな時代、出征などでなかなか子どもに会えない父親が、男の子に「だめだと思う気持ちに、勝ちさえすればいいんだ」「だめだと思う心に勝つことだ」という一つのことを教え込む。その愛情に満ちた訓練のふしぶしを描きました。
 池田 心に残る佳品ですね。
 われわれが子どもたちともども「全体人間」を志向していくためには、われわれの「大人的なるもの」のなかに、いつも「子ども的なるもの」を保ちつつ、大切に育てていかなければならないでしょう。
 なぜなら、この「子ども的なるもの」こそ、人間や自然、宇宙など、物事へのみずみずしい感受性という点で、「全体人間」の胚種をなしており、巧まずして大宇宙を呼吸し対話しゆく体現者であるからです。
 リハーノフ おっしゃるとおりです。
 池田 残念ながら近代文明は、物質的な豊かさとは裏腹に、そうした豊饒な感受性――そう、レフ・トルストイが『コサック』の中で、エローシカ叔父に濃密に体現させていた、大自然の子としての感受性です――を、あまりにも涸らしてしまいました。
 自然や宇宙、時には人間さえも客体化され、科学や合理主義のメスで切り刻むことの可能な、よそよそしい対象へと堕してしまいました。
 リハーノフ トルストイがヤースナヤ・ポリャーナの一角で児童教育に全力をあげていたのも、大きく言えば、そうした文明の危機を、ガンジーなどと同じ次元で感じとっていたからにちがいありません。
 池田 人間不在の浅薄な近代文明にあって、「子ども的なるもの」は、「大人的なるもの」に到達する以前の、未熟にして未完な“半人前”の扱いしか受けることができませんでした。
 当然の帰結として、現代人が手にするにいたった「大人」社会は、「子ども」を見失った「大人」社会であり、何とみすぼらしく、何と砂をかむような味気なさ、生気のなさでありましょうか。子どもたちが生き生きと成長できる場とは、およそかけ離れています。
 その意味では、文明の危機は、まずもって教育の危機という形で、もっとも尖鋭的に噴出してくるのかもしれません。
9  子どもになることは巨人になること
 リハーノフ あなたとキルギス共和国の著名な作家チンギス・アイトマートフ氏との対談(『大いなる魂の詩』。本全集第15巻収録)を、興味深く読ませていただきました。
 その中で、アイトマートフ氏が、みずからの手になる『ソ連諸民族民話集』の序文を援用している個所がありましたね。氏は、ヤヌシュ・コルチャックの『私がふたたび子どもになる時』に言及しながら語っています。
 「子どもになるということは巨人になることです。私はふざけているのではありません。恐ろしい自然現象を屈服させることができるのはまさに子どもなのです。子どもは、だれかを不幸から救いだすためならば、どんな自然の猛威とも、胆力・品性あわせもつ中世の騎士よろしく戦う覚悟をもっています。そして子どもは未知とも戦います。そしてつねに勝利します。どうしてでしょう?なぜならば、ここでもふたたび、自分のためではなく、虐げられ、辱められている者たちの幸せのために戦うからです」と。
 アイトマートフ氏は、いくぶん含みをもたせて語っていますが、「子ども的なるもの」こそ、まさに「巨人」のように、人々の通念や常識を打ち破って、創造的な仕事をなしていく母胎と言えないでしょうか。
 池田 事実、科学の分野であれ、芸術の分野であれ、創造的な仕事をした人は、ほとんど例外なく、いくら年をとっても「子ども的なるもの」、みずみずしい感受性を、じつに豊かに保ち続けています。
 そのような創造性をつちかう場である教育の世界が、おしなべて、先進国であればあるほど深刻な病状を呈しているということを、大きな文明論的な課題として、重く受けとめていかなければならないと思います。
 リハーノフ そのとおりです。私たちはこの対談で、ぜひとも、その共通の課題について論じ、解決の方途を見いだしていきたいのです。
 池田 二十世紀とは、十九世紀末に幾人かの先哲が警鐘を鳴らしていた近代文明の歪みが、現実の問題として危機的様相を露にしてきた時代と言えると思います。
 ですから、巷間二十世紀の三大発見――じつは再発見だと思いますが――の一つに、「未開」「無意識」とならんで「子ども」の発見が挙げられているのも、私は、十分にうなずけるのです。
 リハーノフ まったく同感です。この章のタイトルに、池田会長に無断で(笑い)、「幼年時代、それは人生のまえぶれではなく、人生そのものだ」と銘打たせていただいた思いと、まったく符合しています。
 池田 「無断」どころか、さすが「先見」(笑い)です。
 「未開」に対するに「文明」、「無意識」に対するに「意識」、「子ども」に対するに「大人」の絶対的優位のもとにひた走り、今日の危機的様相を呈してしまっているのが、ヨーロッパ主導の近代文明の偽らざる現状であるからです。
 私が「創価教育」に託している夢は、仏教の“縁起観”を背景に、牧口会長の教育学説に源を発する「全体人間」を復活させ、袋小路に入り込んでいる現代文明に、突破口を切り拓いていきたいという思いなのです。

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