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日蓮大聖人・池田大作

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「新たなる人道主義」の世紀  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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7  「歴史観」の機軸となる「時間観」の転換
 池田 近代の拡張主義や進歩主義が破綻した原因を、歴史観の側面から論ずれば、時間を「過去」「現在」「未来」の三つに分割して、その直線的な進歩の延長上に、ユートピアの未来図を描き出してしまった点にあります。
 そのため「過去」といい、「現在」といっても、もっぱら「未来」のために手段として奉仕する以外になく、そうした「未来」が、いかに生あるものを食いつぶし、歴史を蹂躙してきたかは、再言するまでもないことでしょう。やはり、「歴史観」の機軸となる「時間観」の転換が必要です。
 人間にとって、最も切実にして重要な「時間」とは何か――それは、人間的営為とは無関係に、過去から未来へと過ぎゆく「無機的な時間」ではなく、人間によって「生きられる時間」、人間がもつ生きる精神の内奥と、深く響き合っているような「生きた時間」の感覚です。その点、ベルジャーエフの「歴史観」「時間観」は、たいへん学ぶべき点が多いのではないでしょうか。
 「歴史においては、一筋の直線をなして実現する善の進歩、完全性の進歩――それによって未来の世代が過去の世代よりも高いところに位置するというような進歩は存在しない。歴史においては、人間的幸福の進歩も存在しない。――あるのはただ存在の内的諸原理、たがいに相反する諸原理、光明と暗黒と、神と悪魔と、善と悪との諸原理の悲劇的な、いよいよ深いところに達する開示のみである。この矛盾の開示に、この矛盾の示現にこそ、人類の歴史的運命の至高の内的意義がある。もしわれわれが人間意識の歴史におけるなんらかの進歩を主張しうるとすれば、その進歩は人間的存在における悲劇的矛盾の内的開示の結果としてあらわれるこうした意識の先鋭化である」(『進歩の理論と歴史の終末』、『ベルジャーエフ著作集』1〈氷上英廣訳〉所収、白水社)
 こうしたベルジャーエフの知見について、どうお考えですか。
 ゴルバチョフ ロシアの古典文学、その心を私が知る限りにおいて申し上げられることは、私たちロシア人というものは、つねに直線的な「無限の進歩」、もしくは未来に向かっての「無限の競争」という考え方には、慎重な態度をとってきました。
 ベルジャーエフはしばらく惜き、池田さん、あなたはこの対談のなかで、グルツェンを引用されました。グルツェンは、人間の生命をむさぼり、その人間たちが死んだ後には、すばらしい世界が地上に実現することを約束しているモローク神に、激しく抗議をしています。
 「際限のない目的は目的ではない、こう言ってよければ、たくらみ」と。
 興味深いことにグルツェンのあと、この「無限の進歩」という考え方に反対したのは、レフ・トルストイでした。彼は、みずからが賛同できない歴史観として、西欧の歴史観をあげ、その対極に、みずからに親しい歴史観として、東洋の歴史観を置きました。彼は論文の中で次のように書いています。
 「常識が私に語るところでは、もしも人類の大きな一部であるいわゆる東方民族全部がけっして進歩の法則を確認してはいずに、むしろそれを否定しているとすれば、この法則は全人類のために存在しているのではなくて、存在しているのは――人類の一小部分におけるそれへの信仰にすぎないのである。(中略)私は人類生活に対するいかなる一般法則をも発見することはできない。歴史を進歩の思想のもとに置くことが容易なのは、ちょうどそれを退歩の思想とか、勝手な歴史的空想のもとに置くのが容易なのと同じである。さらに言えば、歴史のなかに一般法則を求めることは、その不可能なことは論外としても、私にはその必要がまったくみとめられないのである。一般的な永遠の法則は各人の心のなかに書かれてあるからである」(『進歩と教育の定義』中村融訳、『トルストイ全集』17所収、河出書一房新社)
 池田 東洋人の一人として、深く共感できます。
 ゴルバチョフ 一言付け加えて言えば、不幸なことに、わが国の偉大な思想家たちの警告の言葉は、勤労大衆の傾聴するところにはなりませんでした。そしてわが国の人々は、先ほどのモローク神の法則に従って生き、行動し、スターリン的社会主義を建設してきました。
 こうして幾世代かにわたって、ソビエトの人々は、なかんずく労働者と農民は、極貧のなかで働きつづけてきました。とくに三〇年代にあっては、飢餓にもかかわらず、決してだれもたどり着くことのない共産主義の未来という大義名分のために、自分たちの生活を犠牲にしてきたのです。
 池田 途方もない悲劇でしたね。ところで、なぜ私がベルジャーエフに注目するかといえば、彼は、唯一、進歩の名に値する進歩が可能となる内面のドラマ、すなわち「意識の尖鋭化」がなされる場、次元を「未来も過去もいつとなる永遠の現在」と言っており、そうした「時間観」が、仏教の考え方ときわめて親近しているからです。
 仏典にも「過去と未来と現在とは、三つに区別されるけれども、一念の心中の理でありゆえに無分別である」として、時間を分割してとらえることを厳しく戒めています。そして「過去の因を知ろうと欲するならば、その現在の果を見なさい。未来の果を知ろうと欲するならば、その現在の因を見なさい」として、現在の、生きられている時間の一瞬一瞬に、スポットが当てられているのです。まさにベルジャーエフの言う「未来も過去も一となる永遠の現在」と、強く響き合っているところです。
 したがって、仏教で説く「久遠即末法」という法理も、過去から現在へと直線的に流れくる時間的な長遠をさすのではなく、「過去・現在・未来が無分別の一念」、ベルジャーエフ流に言えば、「永遠の現在」と表現される、永遠の生命観の異名なのです。そこに「諸経の王」と称される法華経に説かれた、生命哲理の極説が尽くされているのです。
 ゆえに、仏典には「久遠」というのは、時間的な起点ではなく、「はたらかさず、つくろわず、もとのまま」すなわち、一切の作為が加えられていない生命の究極の真理と説かれており、仏教における「時間観」の精髄が、直線的で無機的な「死せる時間」ではなく、より深い生命の内奥に脈動する「生きた時間」にあることを物語っています。
8  民衆主体の時代変革への条件
 池田 仏教における歴史意識は、そうした「時間観」のうえに構成されています。普通、歴史意識というと、キリスト教的伝統に特有のもののようにいわれています。しかし、神の再臨を軸とするキリスト教的終末観とは、結構けっこう(組み立て)を異にするとはいえ、仏教にも、歴史意識と呼ばれるものは、明確に存在します。
 たとえば、釈尊滅後の千年間を「正法」、次の千年間を「像法」、それ以後を「末法」とする時代区分がそれです。そして、「正法」から「像法」「末法」へと、ってくるにつれ、時代は濁悪化して、釈尊の教えの効力も薄れ、それぞれの時代に即応した仏教のあり方がなければならない、とされているのです。そこから、末法思想を背景にした危機意識をバネにして、新たな時代の展望を切り拓く歴史意識、歴史への遠近感覚というものが形成されてきます。
 重要なことは、大きく転変しゆく時代の節目節目への対応の仕方が、いかにも仏教らしく、じつに柔軟かつ細心を極めているということです。抽象的な理論の枠組みで、現実を一方的に裁断していくのではなく、それぞれの時代状況やそれに即応して広まるべき法、民衆のニーズがどこにあるか等、ゲーテの言う「その国民の本質から、その国民自身の共通の要求から生じてきたもの」(前掲『ゲーテとの対話』)への見極めが、慎重のうえにも慎重になされなければならないとされているのです。
 ゴルバチョフ 池田さん、友人であるあなたから、仏法の時間の観念について話をうかがい、たいへん大きな関心をいだきました。とくに、法をはじめ、なんらかの理念を広めようとするものは、″時代の声″に敏感に耳をかたむけ、その時代の人々の「意識」に、鋭敏に反応していかなければならない、という考え方に心から共感をおぼえます。
 池田 ご理解、感謝いたします。一例をあげれば、仏がこの世に出現し、法を説く場合には、「時応機法」という四つの条件が満たされなければならないとされています。
 「時」とは時代状況であり、「応」とは化導する仏の振る舞いですが、敷衍して言えば、リーダーのあり方ともいえます。「機」とは民衆の心根であリニーズ、「法」とは、説かれるべき法体、敷衍すれば、思想であり指導理念となります。
 少なくとも、この四条件が満たされていなければ、民衆が主体となった時代変革は、スムーズに成就しない、と説かれているのです。私は、ゲーテが「そこには神がいないからだ」と比喩的に述べるとき、そうした諸条件のなんらかが欠落している状態をさしているのではないか、と思えてなりません。
 ゴルバチョフ 一般的に考えても、隣人を助け、彼らの魂の救済を願う者は、あなたのおっしゃるように「心して柔軟かつ細心を極めていく」べきでしょう。
 私がこのように思うのは、ペレストロイカの経験と失敗に照らしてのことです。ペレストロイカを行ったさい、その主要な問題において、私たちは正しかったのですが、残念ながら現実的な対応という次元では、多くの試行錯誤がありました。
 一般大衆は、激しい変化についていく用意ができていませんでした。そして、慣れ親しんだ価値観と、偶像から離れる用意もできていなかったのです。
 私にはそれがわかっていました。だからこそ私は、その点を考慮して行動したつもりです。ときにそれがかんばしい成果を生まなくても。しかし、致命的だったのは、自分の理解した真実のすべてを一時に言ってしまおう、理解させようという知識層の性急さでした。そのような彼らの意図は、無数の一般庶民の期待から大きく外れてしまったといわざるをえません。
 一方、私には、行動が緩慢で、決断力のない弱い政治家という「永遠のレッテル」が張られてしまいました。このような不見識がいかなる結果を招いたかは、あらためて述べるまでもありません。
 池田 いかなる正義も、また道理も、狂える社会では、正当に評価されないばかりか、逆に集中攻撃さえ浴びかねない。私も、その人間社会の方程式を、自身も体験し、よく知っているつもりです。しかし、長い歴史から見れば、絶対に真実は隠せない。正義は必ずや証明されていくと確信しています。

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