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日蓮大聖人・池田大作

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「内なる革命」による人間主義  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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13  ″賢人たちこそ民衆に学ばねばならない″
 池田 なるほど。私が先に申し上げた「他者性の尊重」「他者性の習慣化」に寄せていえば、私は、ロシアの精神史には、このテーマを実りあらしむるための豊かな水脈が流れているように思えてなりません。それは、私が接してきた多くのロシアの友人からも感じとれます。ドストエフスキーの獄中記『死の家の記録』の描写などは、その精神の水脈を、鮮やかに垣間見せています。
 獄中の祭りで芝居が演じられたとき、囚人たちが、″芝居通″と目されているゴリャンチコフ(=ドストエフスキー)を、たいへんな混雑のなか、こころよく前方のよい席へと案内する。自分たちの芝居をほめてもらいたくて――。それを受けて、作家は書きます。
 「彼らの自分(=ドストエフスキー)に対する公正な判断には卑屈さはまったくなく、かえって自分の価値に対する正しい感情があったように思われたのだった。わが国の民衆のもっとも高い、そしてもっとも鮮明な特徴――それは公正の感情とその渇望である。その人間にその価値があろうとなかろうと、どこででも、何が何でも、かきわけてまえへ出ようとする雄鳥おんどりの悪い癖――そういうものは民衆にはない。うわつつらの借物の皮をひんむいて、ほんとうの中身をもうすこし注意して、もうすこし近づいて、いっさいの偏見を捨てて観察しさえすれば――見る目のある者は、民衆の中に予想もしなかったようなものを見いだすはずである。わが国の賢人たちが民衆に教えうることは少ない。わたしは確信をもって断言するが――その逆である。賢人たちのほうこそまだまだ民衆に学ばなければならないことが多いのである」(工藤精一郎訳、新潮文庫)
 ゴルバチョフ そうですね。ドストエフスキーが、わが愛するプーシキンについて語った件を、私は何度も読み返しました。それは、「他人のこと」「他人の心」を理解できるというロシア人のもつ特性について、ドストエフスキーが語っている部分です。
 池田 先にも申し上げましたが、私の友人に、先年亡くなったモスクワ児童音楽劇場のナターリア・サーツ女史がいます。
 彼女は自伝『私が見つけた「青い鳥」』の中で、収容所で劇団を組織することが許され、みずから演出したときの喜びを、芸術家らしい生き生きとしたタッチで描き出しています。
 そこに躍動している喜びは、ドストエアスキーが感じとっている民衆の魂の部分と、深い次元で通じ合っていると思います。それは、まさしく「他者性」を育む沃土であるとはいえないでしょうか。
 ゴルバチョフ ドストエフスキーの言葉に、私は付け加えることはなにもありません。彼は言いました。
 「ロシア人の魂、ロシア民衆の天才(=プーシキン)は、おそらくあらゆる国民の中で、全人類的一致団結、同胞愛、健全な物の見方という理念を最も多く内包する能力をもっている。(中略)
 この健全な見方があるゆえに、敵対するものを許し、似ていないものを識別してもそれに寛容な態度をとり、矛盾するものを除き去ることができるのである。その特徴は経済的とかその他もろもろの特徴ではなく、単に精神的特徴なのであって、これがロシア民衆の中にないなどと、否定してみたり異議を唱えたりすることのできる者がいるだろうか? ロシアの民衆は単に、沈滞せる旧態依然たる大衆であって、わが民衆の上にお高く止まっているわが国のヨーロッパ的なインテリゲンツィヤの大成功と発達に、経済的に単に奉仕する運命なのである、なにしろ民衆それ自身は、内に死んだように沈滞を蔵しているだけだから、何も期待すべきではなく、まったく何の希望もよせることはできない――こんなことを誰が言い得るのか? 残念なことだが、こういう断言の仕方をしている人は数多いのである。しかし私はあえて別の言い方をしてみたのである」(『作家の日記』川端香男里訳、『ドストエフスキー全集』19所収、新潮社)
 池田 あなたは、今じつに的確に引用してくださいました。ゲーテは、真の国民文学こそ真の世界文学である、という趣旨のことを言っていますが、ドストエフスキーのそうした言葉にも、彼の文学の世界性の一端を見る思いがします。
 ところで、なぜ私が「習慣化」ということを強調するかといえば、文化とは生き方の様式であり、その様式こそ習慣にほかならないからです。人と人とが出会ったときのあいさつに始まり、各民族はそれぞれ固有の習慣をもっており、もしそれが破壊されてしまうと、人心は動揺し、社会は不安定の度合いを増してしまいます。
 もとより、習慣といえども変化するもので、過度の固定化は社会を硬直化させてしまいます。だからといって習慣のない社会など、とうてい人間の社会とはいえない。
 なぜなら、自己といい他者といっても、習慣という様式において顕現され、意思の疎通が図られていくからです。
14  民衆は強し 権力は弱し
 池田 ミシェル・ド・モンテーニュ――古今東西、彼ほどこの習慣のもつ大きな力、はたらきを巨細きょさいにわたって観察した人はありません。その結果、彼は「私の考えでは、習慣のなさないもの、もしくはなし得ないものは一つもないと思うのである。聞くところによるとピンダロスは習慣を世界の女王、世界の女皇と呼んだそうだが、いかにももっともである」(『エセー』原二郎訳、『モンテーニュー』所収、筑摩書房)と述懐しています。
 モンテーニュの『エセー』は、私の″青春の一書″ですが、この習慣の重視に象徴されるように、いささかの無理や強制によることなく、強くもあれば弱くもある人間の人情のヒダのなかに分け入り、条理を尽くして、一歩一歩、人間性の光沢を増していこうとする彼の処世法は、まぎれもなく、われわれがこの対談で何回となく合意してきた「漸進主義」そのものではないでしょうか。習慣というものは、子どものしつけ一つとってみても明らかなように、粘り強い漸進的な努力を通してしか、決して身につかないからです。
 ゴルバチョフ よくわかります。「急進的な態度」は、つねに危険性をはらんでいるものです。
 池田 近代文明は――ボルシェビズムのような野蛮なやり方であれ、民主主義のような巧妙なやり方であれ――この習慣というもののもつよきはたらきを、おしなべて破壊してしまったといっても過言ではないでしょう。
 その結果、人々は、人と人との絆を断たれ、不安と孤独のなかにたたずまざるをえなくなっているのです。青少年の健全なる育成ということが、世界的な大問題としてクローズアップされているのも、かつては良き習慣を身につける″場″であった家庭や学校、社会が、本来の機能を失ってしまっていることのなによりの証左なのです。
 したがって、二十一世紀へ向けての大きな課題は、他者性の尊重・習慣化を可能ならしむる生き生きとした″場″を、どのように創出していくかということではないでしょうか。私どもの進めている仏法運動の社会学的な意義もそこにありますし、私が、「教育こそ生涯最後の事業」と深く期しているのも、広い意味での人間教育こそ、仏教のめざすものの必然的な帰結であるからです。そうではありませんか。
 ゴルバチョフ 池田さん、私よりもよくご存じかもしれませんが、トルストイをはじめとするロシアの知性は、仏教に対して尊敬の念をもって見ていました。このことは、ロシア人や全スラブ民族が、精神的に東洋に近い感覚をもっていることを物語っているのではないでしょうか。
 今、私たちにいちばん必要なのは、東洋的な慎重さ、平静心、伝統を大切にする心であると思います。
 池田 総裁の深い思いは、よくわかります。おっしゃるとおりと思います。
 ゴルバチョフ モスクフのホワイトハウス(最高会議ビル)に、戦車砲が打ち込まれた「黒い十月」から一年が経過しようとしたころ、私は、あの出来事を時折、自分の頭の中で反復してみたものでした。
 正直申し上げて、当時、私には、どうしても理解できない一つの疑問が残っていたのです。十月三日、四日とその後の数日間に私たちが目撃したことは、最もショッキングな事件だったはずです。にもかかわらず、なぜ人々はおしだまって、何も言おうとしなかったのか、何も語らないのか? ところが、あるとき、突然、私は、この解答不能と思えた自問に対する、きわめて単純明快な答えを見いだしました。すなわち、民衆は沈黙しているわけではない。民衆の心が死んだのではない。民衆はただ賢明なのだ。民衆はすべてを見て知っている。そして、感性はしっかり保たれている。しかし、現在の状況においては、今以上に悪い事態を招かないこと、破局にいたらしめないことが、賢明であり道徳に適っている――。
 民衆はまさにこのように思考していると考えた、私の社会状況の把握が正しいとすれば、政治家もまたこの考えから遊離すべきではありません。
 池田 同感です。世界中の政治家が襟を正して聞くべき正義の叫びだと思います。
 ゴルバチョフ 今こそ、私たちを支えている大地に思いを致すべきときです。幸い、異端思想をもつ者を迫害するという、おきまりのロシア的「粛清」は回避することができました。
 それは、ロシアの田舎のほうが、都会よりも聡明だったおかげです。幸いなことに、地方では、「民主派」出身か「党」出身かなど、だれも気にとめてはいません。おしゃべりやデマゴーグには、みな飽き飽きしているのです。
 唯一必要とされている指導者の要件は、年金生活者や低所得層が食糧を確保できるよう、また病院や学校、道路を維持していくための経験と能力、責任感と手腕なのです。すべてを失ってしまった人々に、未来への希望を与えていけるかどうかです。あまり明るいとは言いがたい現代にあって、一般庶民は希望を失っていません。これが最も心強いことです。
 「権力」は、その座につくとき同様、去るときもあっけないものです。したがって、「権力」は、心を卑しめてまで手に入れるには値しないものです。
 今、ロシアは良識の人々に支えられているといえましょう。右往左往せずに、わが道を着実に進んでいく、実務的で分別のある市民によって支えられているのです。
 池田 総裁の言葉ゆえに、じつに重い意義をもっています。「民衆は強し 権力は弱し」――私もこの信念で、これまでまいりました。民衆がいよいよ賢明になり、そして、民衆の力で、本当の人間主義の時代、民主の時代を築かねばなりません。

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