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日蓮大聖人・池田大作

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現実的ヒューマニズムと社会主義  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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5  「個人の幸福」と「社会の繁栄」の一致
 池田 周知のように、一九九五年のアメリカ下院議員選挙で、民主党は記録的大敗を喫しました。振り子は、自由の方向へと大きく揺れたわけです。それに対し、早くも警戒する声が少なくありません。この年がフランクリン・D・ルーズベルト(F・D・R)大統領の没後五十年ということもあって、アメリカの歴史家のシュレジンガー元大統領特別補佐官は、同大統領の有名な「我々にとっての進歩の基準は、既に多くを持つ人の豊かさをさらに増幅できたかどうかではない。わずかしか持たない人に十分なものを与えられたかどうかなのだ」との言葉に言及しながら、こう語っています。
 「――民主的資本主義は、自由放任や落後者切り捨てといった信条を忠実に守ることで生き延び、繁栄してきたのではない。
 それが全体主義路線に打ち勝ったのは、とりわけFDRを始めとするリベラルが起こしたキャンペーンのおかげだった。彼らは産業秩序を人間化するために行政府を使い、経済システムの作用の緩衝に努め、個人の機会と社会的責任とを結びつけようとした。ついでに言っておかねばならないのは、このキャンペーンが途中のあらゆる段階で、富裕層、既得権層の抵抗にあっていることだ」(「地球を読む」一九九五年五月八日付「読売新聞」)
 このように、行き過ぎを是正しながら、どう両者のバランスをとり、活気ある社会をつくっていくかは、二十一世紀へ向けての大きな課題の一つでしょう。あなたの社会民主主義的方向の選択も、そうしたバランスを志向したものと思います。
 ゴルバチョフ 興味深いことにマルクスは晩年、『資本論』を捨て、政治から離れて社会の活力という問題に思いをいたすようになっていきます。紛争や階級闘争ではなく、調和、人々を結びつけているものへと思考の対象が変わっていったのです。
 残念ながらこの新しい社会観はそこからさらに展開されていくことはありませんでした。しかし、社会民主主義への移行をうながすもう一つの橋が架けられたのです。
 池田 敷衍して、個人の自由、権利の主張と公共の福祉との調和という課題としてとらえれば、これは、人類にとって永遠の課題となってきます。たとえば、ルソーの『社会契約論』などは、そのための粒々辛苦、悪戦苦闘、難産ぶりを典型的に示しています。
 私の恩師は、その課題を、端的に「個人の幸福と社会の繁栄との一致」と提唱いたしました。いわく「今日あらゆる所で議題とされている問題は、社会の問題であるが、その社会と個人とは、たえず遊離しているではないか。社会の繁栄が、即個人の幸福と一致しないということが、むかしからの政治上の悩みではないか」「世界の民衆が、喜んで生きていける社会の繁栄のなかに、各個人もまた、喜んで生きていけなければなるまい」(『戸田城聖全集』第一巻)
 これは、ステーツマン(政治家)の名に値するステーツマンであれば、だれもが双肩に担っていかなければならない課題です。イデオロギーから脱却するための苦闘のなかでの″ステーツマン・ゴルバチョフ″の選択は、まさにそうした選択であったと、私は信じています。
 ゴルバチョフ ロシア社会学草創の一人であるアレクサンドル・ゲルツェンは言っています。「公平ということは、歴史のもっとも主要な価値にははいらないのである。公平というのはあまりに賢明すぎ、あまりに散文的なものである。生命は、それとは反対に、これが発展する場合には気ままなものであり、詩にみちているのだ」(『ロシア――ゲ・ゲ氏へ』森宏一訳、『ゲルツエン著作選集』3所収、同時代社)と。
 しかし、公平さのない人生、残酷と、強きが弱きを抑圧する弱肉強食の掟が支配する人生にも未来はありません。そんなものがいったい、人類史にとってどんな意味があるでしょう?
 第二八回党大会で、すでに私たちは、社会主義をドグマと結びつけるのではなく、生活条件の人道化、福祉、具体的な個人の権利と自由の向上と結びつけていることを宣言しました。これらの成果と社会主義を結びつけて、実質的なヒューマニズムとしたのです。
6  ロシアの精神史とペレストロイカ
 ゴルバチョフ ただ最終的に社会民主主義への移行が行われたのは、一九九一年七月後半に党の新綱領案が発表されたときでした。この案の骨子は、すたれた思想ドグマや決まり文句と完全に決別し、国と国民の経験・切実な欲求に合った世界観と政治を作っていく、という意志でした。そして一九九一年七月の党中央委員会で、共産党を社会民主化しようとしているとの非難が私に浴びせられましたが、そのとき私はこう語りました。
 「ソ連共産党と今の社会民主運動を対立させて考えるのは、革命・国内戦争のときに理論の食い違いから共産主義者と社会民主主義者がバリケードをはさんで対立したときの影響です。過去の経緯についての研究は歴史家にまかせておけばいいではないですか。しかし、はっきりしているのは、当時起こった対立のもとの基準はもう意味を失ってしまったということです。私たちも変わったし、社会民主主義者も変わった。歴史の流れは労働運動、民主化運動、社会主義者の間に境界線を引くような問題の多くを解消してしまいました。そして今、社会民主化を批判して騒いでいる人々は、かえって本当の敵である反社会主義、民族主義、ショービニズムの流れから注意をそらしてしまつているのです」
 最後に私は、次のように結びました。「われわれは『社会主義の意味を根本的に考え直す』必要性に迫られている。古いモデルの中に解答は見つからないし、このモデルの実験をわれわれの応援で行った他の友好国も答えが得られなかった。これは社会主義の危機だが、この危機は乗り越えられるのです。
 そうすれば健全化をはかり、刷新された社会主義が決定的な新たな一歩を踏み出すことができるようになります。要するに、今、責任をもって深く考え、解決していくべきときなのです。もし、気に入らない発言者は踏みつけ、たたいて、気に入った発言者には必要以上に拍手を送っているだけだとしたら、いかなる理性的な結論にも行き着くことはできません」
 池田 あのクーデター未遂事件のほぼ一カ月前ですね。
 ゴルバチョフ なぜ、今、私はこのことを思い起こしているのでしょうか? 申し上げたいのは、私が共産主義的立場から社会民主主義に移行したさい、そこにはただ時流に乗ろうなどというような気持ちは一切なかったということです。
 私は社会正義を守ろうとする左派の一人として、ただわが国の社会意識のなかで起こった変化、ひいては世界で起こった変化の道理に従っただけなのです。
 私が間違っていたと、はたして言えるでしょうか。一九九一年半ばに共産党が突き当たった同じ問題に、今また左翼政党が突き当たっているのではないでしょうか?
 一九九一年七月の党中央委総会につづく劇的な事件のために、私は、プランを最後まで遂行することができませんでした。共産党の社会民主化は果たせなかったのです。そしてクーデターの犯人たちの仕業から党は崩壊します。
 池田 いいえ、決して間違ってはいません。社会民主主義の選択といい、ゆるやかな連合体としてのソ連邦の存続といい、その後の事態の推移は、まさしくあなたの選択しようとした方向へと動いているといえましょう。長いスパンでみて、今、正当な理解の得られないところに、逆にペレストロイカのもっていた本質的な新しさがあった、ととらえていくベきだと思います。二十一世紀文明をも視野に入れた、画期的な新しさがあったからだ――と。
 ここで、もう一度、オルテガに言及したいと思います。彼の主著『大衆の反逆』は、一九三〇年に著され、かつて、ルソーの『社会契約論』が十八世紀に対して、マルクスの『資本論』が十九世紀に対して意味したものを、二十世紀に対して意味するであろう、と評されたものです。
 その中で、彼は「ヨーロッパには、数年前からいろいろと『奇妙なこと』が起こり始めているということは、誰でも気付いているところである」として、次のように述べています。
 「サンディカリズムとファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする人間のタイプが現れた。実はこれが新奇さなのである。つまり、正当な理由を持たぬ権利、道理なき道理がそれである」と。
 また、「かくして、『討論の息の根をとめよ』というのがヨーロッパの『新』事態となってきたのであり、そこでは、普通の会話から学問を経て議会にいたるまで、客観的な規範を尊敬するということを前提としているいっさいの共存形式が嫌悪されるのである。これはとりもなおさず、文化的共存、つまり、規範のもとの共存の構夕であり、野蛮的蛮行への逆行に他ならない」(神吉敬三訳、角川書店)と。
 彼は、そうした「野蛮的共棲」が生まれる原因を、人々の魂が「自己閉塞」におちいり、真の意味での対話が成り立たないからだ、としています。
 『大衆の反逆』は、ロシアにっいてはほとんど言及しておりませんが、もし彼の「文化」と「野蛮」の区分けをあてはめれば、ポルシェビズムが「野蛮」に属することは、申すまでもないことでしょう。
 ゴルバチョフ そのとおりです。私たちが勇気をもってペレストロイカに踏み切ったのは、そうした自覚からです。
 池田 ペレストロイカやグラスノスチは、たしかに当面する課題をどうするかということを第一義にした政策でしょうが、その地平は、オルテガが鋭くえぐり出した魂の「自己閉塞」すなわち、二十世紀の大衆社会状況の病理にまでおよんでいると思います。「自己閉塞」した魂をどう開き、対話の回路を通じさせていくかという、ソ連のみならず現代世界が直面している最大の課題への、果敢なる挑戦であったのではないでしょうか。
 あなたは、クレムリンでの私との会談のさい、ペレストロイカは、政治と文化との「同盟」であると言われました。そうであるならば、それは政治革命にとどまらず、より本源的な文化革命であり、人々の心に、オルテガの言うところの「客観的な規範ヘの尊敬」を打ちたてようとする試みであったはずです。
 今のロシアの風潮を見聞していると、この画期的な試みは、道半ばどころか、緒についた段階で早くも大きくつまずいてしまっている感さえ受けますが、だからといつて、手をこまねいていては、「こんな生活は、これ以上つづけられない」という、ロシアの心ある人々の思いで始まったペレストロイカそのものが、無意味になってしまいます。言われなき非難や中傷、裏切りの嵐の中でつづけられるあなたの百折不撓の戦いは、ロシアの精神史に深く樟さした、そうした文化革命の次元で受けとめられなければならないと、私は確信いたします。
 ゴルバチョフ 共産党の死そのものは、われわれの計画が誤っていたからではありません。自由主義の支配はロシアでは長つづきしませんでした。わが国の自由主義改革は、金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏人にすることだけに照準を当て、わずか二年で、人々はこれらの改革を憎悪するようになりました。
 おそらくお気づきかと思いますが、今ではみんな社会民主主義者になり、社会民主主義に忠誠を誓っています。政府のなかには、社会民主主義こそわが国の思想であることを証明しようとする思想家のグループまでできているのです。
 そのなかの多くがつい最近まで急進的なガイダル改革、ショック療法の熱烈な支持者でした。別に私は、こういったリベラル派から社会民主派へと、あっという間に変身した人々に悪意はいだいていません。
 改革のやり方についての議論のさい、私は彼らと違ってロシアを知っている、ロシアの農民の息づかいがわかっているという利点がありました。私に反論をしていたリベラル派、破壊的急進的改革の支持者たちが根拠としていたのは本から得た知識だけだったのです。
 池田 そのことは、あなたが何度も強調されていましたね。
 ″何事も経験せずしてわかるようなことは、たいしたことではない″″現実は、既存の知識や理論を超えた豊饒なものをはらんでいる″――こうした謙虚な姿勢というか、敬虔の念こそ、欠かすことのできない黄金律であることは、古今を通じて変わらぬ鉄則であり、道理でしょう。
 ゴルバチョフ ええ。例として、一九八九年から一九九一年の民営化の速度についての議論を取り上げてみましょう。私が当時主張していたのは、ロシア、なかんずく農民は「純粋な」土地私有への移行は認めない、国民は無制限の土地売買は受け入れない、ということでした。コルホーズ(集団農場)やソフォーズ(国営農場)の強制的な民営化は、三〇年代初めの集団化と同じような不幸をもたらすだろうと言いました。
 そのとき私は、時代遅れだ、まだるっこいという非難を受けました。しかし、リベラル派が政権の座について三年がたちましたが、ご存じのとおり、事はいっこうにはかどっていません。エリツィンが署名した、土地の自由売買に関する大統領令は結局実施されませんでした。
 今もコサックの伝統、共同体的土地所有が色濃く残っている南ロシアでは、この大統領令は強い反発を呼びました。この地域はまだコサックが強い力をもっています。中央ロシア黒土地域でも、多くの農民が自由主義的土地改革には警戒心をいだいています。人々は、自分に与えられた土地に対する責任をふたたび引き受ける心構えができておらず、今のようなめちゃくちゃな金融システムでは土地も失ってしまうのではないかと恐れているのです。
 コルホーズやソフォーズをつぶしてしまうのではなく、所有形態を変えることによってそれらの性格を変えていくことが必要です。それを実行するのは農民であり、経営形態が自由に選択できるなかで、しかも、一様ではなくそれぞれが独自の形で行われなければなりません。

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