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日蓮大聖人・池田大作

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東洋と西洋が出合うとき 人類的価値と宗教の智慧

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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10  「開く」「具足」「蘇生」の三義
 池田 これまでの血なまぐさい人類の宗教史に照らせば、コックス教授のシビアな感触も理解できないではありません。
 しかし、私は、あえてその困難に挑戦していかなければ、宗教の未来はないと思っております。みずからのドグマに固執するあまり、争いや殺し合いの因となるような宗教などは、「百害あって一利なし」です。
 仏法では「妙法蓮華経の受持」を、その宗教的実践の根幹としています。「妙法蓮華経」とは法華経の正式な題名ですが、たんに題名としての意義にとどまらず、法華経において仏によって開示され、教典全体に脈打っている真理そのものをさしています。すなわち、「妙法蓮華経の受持」とは、その真理を信じて、堅持していくという意味です。
 じつは、ガンジーの言う「真理」は、インドの原語で「サット(Sat)」と言いますが、「妙法蓮華経」の「妙」に当たるサンスクリツトとまったく同じなのです。
 さらに、日蓮大聖人は、この「妙」の意義として、「開く」「具足」「蘇生」の三義を明かしています。その意義については、モスクフ大学の講演で詳しく述べました。
 繰り返しになりますが、簡潔に述べれば、「開く」とは、生きるための根本規範を内面から開くことであり、「具足」とは、開かれた規範が包括的、普遍的であり、万物一体の共生感覚につらぬかれていることです。そして、「蘇生」とは、日々新たに蘇る創造的生命のダイナミズムを保ちつづけることです。
 このような法を求め、信じ、何があっても堅持していく生き方が、「妙法蓮華経の受持」といえます。
 かつて私は、日本のある宗教学者から創価学会のめざすものについて、「究極的に求めているものは何か」との質問を受けました。
 私は即座に、「それは久遠元初の法です」とお答えしました。「久遠元初」とは、生命の究極の姿に回帰した状態であり、そこに働いている「法」が妙法蓮華経であると説きます。このような内的な「法」であるからこそ、日蓮大聖人は、それを、絵画・彫刻の仏像ではなく、文字による曼陀羅として顕されたのです。
 詳論は割愛しますが、重要なことは、この「久遠元初の法」が、第一義的には、内的で不可視の存在であるということです。その「法」は、時々刻々と変化する「行い」のなかに体現される以外に、ありようがない。
 真理それ自体、つまり仏法の立場でいえば、仏の智慧は、「言語の虚構性」を超えたものとされます。
 それゆえに、仏が、民衆を救済する慈悲の行動にでるとき、真理を体得した人の「必然の表現」としての″言葉″によってのみ、真理は人々に示されるのです。この″言葉″に関して、仏法では、「文字即実相(″言葉″こそ真理)」と説くのです。
 その「法」は、人間の生き方にとって、目には見えないけれども、まぎれもなく存在する″内在的規範″となっていくにちがいない。その学者は、私の申し上げた趣旨に賛同してくれました。
 大切な問題ですので、もう一つ、私の友人の言葉を紹介させていただいてよろしいでしようか。
11  道徳規範の源泉を求めて
 ゴルバチョフ もちろん結構です。ぜひ、つづけてください。
 池田 数年前に亡くなった″アメリカの良心″ノーマン・カズンズ氏とは、『世界市民の対話』と題する対談集を編みましたが、氏は、宗教者が、みずから絶対と信ずるものを他に納得させることの困難さを論じながら、こう言っております。
 「人間が深い精神的な素質を有するという命題については、みんな共通に異議はないだろう。もしその同意からさらに一歩進めて、それぞれの宗派の神学で神性の表現される形は異なっていても、神性が外的なものではなくて、内的なものであり、その働きは人間を通じて現われる。そして人間は自分のすること、考えることによって、神性を立証したり、反証したりするという命題についても、彼らすべての同意を得ることができれば、我々は、それだけ地球上における真の宗教的情況の実現に近づいたことになるだろう」(『人間の選択』松田銑訳、角川選書)と。
 「神性が外的なものではなくて、内的なものであり、その働きは人間を通じて現われる」との氏の言葉は、ガンジーの「生きている人間を通して神を示す」との言葉と、見事なまでに符合しています。だからこそ、ガンジーは、あらゆる行為において「真理」を堅持していくことを、「サティヤーグラハ(真理の把握)」と呼び、みずからが進める運動の名としたのです。
 ゴルバチョフ たいへんに興味深いお話です。かつて、創価大学の講演でも申し上げましたが、ペレストロイカがめざしたのは、「全人類的価値」の優位を認め、人権と自由の重要性、素朴な道徳規範と人間的な社会ルールを復活させることでした。
 「善」を「善」といい、「悪」を「悪」といえることが、人間にとって最大の権利と考えたのです。
 池田 日蓮大聖人は、仏法といっても、人間の実生活上の「行い」を離れてあるものではなく、妙法蓮華経を受持する一人一人によって営まれる社会生活の全体が、仏法であり、法華経であると説きました。また、法華経そのものにも、「社会のなかのあらゆるよき教え、よき行動は、法華経の真理そのものである」という考え方が説かれています。
 あなたは、「今日、全人類的価値という貯金箱に、東洋は何を入れることができるのか」と問われました。私は、言葉で表現された道徳的価値規範もさることながら、道徳規範の源泉としての「内的な真理」を解明し、それをもって人々の心を、よき方向へとうながしていくことこそ、あえて言えば、東洋の使命ではないかと思います。私はつねづね、その源泉を「内在的普遍」と呼んでいます。
 個々の規範も、源泉としての「内的なもの」「宗教的なもの」がなければ、時代の変遷とともに、輝きをなくし、死滅していかざるをえないのではないでしょうか。逆に、瑞々しき源泉があれば、時代に応じた「生きた道徳規範」を生みだすことができると考えるのです。

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