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日蓮大聖人・池田大作

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楽観主義という美質  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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8  ″正義に適った平和″への道
 池田 ただ、正義への志向そのものを否定することはできないでしょう。それは人間としての品格や誇り、信念を支えるものだからです。「正義によって立て、汝の力は二倍せん」という言葉もあるとおりです。問題は、正義のあり方、主張のしかたでしょう。
 その観点からいえば、たしかに、ケルゼンの告発は、十分に根拠のあることです。ケルゼンも、そしてあなたも強調しておられるように、政治的なものであれ宗教的なものであれ、「絶対的正義」の名のもとに、古来、どれほど多くの血が流されてきたことか。
 私は、かつてある著作の中で、そうした絶対的正義への確信が、ドグマと狂信、血塗られた道へといたった系譜を、思いつくままにサヴォナローラ、カルヴァン、クロムウェル、ロベスピユールー……と追ったことがあります。
 しかし、人類が永遠にその道をたどりつづけるであろうというケルゼンの主張は、そのまま受け入れなければならないのでしょうか? 彼は、正義と平和の問題を、正義か平和という二者択一のかたちで提起していますが、はたしてこれが、唯一の選択肢なのでしょうか? 発想を変えた選択肢――たとえば、″正義に適った平和″といった、二者択一ではなく止場合一の選択肢を考えることは、不可能なのでしょうか?
 ゴルバチョフ なるほど。たいへんに重要な視点です。
 池田 私は、それは可能であるし、また、そうした選択肢も模索していかねばならないと信じております。
 宗教もその線に沿って、未来社会におけるみずからのあり方を考えていかなければ、とうてい、実り多い果実を期待することはできないでしょう。
 なぜなら、正義ぬきの平和といった場合、極端にいえば、独裁政権下における″平和″や核の傘のもとでの″平和″なども含まれてしまうからです。そうした状態が、まったく平和の名に値しないことは指摘するまでもない。
 もとより、それは極論であって、ケルゼンが「正義よりも平和を」(前掲『神と国家』)というとき、彼が志向していたものは、多元的な価値が認められ、近代化された寛容な社会であったでしょう。それはまた、近代民主主義の志向するものと符合しているといってもよい。
 多元的な価値観、多元的な思考――それは結構なのですが、問題はそうした多元主義にもとづく寛容な社会が、どのようにしたら人間らしい活力を保持することができるのかという点にあります。
 これは、ケルゼンが鋭く見つめていたように、人間存在の根底にひそむパラドックス(逆説)であり、ケルゼンとは違う意味で私が恐れているのは、価値観の多元化、相対化が、異なった価値観の百花練乱のような開花、盛況をもたらすのではなく、前に、若干ふれたような一種のシニシズム――つまり、価値そのものへの無関心や冷笑主義的態度を生んでしまうのではないかということです。
 これは歴史的にしばしば見られた現象であり、現在、日本でも、欧米社会でも、すでにこうした傾向は顕著です。
 重ねてお聞きしますが、長い間のイデオロギーの一元的支配から解放され、急激なプルーラリズム(多元主義)の波にさらされたロシアでも、一時、民主化・自由化への熱狂が過ぎ去った今、シニシズムの風潮は、よりいっそういちじるしいと聞いていますが、いかがでしょうか。
 ゴルバチョフ あなたは、ロシアの現在をたいへんよく知っていらっしゃるようにお見受けします。
 ご指摘のとおり、民主主義に対する絶望とともに、全体主義的雰囲気がふたたび高まっております。しかし、それは民衆が悪いのではありません。悪いのは法を破り、人々の期待を裏切った政治家たちです。
 民主的な方法で選ばれた議会が、あなたもご覧になったように蹴散らされてしまいました。しかし、それにもかかわらず、本質的には、ロシアが過去に後戻りすることはありえなかった。
 多くのアンケート結果が示すように、人々は大統領選挙、下院選挙を拒んではおりません。ですから、エリツイン大統領が今年(一九九五年)の二月に年次教書の中で、選挙が予定どおり行われると発言せざるをえなかったのも決して偶然ではないのです。民主改革は不可逆性をもったと思われます。ただし、その道はジグザクであり、後戻りしながらの前進という困難な道程ですが。
 池田 私も、その不可逆性を信じたいと思います。ところで、寛容の問題が厄介なのは、それが制度の問題であるよりはるかに深く、人間心理の深層に根ざしているという点です。
 仏法では、総じて人間の生命力の衰弱を五濁と説いています。五濁とは、命濁(生命の濁り)、劫濁(時代の濁り)、見濁(思想の濁り)、衆生濁(人間自体の濁り)、煩悩濁(煩悩による濁り)をさします。
 この五濁が高じてくると時代は悪くなり、人々の生命力が衰え、この対談の文脈に即していえば、一切の価値観にシニカルで無関心な態度をとり始めます。こうしたシニシズムや無関心が、寛容とはまったく似て非なることは、ご存じのとおりです。
 現代社会に蔓延するシニシズムは、こうした寛容の問題のむずかしさを如実に物語っています。大切なのは、一人一人が自分たちが本当に幸せになる道は何か、他の人々と幸せを分かち合えるのはどの道かを、冷静かつ能動的、積極的に見定める力をもつことでしょう。
 ゴルバチョフ そのとおりだと思います。
 人々は皆、それぞれ違う人生観をもっていますが、どのように調和して生きるべきかを考えねばなりません。
 宇宙から見れば、この小さな世界で人々はひしめきあって生きています。皆、平等に生きる権利をもっています。
9  求められている心温かき批判精神
 池田 しかし、安易な寛容は、一種のシニシズムにほかなりません。信念を主張しないのは、解決すべき問題から身を引き、目をそらせ、自閉的世界に閉じこもるエゴイズムです。
 一見、寛容に見える態度の裏に、″あとは野となれ、山となれ″式の無関心がひそんでいるかもしれない。旧ユーゴスラビアに対する西側の態度がそうであったように。
 今、世界のいたるところに、このようなシニシズムが蔓延しているように思えてなりません。さまざまな価値観が崩壊し、相対化され、人々は「みんな大差ない」とすべてを肯定しつつ、「みんなばかばかしい」とすべてを否定しているのです。
 こうしたシニカルなエゴイズムが蔓延するとき、健全な批判精神は枯渇し、人々のあたたかき連帯はずたずたに切断され、気づけば独裁者が君臨していた、という事態につながりかねません。
 冷ややかな笑いは、言葉による対話を寸断してしまい、ひいては、問答無用の暴カヘと傾斜していくのです。
 健全な批判精神、心あたたかき批判精神、いわば「創造的批判精神」こそが、求められるのではないでしょうか。
 積極的に他者と交わろうとする″開かれた精神″と″開かれた対話″にもとづいて、何がどの点で優れているかを、きちんと見分けていく批判力、批判精神こそ、暴力的なカオスヘの傾斜を防ぎとめ、真実の寛容、寛仁大度という人間の尊厳を輝がせていく最大のポイントといえましょう。
 ゴルバチョフ 賛成です。
 平和を模索し、すべての政治的な対話によって解決の道を探すこと、そして説得と納得の道を選ぶことが、暴力と戦争よりもどれほど効果的な方法であるかを知らなければなりません。
 もし、人類の闘争と対立によって、「思想の多様性」が焼き尽くされてしまえば、あとに残るのは「精神の空洞化」だけでしょう。
 池田 そうですね。
 ケルゼンは、宗教が「問題の概念的・言語的・理性的解決」(前掲『神と国家』)に背を向けるかのように言っていますが、いささか短絡的にすぎると思います。
 要は″開かれた心″″開かれた対話″が保障されているかどうか、それも制度的な保障だけでなく、人間の内面的な備えとして保障されているかどうかです。
 それさえ万全であれば、ソクラテスがミソロゴス(言葉嫌い)はミサントローポス(人間嫌い)に帰結すると言ったのとちょうど逆の意味で、言語や理性の活発な働きは、人間社会をいやがうえにも活性化させていくにちがいない。
 私の恩師戸田第二代会長は、「日蓮大聖人をはじめ、釈尊、キリスト、マホメットといった宗教の創始者が一堂に会して会議を開けば、解決は早い」とよく語っていました。
 ゴルバチョフ あなたが一九九四年、モスクフ大学での講演の結論の部分で強調されていた点は、そのことではないですか。
 池田 あたたかなご理解、心より感謝します。まったくそのとおりです。
 私は、モスクワ大学の講演で諸宗教の共存のあり方について述べました。それは、無原則な離合集散ではなく、それぞれが、こうした人格形成の競い合い、いうなれば「世界市民」輩出の競争をしていくことが、より創造的であり、いずれの社会にあっても、よい意味での競い合いこそが、進歩の法則であるということです。
 「人道的競争」を唱導した牧口常三郎初代会長の先見の明は、半世紀以上も前にそれを喝破しておりました。
 「正義に適った平和」とは、「正義」と「正義」とが角突き合うのではなく、人格形成の競争、世界市民輩出の競争といった「人道的競争」を通して、実現されるのが筋道であり、王道なのではないでしょうか。
 まさしくあなたは、開かれた対話で、冷戦の核の脅威が覆う現代の世界に、新しい時代の風をもたらした「人道的競争」の第一走者です。その点に、私は心から敬意を表したいのです。

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