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「平和の世紀」へ新たな出発  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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5  善いことは「蝸牛かたつもりの速度で動く」
 ゴルバチョフ あともう一つ、私の人生、ソ連の歴史を振り返って、人生の最盛期に、二十一世紀を迎える青年に語りたいことがあります。
 池田 どうぞ、ぜひ、お願いします。
 ゴルバチョフ それは、マキシマリズム(極左主義)や極端な革命主義の危険性についてです。これについては、一九九三年の春、創価大学で講演した折にふれていますが、もう一度、このテーマに立ち返ってみたいと思います。
 過激主義というのは、物事を単純に決めつけてしまうことへの誘惑と同じく、しぶといものです。
 二十世紀において、性急な決定や、すべての困難を一挙に解決できる摩訶不思議な解決法がある、という単純な思い込みのために、人々は、どれほど辛酸をなめたことでしょう。
 それでも、新しい世代が出てくると、またもや古いものを破壊すればするほど、新しいものの繁栄が約束されると信じている人々が現れ、急進的な破壊、大々的な爆発を呼びかけるのです。
 それはまったくナンセンスであり、欺瞞です。新しいものは、過去に深く根を張っています。漸進的な進化、変革こそ、改革を逆戻りのない、確たるものにできるのです。
 いや、この二十世紀が、どんなに深い教訓を残したとしても、私たちが真実をすべて発見したとはいえません。唯一、われわれ、暮れゆく二十世紀の世代が、二十一世紀の世代に教えられること、それは、最大限、用心深くあれ、ということでしょう。
 未来の英知は、過去の英知に帰するところ大であります。
 ″最も急進的な、革命的なものが、変革と進歩を揺るぎないものにする″という、十九世紀、二十世紀の考えは誤りです。
 人間、社会生活の本質に合った、漸進的な発展、漸進的改革の道こそ、革命的な模索よりも有効である、と今、私たちは語ることができます。
 その意味からも、私は、あなたが講演などで、マハトマ・ガンジーの「善いことというものは、蝸牛かたつむりの速度で動くものである」(坂本徳松『ガンジー』旺文社文庫。参昭)との箴言に、ひとかたならぬ共感を寄せておられることに、深く賛同します。
 池田 ありがとうございます。
 漸進性、漸進主義ということは、私の年来の主張であり、信念です。
 じつは創価大学でのあなたの講演にじっと耳をかたむけながら、不思議な感慨をかみじめていたのです。なぜなら、ボルシェビズムという、最も急進主義的イデオロギーのなかで育てられたあなたが、にもかかわらずというか、それゆえにというか、漸進的な発展・改革の重要性を訴えておられたこと、そして、その論調が、その数カ月前、私がアメリカのクレアモント・マッケナ大学に招かれて行った、「新しき統合原理を求めて」と題する講演(本全集第2巻収録)と、驚くほど共鳴し合う部分が、多かったからです。
 あくまで「人間」をベースに、経験と思索を深めていく過程での、それは必然的帰結といってよいのかもしれませんが。
 クレアモント・マッケナ大学での講演で、私は、孤独と分断の荒野をさ迷い歩いている現代人に、「全人性」を回復せしむるメルクマール(指標)として、
 1 方法としての漸進主義
 2 武器としての対話
 3 機軸としての人格
 の三点を提言いたしました。
 その第一番目は、社会変較の方法論として、近代啓蒙主義の負の側面である急進主義を斥け、漸進主義の急務、正当なることを論じたもので、まさしくあなたのおっしゃる「漸進的」ということと、通底しております。
 漸進主義、漸進的などというと、言葉が硬くなりますが、おそらく、そこには、人類の深い知恵が蓄えられていると思います。
 「性急は愚かさの母である」とは、レオナルド・ダ・ヴインチの有名な言葉(下村寅太郎『レオナルド・ダ・ヴインチ』勁草書房。参照)ですが、日本の諺にも「急がば回れ」とか、「急いては事を仕損ずる」とか、性急さを戒めたものがたくさんあります。それが、道理だからです。
 ゴルバチョフ まったく、そのとおりだと思います。
 池田 植物にしても、人間の身体にしても、順を追って徐々に成長していくのであって、一挙に大きくしようとしても、とうてい不可能です。
 それと同じように、人間の社会の変化・発展も、徐々に漸進的になされていくのが健全な姿であって、強引に事を運ぼうとすると、必ず無理や歪みが生じてしまう。そうした愚かさが生みだす無理や歪みは、いつの時代にもありました。
 しかし、それは、日本の諺が語っているような人間の知恵、人生の知恵を覆い隠すほどの猛威を振るったわけではありません。
 それが、文字どおり激しさを極めたのは、なんといっても近代になってからの現象といってよいでしょう。
 もう少し、つづけてよろしいでしょうか。(笑い)
 ゴルバチョフ ええ、どうぞ、どうぞ。(笑い)
 大切な問題です。
6  「謙遜であれ、傲慢なるものよ」
 池田 私の恩師は、近代人は二つの大きな錯覚におちいっている、と言っていました。
 すなわち、一つは「知識」と「知恵」を混同する錯覚、もう一つは「病気」と「死」とを混同する錯覚です。
 そのうち、「知識」を「知恵」と錯覚することこそ、近代の急進主義のおちいった落とし穴であるといってよいでしょう。
 近代が進むにつれ、人々の知識の量は、たしかに膨大にふくれ上がった。しかし、知識の増大がそのまま知恵の拡大につながっていくわけではない。知識と知恵が反比例する場合も少なくありません。
 その点を勘違いして、知識イコール知恵と思い込み、知識によって描き出されたユートピアヘの青写真どおりに、強引に社会をつくり変えようとしたのが、近代の急進主義の流れでした。たとえば、目的とするゴールがあらかじめわかっているのなら、到達するのは早ければ早いほどよい。それを理解しょうとしないわからず屋には、多少力ずくでのぞんでもやむをえない――。こうした急進主義の系譜が、どんなにおびただしい犠牲者の血と苦悩に覆われていたことでしょうか。
 肥大化し思い上がった知識の怪物に、人間の知恵など、飲みほされてしまった観さえあります。もっとも、飲みほそうとしてもしきれるものではなく、
 早々に自家中毒を起こしているのが、現代社会の状況といえるでしょうが。
 ゴルバチョフ ご指摘のとおりです。
 池田 たしかに、あなたのおっしゃるとおり、この点を「二十世紀の精神の教訓」として、青年たちに語り継ぐことは、きわめて重要なことであると思います。
 私たちの共通の友人であるアイトマートフ氏は、私との対談の折、次のように語っていました。
 「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。
 革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。
 私たちはそれを十分すぎるほど知っています。民主主義の改革の道を、無血の進化の道を、社会を逐次的に改革する道を探し求めて下さい。進化(漸進的発展)は、より多くの時間を、より多くの忍耐と妥協を要求し、幸福を整え、増大させることを要求しますが、それを暴力で導入することは要求しません。
 私は神に祈ります――若い世代が私たちの過ちに学んでくれますように、と」
 忘れられない言葉です。
 ゴルバチョフ 私も、アイトマートフ氏と思いは一つです。
 暴力、戦争よりも、平和を模索し、政治的な問題の解決方法で、納得のいくまで話し合いをすることこそ、重んじられなければなりません。戦いや紛争は、人生の豊かさを焼き尽くし、あとには社会の砂漠しか残しません。
 今日、「自然」を大切にする、ということは、とりもなおさず、長所や弱点、欲望のあらゆる矛盾をもちながらも、「人間」を大切にすることです。
 ″人間を知る″すなわち、自身のなかに調和を築き、自分をコントロールし、意志を強くしていくために、自分自身を知らなければなりません。
 しかし、それは、人間を破壊したり、改造し、不可能なものを人間から要求することではありません。人間を、神のごとく、万能の、あらゆる権利をもつものととらえていく志向は、最も危険で破滅的な思想です。
 池田 よく理解できます。
 ゴルバチョフ ロシアは革命の嵐と衝撃の国、ボルシェビズムを生んだ国として世界では知られています。それどころか、西側の多くの歴史家は、プロレタリアートのマルクス主義革命がロシアで勝利したのは必然的であり、不可避のことであったという考えを根強くいだいています。しかし、そのような見方は、十九世紀終わりから、二十世紀初めにかけてのロシアの精神的、政治的状況をきわめて皮相的にとらえたものです。
 マルクス主義や社会主義とはまったくの対極にある文化、世界観をもつ国で、プロレタリアートのマルクス主義革命が起こったということは、歴史のパラドックス(逆説)というほかはありません。ロシアにはもともとプロレタリアート革命思想が、根づいていたわけではありません。ロシアの哲学者、文学者が初めて過激な革命主義、プロレタリアート社会主義の危険を感じたのはヨーロッパだったのです。
 プロレタリアート革命を説くマルクス理論の主な哲学的、倫理的欠陥を指摘したのはほかならぬ、ニコライ・ベルジャーエフ、ピョートル・ストルーヴェ、セルゲイ・ブルガーコフといったロシアの思想家たちでした。
 もっとも、公正を期すために申し上げますが、当時のロシアの哲学者は、若いころのマルクスが展開していた民主的ヒューマニズムについて、目にする機会はありませんでした。
 ロシアの思想家たちは、いち早く「啓蒙主義」が、絶対的真理と、存在のあらゆる神秘をも網羅しているという傲慢さをもっており、革命的マルクス主義もそこから生じていることを看破しました。
 ドストエフスキーの天才たるゆえんは、彼がいち早く、無神論と人間改造を主張する「啓蒙」主義のおごりによってもたらされる脅威、破壊的結末をすべて予知していたところにあります。
 だからこそドストエフスキーは、自己のおごりを抑制し、キリスト教の倫理、人類社会の規範を踏み外さぬよう、ロシアの人々に呼びかけたのです。
 「謙遜であれ、傲慢なるものよ、なによりも先にその慢心の角を折れ。謙遜であれ、怠惰なるものよ、なによりもまず額に汗して祖国の耕地で働け」(『作家の日記』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』14所収、筑摩書房)。これこそ国民的真理と国民的な知恵による解決策なのです。
 「真理は汝の外にではなく、汝自身の中にある。汝自身の中に自己を見いだし、汝自身に自己を服従させ、自己を支配せよ。そうすれば真理が見えるようになる。その真理は事物の中にあるものでもなければ、汝の外にあるものでもなく、またどこか遠い海のかなたにあるものではなく、なによりもまず汝自身に対する汝の労苦の中にこそあるのだ。
 自己を征服し、自己を鎮圧せよ――そうすれば、汝はかつて想像もしなかったほどの自由の身となり、偉大な事業に手をつけることができる。そして他人をも自由の身の上となし、幸福をその目で見ることができるであろう。なぜならば、汝の生活は充実し、やがては、自国の民衆とその神聖な真理を理解するようになるからである」(同前)と。
 私たちは、何も新しい考えをつくりだす必要はありません。
 ただ、悲劇的な二十世紀の貴重な経験に学ばなければなりません。
 池田 まったく同感です。
 ドストエアスキーが、プーシキン記念祭の折にスピーチした、この言葉は、私も大好きな言葉なのです。
 つまり、人間の真髄に訴えています。社会の真理を訴えています。

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