Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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二 地球外生物は存在するか  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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4  ボイジャーの成果
 池田 聞くだけで胸が躍る話ですね。この先、どのように展開するか、興味深く見守っていきたいと思います。
 惑星探査機によって人類は、冥王星を除いて、八つの惑星や衛星の素顔を知ることができるようにもなりました。なかでもボイジャー1、2号の活躍には目を見張るものがあります。一九七七年に相次いで打ち上げられ、木星・土星・天王星・海王星のシャープな画像を送ってくれました。とくにボイジャー2号は、十二年の歳月をかけて海王星まで旅をし、貴重なデータを送ってくれました。
 たとえば、海王星の大衛星であるトリトンでは、火山から噴きだしたと思われる長い噴煙の帯が認められております。トリトンは、表面温度がマイナス二三六度という、太陽系で最も冷たい天体ですが、それにもかかわらず火山が認められます。また、長い噴煙の跡が残るためには、秒速百メートル以上の暴風が吹いていなければならないといわれております。
 こうした発見は、宇宙の実相を解明していくうえで貴重なステップとなるでしょう。そして、今この探査機は、太陽系の外に向かって果てしない旅をつづけています。
 博士 ボイジャー2号が海王星とその衛星に最接近したのは、一九八九年八月のことでした。これは今世紀における太陽系探査のクライマックスであり、グランド・フィナーレでもありました。この快挙は、私にとってとくに興味深いことでした。
 というのは、外惑星の天王星と海王星は、本質的には彗星によって約五十億年前に形成されたものだからです。海王星は太陽から約二十七億マイル(=太陽からの平均距離は約四十五億キロ)も離れており、太陽から受けるエネルギーは、地球と比較すれば〇・一パーセントにすぎません。ところが海王星は、自分が受ける量の何倍ものエネルギーを放出しているのです。それは主として、大気中における激しい暴風活動となって放出されています。
 この暴風エネルギーの研究成果があざやかに示唆しているのは、凍結した地殻の下側では微生物が活動しているということなのです。メタン等のガスは地表の下側で圧力が上がり、割れ目や穴から散発的に放出されることがあります。
 海王星の衛星であるトリトンの劇的な写真は、凍結した溶岩流や火山活動の証拠を示しています。このこともやはり、微生物段階の生命体がそこで盛んに生育している可能性があることを意味していると私はみています。
 池田 地球外生命体の探査に情熱を燃やすアメリカの天文学者カール・セーガン博士たちは、惑星探査機ボイジャー1、2号に、異星人への〈メッセージ〉を刻んだ金張りの銅製レコードを積みこみました。
 その中には、地球上の六十種類の言語による〈あいさつ〉や、ザトウクジラの鳴き声、波や風の音、数多くの文化圏の優れた音楽、さらに人々の生活などを伝える百十六枚の写真などが、音の信号に変えられて収録されています。
 ボイジャーに積まれたレコードは、宇宙空間の厳しい環境にも十億年は耐えられるようにつくられているとのことです。私もセーガン博士から、そのカセットテープを二本いただきました。
 博士からの手紙には、「わが地球家族の文化的豊饒と多様性のなにがしかを、地球外の生物に伝えようとする初めての試みです。この芸術品をどうぞお楽しみください」とありました。いつの日か、この〈人類の手紙〉がE・T・にひろわれ(笑い)、解読されることがあると期待できるでしょうか。
 博士 ボイジャーが太陽系の領域の外にとびだし宇宙の深奥部に入ってしまえば、その手紙がE・T・の手に入るのはありえないことではないと思います。
 太陽系のほかの惑星に高等動物がいると思っている人には、過去四半世紀におよぶ宇宙探査の結果はがっかりだったでしょう。しかし、高等動物よりもはるかに適応範囲の広い、より原始的なバクテリア類の存在を示す証拠はふんだんに発見されているのです。
 私たちはほかの惑星に宇宙服を着た人間や都市が存在するのを見たわけではありません。バクテリア類がいることを示す間接的な証拠があるだけです。これは、そうしたいと思えば見ないふりをすることも、否定することも容易にできるわけです。私たち人間のような生物が遠くの惑星系にいるという直接的な証拠は、なかなか手に入れにくいでしょう。
 だが、私たちの身体は、本質的には〈バクテリア的〉な単位によって構成されています。したがって、そうした単位が宇宙的な規模で多量に存在しているということは、それよりも高等な生物も同じくらい多数存在していることを意味するにちがいありません。
 知性の面で私たちと同程度の、あるいはもっと優れた生物の存在が、広大な宇宙の中では別に珍しいものではないにちがいありません。
 池田 今年、一九九二年から、NASA(アメリカ航空宇宙局)による地球外文明探査計画がスタートすると報道されました。電波望遠鏡を使い、十年間、探査がつづけられるといいます。
 高等な知的生命体と出会うことは、古代からの人類の夢でもありました。また、この宇宙にどれほどの文明が存在するかは、現代人がいだく関心事です。この銀河系だけでも千個の文明があるという学者もいますが、博士はどのようにお考えですか。
 博士 私の見解では、生命の重要な属性はすべて地球の外からやってきたものです。したがって意識も知性も、また技術文明を発達させる能力も、同様に地球外から得られたにちがいありません。
 もしそうだとすれば、生命の誕生するすべての惑星は、地球が通ってきたのと同様の過程、つまり知性と、原子力の開発を含む高度技術能力とが自然に現出するという過程を、いつかは経ることになりましょう。これは絶えることのない自然界の法則なのです。
 ところで、私たちがそのことについて、まったく情報をもっていない問題が一つあります。それは、一つの高度技術・原子力文明がどれほど長く存続するかということです。
5  繁栄に不可欠な〈平和の哲学〉
 池田 私も、ほかの惑星上でも大自然の法則は地球や太陽系と共通しているゆえに、その文明はいつかは〈原子核〉を発見し、原子力時代に入っていくと思います。
 したがって、この高度科学技術文明を長く繁栄させていくには、〈核〉の力をコントロールできる〈平和の哲学〉を確立しゆくことが必須条件であると思うのです。
 その惑星上に生を受けた知的生命体が、平和を志向する哲学・宗教をもち、慈悲の精神に満ちている状態でなければ、高度科学技術文明の安定性は望みえないでしょう。知的生命体がエゴと傲慢に支配されていたのでは、〈核〉を悪用して自己の文明そのものを破壊してしまうからです。
 大乗仏教では、この宇宙には多彩なる仏国土が存在し、ダイナミックに交流する姿が説かれております。例えば『法華経』の「序品」には「此土六瑞・他土六瑞」という瑞相が説かれ、釈尊が集まってきた衆生に妙法蓮華経という偉大なる法を説き始めることを知らせる場面が、生き生きと描かれています。
 その中で、「爾の時に仏、眉間白毫相の光を放ちて、東方万八千の世界を照らしたもうに、周徧せざること靡し」(開結一二四㌻)(そのとき、仏〔釈尊〕は、眉間にある巻き毛から光を放って、東方の一万八千の世界を照らされたが、その光はあまねく行き渡らないところはなかった)と、仏が眉間から光明を発し、東方万八千の世界という広大な領域を照らしだしたことが示されています。それぞれの世界では、仏が出現しており、菩薩や衆生が仏とともに修行し、平和で安穏な社会を築きあげている様相が描きだされていきます。
 また『仁王経』には、「大王吾が今化する所の百億の須弥・百億の日月・一一の須弥に四天下有り」(大正八巻)(大王〔プラセナジト王=波斯匿〕よ、いま私〔釈尊〕が教化する百億の須弥山に百億の日月があり、その一つ一つの須弥山に四つの大陸がある)としるされております。
 一つの須弥山と、それをとりまく太陽・月と四天下とは、現代天文学の知見からすれば太陽系に相当するでしょう。太陽のような恒星と地球のような惑星を有し、そこに知的生命体を誕生させている天体が百億もあるというのです。
 このように大乗仏教では、生命を宿す世界が宇宙に遍満することを大前提として法が説かれております。敷延すれば、仏教の法理による〈精神革命〉〈魂の革命〉が恒久平和をもたらし、それらの星における高度な科学技術文明を永続化させる原動力になるということです。
 博士 核時代は第二次世界大戦の終戦直後に始まったので、まだ五十年もたっていません。今後どれくらいつづくかが問題です。
 ここで、恒星の寿命が銀河系の百億年の歴史のなかに無作為に配分されていると仮定してみましょう。もし一つの原子力文明が五千年つづいてから自滅するとし、また数十億個の恒星が知的生命体の生息に適する惑星をともなっているとすれば、どの時点をとってみても数千の文明があるにすぎないでしょう。
 しかし、仮に平和主義的な哲学が私たちの望みどおりに、いつかは優位を占めるようになるとすれば、多くの文明が数百万年つづかないわけはありません。もしそういう状態が実際につづいてきたと仮定すれば、何百万という数の知的文明が、現時点において銀河系の中に共存していることになるでしょう。
 しかし、もし私たちが、宇宙から「こんにちは」という最初のあいさつを聞くことがあるとすれば、そのときこそ人類史の行路が劇的に変わることでしょう。私たちは、ようやく地球中心・自己中心の傲慢な態度を捨て去り、それに替えて地球の生態系全体を、そして全宇宙を考慮に入れるという姿勢、つまり仏教が提唱しているような姿勢をとらざるをえなくなるでしょう。

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