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日蓮大聖人・池田大作

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一 詩と科学と  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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7  ホイル博士との出会い
 博士 私は幼少のころから、数学がとても面白いものであると思っていました。また、幸運なことに数学が得意だったのです。ユークリッド幾何学を学ぶことがとても楽しみでした。この学問の中に初めて証明の本質を発見しました。その理論と厳密さが好きだったのです。
 後に天文学者になろうと思い立ち、大学で数学を学ぶことにしました。それは、数学こそが宇宙を探求するのに最も重要で最も強力な手段であると感じたからです。父から最初の指導を受け、その後セイロン大学で、幾人かの優秀な先生方から指導を受けることができたのは幸運でした。
 そのころ私に大きな影響を与えたのは、当時セイロン大学の数学教授であったC・J・エリーザー教授でした。彼は著名なケンブリッジ大学の数学者で、かつてクライスツ・カレッジのフェロー(特別研究員)を務め、有名な物理学者ポール・ディラックの弟子にあたる人でした。彼の講義をとおして私は、後年専攻することになった電磁気学の理論について洞察力を身につけることができました。
 当時は気がつきませんでしたが、実はエリーザー教授とフレッド・ホイル博士はケンブリッジの同期生で、しかも二人ともディラック博士の弟子だったのです。
 池田 ホイル博士の師にあたるディラック博士とは、特殊相対性理論と量子力学とを調和させた学者ですね。
 博士 そのとおりです。ディラック、エリーザー、ホイルというつながりから、私が最終学年の学位試験に臨んだまさにその年に、ホイル博士が学外数学試験官としてセイロン大学にやってくることになりました。まことに不思議なめぐり合わせでした。
 池田 それは、初めてうかがいました。
 その後、博士は、フレッド・ホイル博士とよく仕事をされています。ホイル博士は定常宇宙論の提唱者として有名であり、また『暗黒星雲』を書くなど、SF作家としても幅広く活躍されています。ホイル博士とは、どのようにして知り合いになられたのですか。また、どんな影響を受けられましたか。東西の文化・思想の出合いという側面からも興味があります。
 博士 一九六〇年に私は、ケンブリッジ大学の大学院で数学を勉強するために、イギリス政府から英連邦奨学金を給付されることになりました。私は跳び上がって喜びました。天文学を専攻する機会がとうとうやってきたからです。
 ホイル博士は当時、天文学と経験哲学のプルミアン教授の席にありました。もともと多くの研究生を引き受ける人ではありませんでしたが、私を受け入れることはすでに決めていたのです。
 まだセイロン大学にいたころ、私はホイル博士の執筆した二冊の古典的著書、『宇宙の本質』と『天文学の最前線』をすでに読み、深い感銘を受けておりました。ですから、コロンボの私のもとに、ケンブリッジに行く前に読んでおくべき本の一覧をしたためたホイル博士自筆の手紙が届いたとき、私は狂喜しました。そのときのうれしさを決して忘れることはないでしょう。
 池田 ホイル博士は、すでに若き博士の才能を鋭く見抜いておられたのでしょう。学問にも師弟の道がある。この世界的な天文学者との初めての出会いは、どのようなものでしたか。
 博士 一九六〇年の十月初旬、私はこの偉大な人物に、ケンブリッジのクラークソン・クロースにある彼の自宅で初めて会いました。最初、私はただおろおろするばかりでした。しかし博士は内気な性格であり、私もまたそうだったので、意気投合したのだと思います。
 博士はまた教師としてもすばらしく、私の生来の好みが天文学にあることをすばやく見抜き、私に合っていると思われる道筋にしたがって私を導いてくれました。彼はまず太陽物理学――この学問は、偶然にも前に申し上げた日食と関係があります――の一部門に私の興味を引きつけようとしましたが、その後、現代の天文学のなかでも最も興味あふれる領域の一つに向かう道を私に示してくれたのです。
 ホイル博士は、科学において正確さ、厳密さ、そして自己批評がいかに大切であるかを私に教えてくれました。また科学においては、たとえ確定した見解であっても、新たな事実が現れるたびに常にその見解の正当性が問われ、真偽が検証されるものである、ということも博士から学びました。
 私は書物や賢人の権威を敬う傾向性の強い文化圏の出身なので、初めのうちは、この教訓を自分のものにするのに手間取りました。西洋の科学理論がしばしばくつがえされる可能性をはらんでいるという現実を知って、目からうろこが落ちるような思いでした。このときから私は、純理論的な科学理論に強い疑念をいだくホイル博士の立場を、一貫して自分のものにしてきました。
 池田 なるほど。若き博士にとって、ホイル博士との出会いは、まったく新しい科学観との出合いでもあったわけですね。
 博士 ホイル博士は、今世紀最大の思想家の一人であると思います。定常宇宙論を提唱したことにより、ホイル博士は歴史的にみて、ガリレイやコペルニクス、ニュートンに比すべき重要な人物になったと思います。このことが認められず、いまだにノーベル賞を受賞されていない理由は、いうまでもなく、彼の理論が強力なユダヤ・キリスト教的パラダイム(=支配的な考え方)に反する内容であるからです。
 私とフレッド(=ホイル博士のファースト・ネーム)との付き合いは三十年以上にわたっています。
 今も彼は、定期的にカーディフにいる私を訪ねて来ますし、また、よく二人で歴史・哲学・政治から科学にいたるまで、さまざまな問題について夜更けまで延々と議論します。純粋に科学的な問題について当初意見が合わない場合は、厳密な議論と事実の詳細な検証によって、初めて同意に達するのです。
 池田 三十年以上の歳月をかけて意見を交換してきたわけですね。とくに宇宙塵についてのお二人の学説はたいへんにユニークですが。
 博士 私自身が行なった宇宙塵の性質についての研究から、一九七六年の半ばにいたって私は、宇宙塵が〈生きている〉と確信するようになりました。それはホイル博士よりも一年早い時期でした。
 当時、博士はアメリカにいましたので、私は計算した結果を手紙で送って意見の交換を始めました。一九七七年四月、私は共同研究論文の原案を書きあげて、当時コーネル大学の客員教授であったホイル博士に送りました。
 同年の五月五日と七日に受け取った彼からの返事は、私をとてもがっかりさせる内容でした。私が書いた共同研究論文の中で、「データは宇宙塵が〈生きている〉ことを示している」とした最後の一節に同意できない、と言ってきたのです。この結論は正当だとは思えないというのです。
 このような悶着が起きたのは、コーネル大学にいた彼の周囲に、宇宙に生命が存在する可能性を猛烈に否定する天文学者たちがいたことも、その一因であると感じました。私たち二人は手紙を交換して議論をつづけました。そして、データと計算の結果が明らかになってきたので、ホイル博士と私は一九七八年の末には、この問題について完全な意見の一致をみていました。
 池田 宇宙塵という微小な物質の中に生命を探ろうとされる博士の試みは、きわめて独創的で興味深いものがあります。
 ところで、スリランカからイギリスに留学されて、新鮮に感じられた自然との出合いもあったと思いますが。
 博士 私のこれまでの人生で最も印象的だった時間は、十九歳のときにホイル博士とともに、ワーズワースの詠んだ湖水地方を歩いたときのことです。子供のころから愛読した詩の中の風景を、今、自分は現実に見ながら歩いている――それは至福のひとときでした。
8  影響を受けた三人の詩人
 池田 博士は好きな詩人として、シェークスピア、ミルトン、そしてワーズワースの三人を挙げていますね。
 博士 まさに今、先生が挙げられた順番で好きなのです。影響を受けた順番も同じです。
 池田 私にとっても、三人とも青春時代から敬愛してきた詩人です。
 博士 シェークスピアは、いうなれば仏陀が理解するように世界を洞察していました。実験にもとづく科学的アプローチの仕方ではありませんでしたが、深い直観と才能で、人間と世界の真実を見抜いていました。
 またミルトンは、人間性の精神的側面を代表する詩人です。キリスト教的観点からではありますが、彼は、人間が求めてやまない大いなる神聖な〈何か〉と自身との合一を明快に表現しています。そしてワーズワースは、偉大な自然界の徳と恵みを美しく歌った詩人です。今や失われつつある緑の風景を、丘や湖のすばらしさを教えてくれます。
 池田 ワーズワースの詩の中で私が好きなものの一つにこうあります。
  わが心はおどる
  虹の空にかかるを見るとき。
  わがいのちの初めにさなりき。
  われ、いま、大人にしてさなり。
  われ老いたる時もさあれ、
  さもなくば死ぬがまし。
  子供は大人の父なり。
  願わくばわがいのちの一日一日は、
  自然の愛により結ばれんことを
 (「虹」田部重治選訳、『ワーズワース詩集』岩波書店)
 「子供は大人の父なり」(=子供の時代がもとになって大人がつくられる、という意味)との卓見は、教育者にとっても、父母や為政者にとっても、そして、かつて子供であったすべての人々にとっても、尽きることのないインスピレーションを与えてくれます。
 博士 私もこの詩が好きです。世界を発見しようとする子供のころの意欲をなくしてしまった大人は、もはや知的な人間ではなくなるのです。彼らは知性の階段を下へ下へとおりているのです。
 池田 その意味で、真に知的な人生とは、少年のようなみずみずしい好奇心と真理への愛を、最後まで失わない一生といえるでしょう。
 硬直した頭脳の人は、どんなに知識があっても知的とはいえません。そして仏教は、いわば〈宇宙即生命〉〈宇宙即一念〉という、外なる大宇宙と内なる小宇宙(人間)の連動・交流・交感の実相を、万人が自らの生活の中で一生涯、探求しつづけていくべきことを教えています。
 その探求は、知性の課題であるとともに、わが無限の小宇宙を開いて、永遠なる価値を創造しゆく境涯の確立の問題でもあります。
9  強く引きつけられた仏教
 博士 人間には、自分の存在理由は何なのか、どのような方向に向かっているのか、を見定めようとする基本的な欲求があると思います。方向の定まらない人生は、ドライバーなしで走る車のようなものだからです。人間の性質として、宇宙の中での自身の位置を知ろうとするのは当たり前のことです。また、そうした探求の中から宗教が生まれてくるのも当然のことといえます。
 また知性をもつゆえに、宇宙を考え、他の生命の存在にも配慮していける唯一の生物が人間です。地球に限っていえば、他の生命に寄生せずに自給自足できるのは植物だけです。人間も多くの生物のおかげで生存することができるのです。そのことを自覚し、他の生命への思いやりをもつところに、人間性の究極の証明もあると思います。
 池田 その意味でも、生命を慈しむ心、宗教心の復活が大切ですね。
 博士 そのとおりです。宗教心や倫理観の欠如が、今日、暴力の横行や弱者への冷酷さとなって表れています。今こそ生命の尊厳が、ぜひとも確立されなければならないと思います。ですから、私は仏教に強く引きつけられるのです。
 池田 生命の尊厳の確立といっても、生死の問題を解き明かした正しい生命観に立脚してこそ可能となります。これから順次、論じ合いたいと思いますが、生死の問題こそ人間にとって最重要の課題です。
 しかも生死の問題は人間ばかりでなく、動物や植物においても、さらには宇宙でも星の誕生と死の壮大なドラマが繰り返されており、生死の法則は宇宙に共通する法則であります。
 中国の天台大師は「起はこれ法性の起、滅はこれ法性の滅」(『摩訶止観』巻五上、大正四十六巻)と説き、現象の生起もその消滅も、ともに宇宙永遠なる〈法〉の顕在化と潜在化にほかならないことを示しております。日本の伝教大師は「生死の二法は一心の妙用」(『天台法華宗牛頭法門要纂』、『伝教大師全集』巻五上)と説きました。生も死も「一心」という人間内具の生命の働きであることを示しました。
 さらに日蓮大聖人は、「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし」と結論されております。
 わが生命の内奥に宇宙と人間とを貫く不滅の〈法〉を自覚し、その〈法〉にのっとって生き抜いていく。そこに一切を希望・価値・調和の方向へと回転させていく生き方が開かれていきます。最高に福徳に満ちた生命の軌道を歩んでいくこと――それが仏教の実践なのです。
 博士 興味深いことですが、今日、西洋の科学者の大半は、キリスト教の諸教義に対して本能的とさえいえるような拒絶反応を示しています。なかには東洋の哲学に知的な刺激と洞察力を求めようとする人もおります。例えば、フレッド・ホイルの信念はキリスト教と合致したことは一度もありませんが、仏教の教えるところとはほぼ一致しております。
 池田 ホイル博士と響きあうものはもともと備わっていたのですね。宇宙と生命とを貫く永遠なるものを探求する道程において、真実の師に出会い、師との深い思い出をもつ人生ほど、美しく充実しゆく幸福の境涯はないといえましょう。
 いみじくも博士は、十九歳のときホイル博士とイギリス湖水地方を散策した至福のときのことを語られましたが、私も人生の師と決めた戸田第二代会長に出会ったのが、十九歳のときなのです。
 師との思い出を大切に温め、師を誇りとし、師の理想を実現していく。そこには人間としての至高の〈道〉があり、いやまして英知の光が輝きわたってくると思うのです。

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